日常とフランスとジェンダー
『シェイプ・オブ・ウォーター』ずっと気になってた映画を、友人Aと観ました。友人Aとは学部生時代によく泊りがけで映画鑑賞会をしていました。私が大学院生になって引っ越してしまったので、今回はLINE通話を繋いだまま同時に再生して遠隔映画鑑賞会をしました。私はアメリカ映画はあまり観ないのですが、異種間恋愛が好きなので今回はこの作品を選びました。以下ネタバレを含みます。結論としては、「王子様を待つお姫様と、お姫様を助けに来る王子様」という定型ストーリーを逆にした、ジェンダー的な視点から見ても興味深い作品だと感じました。囚われの王子様と彼を救うために奮闘するお姫様の物語なのです。主人公の女性は基本的に物事に動じず、自分の意思を確固として持っているキャラクターです。そして彼女の傍らには、男性も恋愛対象となりうる(ゲイセクシュアルかバイセクシュアルかは作品内では提示されていませんでした。それも昨今の作品らしくてよかったと思います。)老人男性、夫の愚痴を言いながら一緒に働いている黒人女性というキャラクターがいます。ちなみに作中に出てくる「黒人」はこの主婦とその夫のみです。私の専門ではありませんが、このあたりは人種差別という面からも分析できることがありそうです。そして主人公の女性・イライザは声帯に問題があるのか、声を出すことはできません。耳は聞こえます。なので彼女が意思を伝える方法は、作中では手話のみでした。私はこの「声が出せない女性」という設定について考えてみました。この物語の設定は1962年、冷戦下のアメリカ。19世紀半ばから始まったとされているアメリカでの女性解放運動(フェミニズム運動)ですが、きっと人々の意識の根底には男女平等の意識は根付いていなかったのではないかと推測できます。実際に、主人公たちが働いている研究所の管理職の白人男性は「掃除婦」の彼女たちを完全に見下した態度をとっています。これは職業差別の面もありますが、女性差別的な面もあります。そんな状況下で声を荒げて男性に歯向かうことができる女性は決してマジョリティではなかったのでしょう。実際に、イライザの同僚の黒人女性・ゼルダは黒人男性である夫の愚痴をイライザに吐き出しますが、クライマックス付近になり友人であるイライザの身に危険が及ぶ可能性が出てくるまで、夫への反抗心を行動にうつすシーンは描かれませんでした。そんな状況で、「声が出せない」かつ「特定の相手にしか通じない言語である手話を用いて発話する」ことはある種のメリットであったようにも思われます。作中でイライザが上司かつイライザが愛する”彼”を殺そうとするストリックランドに「くたばれクソ男(日本語字幕より)」と手話で言う場面があります。この手話の意味を理解していたのは友人のゼルダのみです。ストリックランドは彼女が言ったことを理解できずにイライラします。なにかよくないことを言われたということは理解できたのでしょう。それまではイライザの発話内容はゼルダによって訳されて他人へ伝えられていました。しかしこのときにゼルダは嘘の内容の訳をします。ゼルダは上司であり男性であるストリックランドに本当の意味である「くたばれクソ男」と伝えずに「ありがとうございました」と訳して伝えました。これは当時の男尊女卑的な社会における、女性の本音と実際の発話内容の表現を示唆しているものだと考えられました。イライザが本音、ゼルダが実際の発話内容、です。ここでイライザとゼルダが同一人物の分裂した姿だと考えると腑に落ちるところが多々あります。イライザ→白人・独身・本音を話す・性的行動が描かれるゼルダ→黒人・既婚・本音を隠す・家事をする姿が描かれるなどなど、両者は対照的でありつつも、現実の人間ならその両面を持っているはずの面を片面ずつ2人のキャラクターが担っていると解釈することができます。また、両者の「白人/黒人」という面は「差別/被差別」の面の表現かなぁととらえています。舞台設定が1962年なのでね。(アパルトヘイトが撤廃されたのは1994年(wiki調べ))人間だれしも、差別的な面と被差別的な面があると、私は思います。また、イライザと心を通わせる”彼”についても考えてみます。”彼”はアマゾン出身の不思議な生き物で、水中で生活し、自己と他者に対しての治癒が可能です。私はここに、自身のうちのCanon(聖典、自分の中の王道ストーリー的なもの)の気づきがありました。まず、「水」です。私の趣味はフランス語なのですが、「海 mer」という単語は女性名詞です。また日本語でも「母なる海」と言うように、「水」といえば「女性」的なことを連想します。しかしこの作品では「水中」は完全に”彼”のテリトリーです。また、「治癒」という行動に対しても同様の気づきを得ました。たとえば何かしらのRPGなんかで治癒系のキャラクターって女性が多くないですか?ナースも女性のイメージが強いですし。「治療」になると男性も想定できるかもしれませんが、「治療」と「治癒」の違いについてはおいておいても、今回の作中で描かれるような「傷をその場で治す」役割は、個人的には女性の役割なイメージでした。また、イライザの性格や描かれ方にも同様のことが言えます。彼女は映画の序盤から自慰行為を示唆するシーンが描かれたり、「くたばれクソ男」という言葉づかい(手話づかい?)をしたりと、決して「清楚で」「か弱くて」「可憐な」タイプのキャラクターではありませんでした。この映画を見ていて、私と友人Aは思わず「かっこいい・・・」とつぶやいてしまうほどです。このような点から、「イライザが”彼”を救うために奮闘する」という行動以外のキャラクター設定にも「王子様」「お姫様」もしくは「男性的」「女性的」な要素があえて逆に設定されているのではないか、という感想を抱きました。このような点はジェンダー的に考えてもとても素敵で画期的な試みだと感じました。しかし、”彼”とイライザの関係性とそのキャラクター設定について考えてみると、意義ありな点も存在します。それは”彼”がアマゾン出身であり、イライザが白人なところです。アマゾン出身の”彼”は、イライザの力を借りて研究所から脱出し、ストリックランドに殺されずにすみました。「白人の助けがなければ死んでしまう」また「白人に殺されかけた」という点からは、アマゾン出身の「不思議な生き物」の生死は白人の手にかかっている、という捉え方もできなくはないのです。このあたりはあまり私の専門ではないのですが、「支配/被支配」という関係は、ジェンダーの領域でも重要なキーワードになりますので、無視はできません。どこまで監督や制作側の思惑が意識されて表現されているのかは、インタビュー等読んでおりませんのでわかりませんが、意識されてにしろ、無意識にしろ、制作陣のCanonが推測できる映画だったなぁと思いました。好きな映画です。
こんばんは、和希です。今日は大雨のなか美容院に行って髪の毛を染めてきました。初ブリーチでした。さて、タイトルの話なのですが、最近アルバイトを辞めました。働いていたのは某こども向け室内テーマパークです。辞めた理由はいくつかあります。今日はそのことについて書いていきたいと思います。①ヘテロ至上主義な身だしなみ規定「ヘテロheterosexual」とは、「異性愛」という意味の言葉です。ちなみに「ホモセクシュアルhomosexual」は「同性愛」ですね。どんな身だしなみ規定を私がヘテロ至上主義だと思ったかというと、「衛生上、修業中の手元のアクセサリー類は結婚指輪のみ付けてよい」というものでした。これを聞いた時に、私の頭の中には疑問が浮かびました。「『結婚』の定義とは?」→この場合の「結婚」を「法的婚姻」とするなら、2018年7月時点で法的婚姻が認められていない同性カップルは当人たちが「結婚指輪」としてつけている指輪をはずさなければいけないのか、ということです。「衛生面を気にするのなら、指輪の意味より装飾についての規制をした方がいいのでは?」→装飾についての規制は明記されていません。「衛生上」というのはアクセサリー類を制限するための口実にすら思えてきます。②他人へのリスペクトの大いなる欠如この企業は、高校生のアルバイトも雇っています。そうでなくとも就業中の大半はこどもたちと接する仕事内容です。そんな中でアラサーの男性社員が未成年の女性社員に向かって「俺、お前なら抱けるわ(笑)」と発言しました。ギリギリ就業中ではありませんでしたが、こどもと接する仕事に従事する成人男性とは思えない意識の持ち主だと思われました。この企業では、アルバイトも含めたスタッフに対してさまざまな講座を開催しています。この企業は多国籍企業かつある種の教育に携わる企業です。故に、昨今のグローバル社会に適応しようとしているのか、英会話に関するフォローが手厚いです。無料の英会話講座も開講しています。しかし、ハラスメント講座やジェンダー講座は存在しません。仕事を始める前に行われる8時間におよぶ研修でも、ハラスメントに関する話はありませんでした。昨今、セクハラ・モラハラ・アルハラなど各種ハラスメントが問題になっているというのに、です。少し話がそれますが、私は言語は道具・手段であって、あくまで大事なのは表現されている内容だと思っています。いくら方法・手段としての英語力があっても、話し手の中に伝えたいものがなければそれはほぼ無意味だと感じます。こういった理由から、私は形だけの英語を必死に取得しよう・させようとする態度には反抗したくなってしまうのです。そういった面においても、この企業とは考え方が合わないなぁ、と研修中にすでに感じていました。そして、やはり退社することに決めました。どうせ退社するのだからと、言いたいことを言って、企業としての見解をきいて、今後の研究に役立てたいと思った私は、面談を申し込みました。聞きたかったことは「御社は『結婚指輪』をどうとらえているのか。」「同性カップルであった場合は指輪は認められないのか。」「それは同性愛者差別ではないのか」「社員に向けて、ジェンダー教育やハラスメント講座をした方がいいのではないか」ということです。企業からの返答は「結婚指輪はヘテロカップルのもの。現在の日本で同性同士の婚姻が認められていないように弊社でも同性愛カップルの結婚指輪着用は認められない。」「同性愛者差別ではない。あくまで現時点の話であって、今後、社会が変化すれば弊社の規則も変化する可能性はある。でもそれを確約することもいつになるのか断言することもできない。しかし決して同性愛者差別ではない。」「実際に、トランスジェンダーの社員の性別変更の申し入れを受けて、変更後の性別として扱うようになった前例もある。」といったようなものでした。まず、この世にはいろんなカップルがいます。法的婚姻を選択しないカップル。法的婚姻ができないカップル。そのようなカップルにはそれぞれの理由や事情があります。それなのに「法的婚姻関係にあるカップルの指輪しか着用を認めない」というのはあまりに乱暴ではないでしょうか?次に、この企業は「同性愛者差別ではない」と断言していますが、どのあたりが差別ではないのでしょうか?「実際に~」と説明してるのはトランスジェンダーの方の話であって、同性カップルの指輪についての話とは少しずれている気がします。「セクシュアルマイノリティ」についての事例はすべて同じカテゴリに入っているのでしょうね。本当は個別の事例を別々に考えていかなければいけないのに。個人的に、「社会が変化すれば、弊社も変化する」というのは、まったく前進する気がないんだなと残念に思いました。他諸国では法律ができて、民衆がそれに従い文化ができていくと言われている一方で、日本というのは、民衆の文化から法律が生まれていくと言われています。つまりこのような企業の考え方ですと、なにも新しいものはうまれないと、私は思うのです。このような返答に対して私は、「わかりました。同性カップルの結婚指輪が認められるようになった時にはまた一緒に働かせていただきたいです。いつになるかわかりませんが。」と答えて、退社しました。ある意味で「白紙」状態のこどもと接する仕事をしている大人がこのような思考で仕事をしていることが、私はショックで残念でたまりませんでした。仕事内容はとても楽しく、為になるものでしたが、このような経緯でとある企業のアルバイトをやめました。現代社会の実情を知る、いい機会でした。誠にありがとうございました。
『リリーのすべて』(原題:"The Danish Girl")観ました。以下ネタバレ含みます。全体をとおしてきれいな映画でしたね。一番好きな、というか私の頭に残っているシーンは、婦人科の教授に「性転換手術の成功した前例はありません」って言われたときに妻のゲルダは「危険すぎる」当人のリリーは「唯一の光」と言ったところです。お互いの大事なものが何かがよくわかるシーンだったと思います。ゲルダにとってはリリーであれアイナーであれ、彼もしくは彼女が生きていてくれることが最優先事項だったのだと思います。ゲルダは自分のパートナーがアイナーではなくリリーとして生活することになっても、別居しなかったのは、どちらの性別であってもパートナー自身のことを愛していた・気にかけていたからではないでしょうか。たとえ「夫婦」としての形を保たなくなったとしても「家族」でいることを選んだように思えます。一方、リリーの最優先事項は「自分がありのままの自分として生きること」だったのではないかと、私は解釈します。「アイナーは死んだ」「アイナーを殺す」「消し去る」などと、強めの言葉で性別適合手術のことを表現していたのもその表れかと。リリーにとってもはやアイナーは消し去りたい存在なのではないかと思われます。しかし決してアイナーは自己中心的であると非難されるべきではないと考えます。なぜなら、性別適合手術を望まない人々は、性別という点では「自分は自分である」と認識できているのに、アイナーはそれができていないからです。いわゆる「ふつう」の人間よりも、リリーのアイデンティティは確固としたものではない、不安定で不確かなものかもしれません。そのような人間がアイデンティティを獲得するためには、自分の欲求をまず満足させる必要があります。リリーのゲルダに対する態度は責められるものではないと、私は考えました。最終的に、リリーは2回目の性別適合手術の後、亡くなってしまいます。最後は、リリーが身に着けていたスカーフが風に飛ばされるのをゲルダは追いかけずに飛ばされるままにするシーンで終わります。風に飛ばされたスカーフは言わずもがなリリー自身を連想させます。ゲルダは最後に、リリーを自由にさせてあげたかったのだろうな、と感じるシーンでした。また、ヘンリクという同性愛者に言い寄られるリリーは当初、男性の肉体を持っていましたが、1回目の手術で男性器を切除してからはヘンリクにとっての性的対象にはならなくなったという点からも、この映画は、「自分の求める自分」と「他者から求められる自分」の違いについての映画だったのではないか、と思います。
はじめまして。和希(かずき)といいます。一人称は「私」です。性別はご想像におまかせします。某大学大学院に通う修士1年生です。20代です。出身は関西です。話すとばりばり関西弁です。趣味はフランス語と映画とプリキュアです。ちょっと前まで声優のおっかけみたいなこともしてました。オタクです。このブログでは、自分が経験してきたことや考えたことについて書いていきたいと思います。モットーは、「経験する前から決めつけない」です。いろんなことに挑戦するのが好きです。今はボルダリングに挑戦したいと思っています。顔文字はパソコンで打つのがめんどくさいので基本的に使わないです。こんな感じです。コメントも質問も随時受け付けているのでお気軽に話しかけていただけたら嬉しいです!よろしくお願いします。