あっという間に12月です。年末で何をしなくても締め切りが近づいた気分になりますね。このところ、喪中欠礼の葉書も舞い込んできて、色々な想いがわいてきます。
介護保険がスタートして10年目ということで、今年はその間の推移や問題点の整理、次に向けての展望などの講演会があちらこちらで開催されました。日本の高齢化のスピードは、世界に類をみません。
私を含めた団塊世代はその数の多さゆえに消費者として、労働者としていつもターゲットの中心とされてきました。これからは多死の時代といわれています。この世代がどのように死んでいくのか、それにつれて介護、死に場所、葬儀の形態などという人生の終末期がどのように変わっていくのか最後まで注目を集め続けるでしょう。
少し前までは、親を医者にも診せられずにあの世に旅立たせてしまったという、忸怩たる思いを抱えた人がたくさんいました。病院で、親を看取ることは親孝行のシンボルでした。そのような思いがあり、日本、とくに都会では病院で死ぬことが常態化しました。
私自身、両親は病院で亡くなっています。そのときはそれが当たり前だと思っていました。色々な管に繋がれ、口に呼吸器をくわえさせられた親の姿は衝撃的でした。苦しくて管を自分ではずしてしまうとかで、両手を拘束された姿を見た時には涙が溢れそうになりました。本当にこれでよかったのかしら。もう体力も無く、仮に回復をしてもたかが知れているのにと。
「病院とは病気を治すところであるはずです。死ぬための場所ではなく、死と戦う場所であるべきだ」
病院、医師たちは、このように考えて行動をしています。それゆえにこの処置は間違ってはいない。医師たちの使命は、生かすことであり治すことで、病院は本来はそのための場所なのだから。
現在、死亡最頻年齢(亡くなる人が最も多い年齢)は、男性85歳、女性90歳です。そのような方が、老衰であるにもかかわらず、病院に入院し、人口呼吸器、胃ろうで、自然死を望むべくも無く生かされているという事態が発生している。これでいいのでしょうか?医療と介護は似て非なるものと、遅まきながら気がつきました。
「身体機能が低下したときにどこで暮らしたいか」という質問に、67%もの人が「自宅」と答えています。死ぬまで自宅で過ごしたい、多くの人はそう望んでいます。私自身も、病院で管に繋がれて生きていたくはない!と感じています。
でも、病院以外の場所での終末に備える看取りのシステムはまだ未整備なのです。特に夜間のケアへの対応が手薄です。核家族化して親子同居が減少している今、一人暮らしの老人には切実な問題です。支払可能な金額でそれが手に入るシステムを作り出していきたいものです。
自分自身の死を自分でデザインできる時代にいるのは幸せであったと思えるといいですね。
三谷ますみ