3
翌日。私は彼の淹れるコーヒーの匂いで目を覚ました。上半身を起こすと、彼はこちらに振り返った。その瞬間、彼の瞳の色が私の中に入り込んできた。
「おはよう」
あぁ…。
「よく眠れた?」
あぁ、なんということだろう。
「どうした?具合でも悪いの?」
彼はそう言いながらベッドへと近づいてくる。一歩、二歩。ゆっくりとした足取りで――少なくとも今の自分にはとても緩やかに見える速度で――私に向かって歩いてくる。
その最中、私の視線は彼の瞳にくぎ付けになった。
「リビングの窓、開いてたし。君、昨日の夜、起きてたりしたの?」
初めて見た。生まれて初めて彼の瞳の色を見たこの感情は、どこの国の言葉を使おうとも、どんな語学学者を呼んでこようとも、文字に起こすことはできないだろう。それは、その色があまりにも美しかったからだ。
そんなとき、ふいに心の中でカウントダウンが始まった。彼の瞳の色が見られる時間は、あと十数秒。
「ねぇ、お願い。こっちへ来て」
彼がその言葉でこちらを向いた瞬間、私は彼の頭を両の掌で包み込んだ。
「なに、今日は大胆だね」
笑う彼。
それとは反対に泣きそうになる私。
「あぁ、この色が」
美しく吸い込まれそうな青。初めて見る、美しい青。もっと見ていたい。大好きで、愛おしい、彼の瞳を。
そう思った瞬間、ぶわっと熱い涙が頬を伝った。嬉しくて、とても幸せで。
「ちょ、どうしたんだよ」
彼は私の涙に慌てた。
「やっぱり、具合が悪いんじゃないか?」
「ううん、違うの。違う。そうじゃなくて…」
あなたの瞳が美しくて泣いてるの。私は今、あなたと同じ色を見られている。それだけで、私は幸福だった。「ありがとう、ほんとうに」
そんなことを思っている間にも終わりは刻々と近づいてくる。
もっと、見ていたのに。一生このまま、私の人生が終わるまで彼の瞳を見られたらいいのに。
「ねぇ、聞いて」
彼が突然、喋り始めた。
「君が今、どうして泣いているのかは分からないけど、僕は確信をもって言えることがあるよ」
終わりまで、あと十秒。
「君と僕の見ている世界は違うかもしれない」
あと、八秒。
「見えている色が違うかもしれない。赤が、緑が、そして僕の瞳の色が君には違って見えているのかもしれない」
六秒
「けど、それでも見ている形、聞こえてくる音、香ってくる匂い。それらはすべて同じだろう?気持ちだって」
四秒。
「色が見えなくても、違って見えても、そんなことどうでもいい。少なくとも、僕は全く気にしないさ」
二秒。
「君が見ている色こそが美しいんだ。そう僕は思うよ」
カウントダウンが終わった。涙が止めどなく流れる。彼は私の背中に手を回し、私を抱擁した。
もう彼の瞳の色は青く見えなかった。いつも通りの色をしている。まるで青くなっていたのなんて嘘だったかのように。
けれど、私はもう虚無感に襲われたりなんかしなかった。それどころか、心のつっかえが取れたような気がする。
「病院、行こうか」
彼の言葉に、私は力強く頷いた。