娘は6歳になる直前に「自閉症」と診断された。
そして家族の運命はかわっていく……。
力作『数字と踊るエリ』(講談社刊)を上梓した著者の衝撃の告白。
■絶望のなか、訓練を開始
発達障害の子どもに、(医療的治療が不可能であっても)治療的教育を施すことを「療育」という。自閉症の療育にはさまざまな方法があるが、僕が注目したのはABAと呼ばれる行動療法だった。その中でも特に、一九八七年にカリフォルニア大学ロサンゼルス校のロヴァース教授が報告した早期集中療育に関心を持った。
そのプログラムは一言で表現すれば、自閉症児ができないことをしらみつぶしに改善してゆこうとする、徹底的な方法だ。
スプーンで上手く食事ができない子には、後ろからセラピストが手を添えてあげる。それでも上手くできなければ、口のところまでスプーンを持っていってあげる。たとえ全面的にセラピストがやってあげても、上手くできればほめて「ご褒美」をあげる(逆に、かんしゃくを起こして欲しいモノを手に入れようとするような、不適切な行動は無視される)。それが独力でできるようになったら、セラピストでなく、親が付き添って同じ訓練をする。親と一緒にできるようになったら、今度はレストランに連れて行き、スプーンで食事をさせてみる。
自閉症児は一つ物事ができても、同じことを違う場面で応用することができない。だから根気強く、一つずつできるようにしていくのだ。
ロヴァース教授が三~四歳の自閉症児一九人に対し、週四〇時間、マンツーマンの療育を二年間施した結果、一九人中九人が普通学級に進んだ。この九人はIQが平均二〇ポイントも伸びたという。週一〇時間以下の療育しか受けなかった子どもと比較すると、差は歴然だった。
このABAに基づく療育法に関しては、日本よりアメリカのほうが圧倒的に進んでいる。アメリカでは二〇〇六年に法律が制定され、療育法の研究に大きな公的助成がなされるようになったからだ。自閉症児のまま成人させるよりも、療育を施すことで症状を緩和し、社会生活に馴染んでくれたほうが国の経済的な支出が少なくて済む、という計算が働いた結果だが、自閉症児を抱える親にとっては願ってもない話だったはずだ。
しかし日本では、そういう公的助成がないのはもちろんだが、ABAに基づく療育に対する感情的反発も強い。つまり「あんなものは動物の調教と同じじゃないか」という反発だ。
だが僕はこの方法に希望を見いだした。このまま放っておいてもエリが幸せになれる保証はない。エリによりそって、週に四〇時間は無理にせよ、可能な限りさまざまな訓練を施そう。そうすれば、いつかは普通の子どもと見分けがつかない程度になってくれるのではないか。もちろん専属のセラピストを雇う余裕はないし、そうしたサービスを提供しているところは日本にはほとんどない。すべて自分たちでやらなければならない。僕はその覚悟を固めた。
だが一方で猛烈な後悔に襲われた。ロヴァース教授は、療育を開始するのは三~五歳が最も効果が出ると報告している。ある研究では、五歳以前にこのアプローチを受けた子どもは六七%に効果が見られたが、六歳以降に始めた子どもは一〇%にしか効果が見られなかったという。僕が精神科医にエリを診てもらったのは、彼女の六歳の誕生日の前日だった!
教育委員会から特殊学級を勧められたとき、すぐに診察を受けていれば……。僕の決断力の弱さが、エリの貴重な時間を無駄にしてしまったのだ。
ボロボロ涙がこぼれてきた。
〈だからって、何もしないで諦めるわけにはいかないよな。エリ、歩けるところまで歩いてみようぜ。もしそれ以上進めないってことになったら、そこでパパと一緒に倒れよう〉
ボロボロボロボロ涙が出てきた。
■「お教室ごっこ」と「なぞなぞ」
エリの小学校入学が近づいていた。それまでに少しでも療育を進めて、エリが普通学級での生活にスムーズにとけ込めるようにしなければならない。そのためには家族一丸で取り組まなければならないだろう。
だとすれば、クリアすべき問題が一つあった。妻にエリが自閉症だと打ち明けることだ。
妻の体調は相変わらずすぐれないままだ。その妻にショックを与えず、どう告白するか。悩みに悩んだ末、エリが保育園に行っている間に、妻のために買っておいた少しだけ値の張る緑茶を差し出しながら、僕は一気に吐き出した。
「サキには自閉症の疑いがあるという診断が出ている。三年間頑張れば治る。君の協力が必要だ」
僕からこれまでの経緯についてかいつまんだ説明を聞き終えると、妻が言った。
「一人でいろいろ苦労させちゃったわね。でも、私、いまさらあの子が発達障害だと聞いても驚かないわよ。ああ、いままで大変な思いをしてきた理由がこれで分かったわ」
予想外の反応だった。拍子抜けすると同時に、僕はホッとした。
そして次の日。保育園の最後の登園日だった。
他のお母さん達に挨拶があるからと、妻がエリを送っていった。
しばらくして帰ってきた妻は、私の前に座り黙り込んだ。妻の顔が歪んだ。
「あの子が障害を抱えていたなんて……」
そうつぶやいて、彼女は静かに泣き始めた。
*****
それからの僕は必死だった。小学校の入学までのわずかな期間で、エリが学校生活についていけるような訓練をしなければならない。
「エリ、『お教室ごっこ』しようよ」
僕はそう言ってエリの関心を引き、学校の玄関口で靴をしまう場面、「一年一組」と書かれた自分の教室(寝室に机と椅子を置いた)に入る場面、ランドセルをしまう場面、号令に合わせて「起立、礼、着席」をする場面という具合に、細かくシミュレーションを繰り返した。
さまざまな素材集を買い込み、パソコンで学習用のカードもいろいろ作成した。反対語を表裏に印刷した反対語カードや、場面理解のために「これはなにをしているところか」を答えさせるためのカードなど、多くの教材を自作した。自閉症児の療育用の適当な教材が少ないからだ。
こうしたカードはいつも手の届くところに置いておき、ちょっとしたすき間の時間を利用して、エリに取り組ませた。どれくらい効果が出るかは分からない。でも方法はこれしかなかった。夜の時間はこの教材作りに費やされた。
こうした療育は小学校入学後も続いた。
僕は、ABAに基づく療育に精通した、ある在米日本人セラピストにメールで連絡を取り、療育についていろいろとアドバイスを受けることにした。彼女は、療育に「なぞなぞ」を取り入れることを勧めてくれた。
「空に浮かんでいる白いものってなーんだ?」
「…………」
「空に浮かんでいる白くて、ふわふわしているものってなーんだ?」
「…………」
「空に浮かんでいる白くて、ふわふわしていて、雨を降らせるものってなーんだ?」
事実上「雲」の定義を教えているのだが、こんななぞなぞを何度も何度も繰り返した。一問答えられれば、僕のパソコンでキノコの写真を一枚見せてあげた。エリは一時期、キノコに夢中だった。なぜキノコなのかは分からない。一つ一つのキノコに、それぞれ変わった名前が対応しているのが面白かったのかもしれない。
学校では担任の先生が、教室移動になっても呆然と立っているエリの手を引いて導いてくれるなどの配慮をしてくれた。そうしたサポートのお陰もあって、エリの学校生活は思っていた以上にスムーズに進んでいるようだった。
そして初めての授業参観。エリの学校での生活ぶりを知るため、僕も教室に足を運んだ。
廊下を歩く僕の姿に、自分の席にいたエリは気づいたようだった。しかしそれは、単なる一瞥でしかなかった。「いつも家にいる人がたまたま学校に来ているんだな」といった風情で、とても自分の親を確認したときの表情ではなかったのだ。
さらに授業が終わると、エリは他の子の母親に「ペット、なに飼ってる?」などと聞いて回っていた。初対面の一人一人に、出しぬけに同じ調子の質問で、だ。
「訓練しても、やっぱりこんなものなのか」
正直に告白すれば、僕は激しく落胆した。
(第7回につづく)
情報元
G2(ヤフーNEWS)