こんばんは、赤い鯉人です。

前回の日記の続きです。

 

宇都宮餃子を二軒はしごして、腹ごしらえをしてから、

宇都宮二荒山神社(ふたあらやま)に参拝します。

 

「二荒山神社」というと日光二荒山神社(ふたらさん)も

名高いですが、両社はいずれも下野国一之宮とされています。

歴史的には、日光二荒山神社が、8世紀に勝道上人が

修行場として開いたと言われているのに対し、

宇都宮二荒山神社は一層古く、仁徳天皇の治世とも言われ、

伝説的ですが、その場合、4~5世紀に当たるようです。

 

仁徳天皇の治世中、毛野国が2つに分けられ(上野国・下野国)、

そのうち、下野国の国造に任じられた奈良別王が創建したそうです。

御祭神の「豊城入彦命」(とよきいりひこのみこと)は、

第10代崇神天皇の子で、東国を鎮めたとされており、多くの武将から

篤い尊崇を集めました。

 

以来、宇都宮の都市は、この二荒山神社を中心として栄えました。

一説には、「いちのみや」が訛って「うつのみや」になったとの

由来も伝わるようです。

 

(JR宇都宮駅西口から徒歩20分ほど、東武宇都宮駅や餃子通り

からほど近いところに、立派な鳥居がそびえ立っています。)

 

 

 

(長い石段を登り、神門をくぐって、拝殿に至ります。)

 

ここからは、私の好きな歴史の話です。

宇都宮は、藤原氏北家の藤原道長の兄の関白・道兼の子孫を称する

藤原宗円が、平安時代に二荒山神社の宮司を務めて宇都宮氏の初代となり、

以来、戦国時代末期に至るまで、500年以上にわたり、宇都宮を

統治したそうです。その間、鎌倉時代には有力御家人として幕府を支え、

源頼朝や、鎌倉時代末期には楠木正成にもその武名を称えられたとのこと。

室町時代の関東は、鎌倉公方や関東管領の争いが続き、混乱の中に

ありましたが、その中でも有力守護として大きな影響力を持ちました。

戦国時代の関東は、小田原の後北条氏が関東一円を席巻しますが、

宇都宮氏は、有力家臣との抗争で弱体化しつつも、常陸の大名・佐竹氏と

組んで後北条氏の北上に抵抗し、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して

本領を安堵されましたが、突如改易となり、江戸時代には水戸藩に

仕えたようです。

 

元来、宇都宮二荒山神社の神職だった宇都宮氏が武士団に転じるのは、

諏訪大社の大祝から武士団に転じた諏訪氏とも重なるものがあります。

諏訪氏の武力を「諏訪神党」という武士団が担ったように、

宇都宮氏の武力は、益子氏(氏)と芳賀氏(原氏)を中心とする

「紀清両党」という武士団が担い、武名を天下に轟かせたそうです。

 

500年余にわたり、歴史の表舞台で大きな影響力を持ち続けた

背景には、宇都宮氏の当主に何人もの優れた人物を輩出したこと、

そして、強力な武士団がその武力を支えたことによるところが

大きいと思われます。

 

そして、日本の歴史上にも名を残す大豪族を生み出した、

宇都宮二荒山神社の影響力の大きさに改めて驚嘆しながら、

家路に就いたのでした。