

卒業生インタビュー
――浪工に進学された理由を教えて下さい。
実家が電器店を経営していたこともあり、
父が電子の世界が好きな人だったので、
「これからはコンピュータの時代だ」と勧めてくれて
電子の世界を覗こうと入学を決めました。当時のぼくにとって
浪工は謎に包まれている学校だったので、
志願兵として進学しました(笑)。

――課外活動の思い出を教えて下さい。
中学でもギターをやっていたこともあり、
浪工では担任の岡部先生に軽音楽部への入部を相談しました。
岡部先生から音楽部顧問の市場先生を紹介され、
当時休部状態だった音楽部の再興を自ら志願し、
一年生で部長になりました。
部長の証であるトロンボーンのバッチを制服につけて
誇りにしていました。すでにオリエンテー ションで仲間を
見つけていたので、三人で新生音楽部をスタートさせました。
当時普通科棟の横にあった武道館の部室は最初はホコリだらけで、
他のメンバーも音楽初心者だったこともあり苦労しました。
しかし練習を続けて行くうちに見学者が増えて行き、
少しずつ部員も増えて行きました。
音楽のムーブメントがまだなかった浪工にも、音楽好きは実はいたんです。
ぼくは常に音楽部の再興を考えていましたね。
私は当時なかったボーカルアンプとベースアンプが
欲しかったんですが、顧問の市場先生に一喝されました(笑)。
そこで社会福祉活動に参画することを提案しました。
成功すれば、買ってもらえるかな、と(笑)。
老人ホームの方々の前で、「猟奇納骨堂」というあえてシュールな
バンド名で、更にはかなりマニアックな格好で登場したのですが、
意外と皆さんに喜んでいただけて。
おかげさまでアンプを買っていただきました。
課外活動で上級生や下級生、先生と連帯感を学びました。
いつも市場先生が相談に乗って下さいました。
当時から面倒見の良い先生がとても多かったと思います。

一年生の時、体育祭で、
「我々音楽部は吹奏楽で校歌を演奏して差し上げよう」
と市場先生に提案して、実際に演奏することになったんです。
本当はマスゲームの練習が嫌で、それを理由に練習を
避けたい一心で提案したんですが(笑)。
ぼくは反抗期に反抗的な態度を取ることはある意味
素直な行動だと思っていました。だからこそ反抗期にあえて
反抗しないことこそが反抗であると考えていて、
参加をボイコットするのではなく、いかに違う方法で
それを切り抜ける方がクールではないかと考えていたんです。
多くの仲間を集めて、楽譜が読めない仲間と共に耳でコピーして、
独自のアレンジで演奏しました。これがとても好評で
二年生のときも演奏したのですが、
校歌を強烈なロック調にアレンジしすぎまして…。
三年生の時はマスゲームに参加してましたね(笑)。
文化祭も思い出深いです。一年に一度だけ私が光り輝く瞬間だと
思っていました。ぼくは実は使命感に燃えていたんです。
何に対しても無関心な生徒も多かったですが、
何の目標もなく学園生活を送るのではなく、
ぼくがこの学園にロックンロール旋風を巻き起こしてやろうと
企んでいました。


音楽部の顧問の市場先生がとても話のわかる先生だったので、
思い出深いです。
電子科の行澤先生はいつもおしゃれな銀色のスーツを
お召しになられて、とてもダンディーで威圧的でした(笑)。
浪工の先生はファッションも個性的な方が多かったように思います。
そして美術の岡本先生が特に印象的です。
とてもおしゃれで話の合う好きな先生でした。
当時上映されていた映画「旅の重さ」を紹介していただき、
実際に映画館で観て、いい映画を紹介していただいたと
尊敬していたんです。
岡本先生への評価が輝きを持つことになったのは、
前衛舞踏家の田中泯さんとジャズドラマーの
ミルフォード・グレイヴスを浪工に呼んだことです。
全身真っ黒に塗った田中泯さんと一緒になって
パフォーマンスを繰り広げられる生徒がいたら、美術の成績で最高得点与えようという粋な計らいもあり、ぼくは友人と共に参加しました。それがすごく強烈な
印象に残っていて、このパフォーマンスの授業は人生を
左右するぐらい、鮮烈に覚えています。
岡本先生は浪工という学校においてアバンギャルドでした。
自分の音楽の世界においての立ち位置を決めるような存在で、
忘れられません。