酒気帯び運転による事故のニュースを聞かなくなったと思ったら、
今度はイジメによる自殺のニュースを毎日のように目にするようになった。
小中学生は、日々の生活に於いて、学校生活の占めるウェイトが大きいので、
そこでイジメに遭うことは、いっそう精神的に追い込まれるに違いないだろう、と思う。
放課後だって、小学生なら遊び相手は学校の友達であることが少なくないだろうし、
中学生なら部活動で共に過ごす相手はやはり同じ学校の生徒たちなのだ。
それだけに学校は比重が重い。
それで、不思議なのはなぜ誰も「逃げろ」と言わないのだろうか、ということだ。
死ぬなんて勿体ない。君ひとりの命ではない。
今はつらくても、いつかきっと生きていてよかったと思える日がくる…。
君が死んだらお父さんやお母さんや友達がかなしむ…。
有識者や文部科学大臣やその他いろいろの人々のコメントを目にして私は思う。
逃げたっていいではないか。と。
学校は学問を身につけるところであるばかりでなく、
友達や、まわりの人々との関係を通して社会性を身につけるところだ、という。
でも、その学校で精神を培う有用な人間関係を得られないとしたら、
そしてそれ故に勉強どころではないとしたら、
学校生活にはどんな意味があるというのだろう?
学校だけが、社会性や学問を身につける場所ではない。
学校から離れたっていいのだ、と思えたら、
自ら死を選ぶほど追い込まれずに済むのではないか。
肺炎をわずらったら、暖かく清潔なところにひたすら横たわって身体を休めるように、
死を思うほど精神的に追い詰められたなら、神経を苛むもののないところで、精神を休める必要がある。
学校を離れてどうするか考えるのは、心が快復してからのこと。
彼または彼女は独学に適しているのかも知れないし、
少人数制のフリースクールに向いているのかもしれない。
或いは早々に大工の見習いとして徒弟生活を送るのが性分に合っている子だって
いるかもしれないではないか?(義務教育制度は別として。)
恙無く学校に行ってくれなくては困る、というのは大人の方の事情なのだ。
教育は学校の中だけで施されるものではない。
そのことを、私は先日能の家の子たちの舞台を見ていて思った。
あの凛々しい表情。幼いながらの責任感は
彼らが平日日中通っているであろう学校で培われたものではないのだ。
小中学生の自殺のニュースを聞くたび、私はそんなことを思う。
自殺したくなるくらいの学校なら、行かなくたっていいではないか。
死ぬよりむしろ、学校から逃げるのはどうだろう?