僕は今、
頭の天辺から足の爪先まで
満ち足りた気分だった。
余韻までもが贅沢に感じた。
こんなに美味しいもので
腹を満たせるというのは
この上なく幸せなことだ。
僕の向かいの席では
大好きな彼女が微笑んでいる。
これはもう、
この世の楽園ってやつだと思った。
スペシャルメロンショートケーキ、
ついに食べました。
坂道グランドホテルという
老舗高級ホテルの一階には
パティスリー欅という
スイーツ専門店がある。
僕はそこでしか提供していない
スペシャルメロンショートケーキに
恋い焦がれていた。
それを
由依さんと食べることができた今日は、
たぶん僕の中で記念日になるだろう。
ビバ!!自分!!!
まだ昼過ぎなので、
このまま由依さんと
水族館にでも行こうと思っている。
理由は至って簡単。
この暑い日に、
目にも涼しい場所といえば
水族館しか思い付かなかった。
デートといえば水族館。
それだけだ。
由依さんにはそうは言えないけれど、
暑いとそんなもんでしょ?
違うのか・・・?
会計を済まし店を出ようとした時、
由依さんが僕の服の裾をキュッと
引っ張った。
え、何、可愛いんだけど・・・
なんて思ったのは束の間、
そのままギューっと
力強く引っ張られ驚いた。
「どうしたの?」
僕がそう聞くと、由依さんが
「何あれ」
と少々ドスの効いた声を出した。
僕は一瞬怯んだが、
どうもその声は
僕に向けられたものではなかった。
由依さんの視線を辿ると
ホテルのエレベーターホールに
行き着いた。
カートを押したポーターが
視線を横切ると、
そこには、土生さんと理佐さんがいた。
土生さんは
由依さんのお兄さん、
理佐さんは
由依さんの大学時代からの友人だ。
そんな二人が何故か腕を組んでいた。
エレベーターが開くと
二人はそのままそれに乗った。
え・・・
なに今の・・・
どういうこと?
土生さんは
奥さんの美波さん一筋のはずだし、
理佐さんは先月、
志田さんと結婚したばっかだよね・・・
え、嘘!?
マジで・・・
いやいやいや、見間違いでしょ。
他人の空似ってやつ。
あの二人に限ってそんなこと、
まずナイでしょ・・・
ナイナイ。
由依さんを見ると
完全に目が据わっていた。
「兄さんも理佐も何やってるのよ・・・」
由依さんがそう言ったので、思わず
「まだヤッてないかもよ・・・」
なんて余計な事を言ってしまった。
けれど幸い由依さんには
聞こえていなかったみたいで、彼女は
「行くよっ」
と言うと、
エレベーターホールへと駆け出した。
そして、エレベーターの
レトロな階数表示板を睨んだ。
土生さんと理佐さんが
乗ったエレベーターは、
どうやら最上階で停まった。
それを確認すると由依さんは
開いた別のエレベーターに乗った。
僕も慌てて乗り込んだ。
昼下がりの情事ってやつだろうか・・・
でもな・・・
「由依さん、仕事ってことない?」
「リサーチ会社の人間と
公務員が一緒に何の仕事をするのよ」
「あ、じゃあ、このホテルの最上階で
セミナーがあるとか」
「セミナーに何でわざわざ
腕組んで行くわけ、信じられないっ」
僕の言ったことは
由依さんの怒りに油を注いだだけだった。
折角のデートがぁぁ・・・
これじゃあ浮気調査じゃないかっ!?
ため息を堪えていたら最上階に到着し
エレベーターの扉が開いた。
すると、長身の男が
僕らの目の前を猛スピードで
通っていった。
瞬きをしている間に、
その男の後を追いかけるように
理佐さんと土生さんが、
これまた猛烈な勢いで走っていった。
三人はあっと言う間に
非常用階段へと消えた。
何なの!?
僕が呆然としていると、由依さんが
「追うよっ」
と言って非常用階段へと走った。
もうわけがわからなかった。
僕を含む五人が
烈火の如く階段を下っていた。
その足音は、
それはもう怒号のように鳴り響いた。
たまたま非常用階段の保守点検に
来ていたであろう作業員が
僕たちを見て目を丸くし、
口をあんぐり開けていた。
端から見たら今の僕は
犯人を追う刑事にでも見えるのだろうか?
それならまだマシか・・・
そんな事を思いながら僕は追いかけた。
正直なところ、
何で追いかけているのか、
わからなくなっていた。
第一、土生さんと理佐さんが
追いかけている相手は誰なんだ?
階段を下りエントランスを抜けるまで、
好奇な視線を浴び続けた。
恥ずかしかった。
目の前で繰り広げられる逃走劇は
やはり物珍しいのだろう。
僕だってこんなの初めだ。
ホテルを出ると先頭を走る男が
何とか確認できた。
その男は、
黒のキャップに
カーキ色の上着を着ていた。
アイツだ!と直感した。
いつぞや事務所を二度も覗き見していた
モッズコートの男。
声を掛けようとすると
足早に去って行った怪しいヤツ。
よくよく目を凝らすと
上着はカーキ色のロング丈だった。
間違いなくモッズコートだ。
このクソ暑い日に何であんなの
羽織ってるんだ!?
ん!?
そういう自分も
ジャケット羽織ってるじゃないかっ!
今日は老舗高級ホテルでの
デートということもあって、
少しドレスアップしていた。
だから、珍しく
ジャケットなんて物を着ていた。
クソッ、どうりで暑いわけだ。
もう、何なんだよアイツは・・・
何分走ったのだろう?
息が切れていた。
人通りの少ない住宅街の道に入った。
もう走るのは限界だと思ったその時、
先頭を走っていたモッズコートの男が
消えていた。
土生さんと理佐さんが立ち止まった。
僕と由依さんは二人に追いつくと、
肩で息をしながら呼吸を整えた。
土生さんは少しだけ息が上がっていた。
けれど、理佐さんには
全くそんな様子が見受けられなかった。
どこか走り慣れているような感じがした。
すると土生さんが理佐さんに
何かを渡した。
半透明のそれは、
手錠のような物に見えた。
玩具みたいな手錠だな、
なんて思ったのだけど・・・
おもちゃ・・・
まさか大人の玩具かぁぁ!?
昼間から一体
どんなプレイをするつもりだったんだ・・・
嗚呼、もうっ
この際モッズコートの男の事は
どうでもいい。
僕は思ったことを口に出していた。
「土生さん、見損ないましたよ。
あんなに素敵な奥さんがいるのに」
すると土生さんは、
「え、何言ってるの?」
と首を傾げた。
そのとぼけた態度には、
いくら土生さんとはいえ腹が立った。
今、目の前にいるのは
紳士的で茶目っ気があって人柄の良い
由依さんのお兄さんではない。
スケベ心丸出しの最低野郎だ。
「昼間っから何してるんですかっ!
ホテルにしけこむなんてっ」
「しけこむ?いや、違うって」
「何が違うんですかっ、
玩具まで用意しといて」
「あれは、だから誤解だって・・・」
土生さんはこの時、
僕と由依さんの服装を見て
僕らがデートしていたことに
気がついたらしく・・・
「平手くんこそ何やってるの・・・
えっ・・まさか由依とホテルに・・・」
「ケーキ食べに行ったんですっ!」
「そんなの嘘だぁぁ!!
絶対下心があるに決まってる」
「嘘じゃないですっ!」
「証拠は?証拠はあるのっ」
「有りますよっ!レシートがっ」
「いや待てよ、そんなの信用できない。
ケーキと由依は別腹なんだろ、
白状しろっ」
「何なんだそれっ」
「先にデザート食べといて、
メインを残しておくなんて・・
破廉恥だぞっ」
「はぁぁ、あなたこそ破廉恥でしょ、
昼間っから新妻とぉ」
「僕は潔白だぁ~」
「僕も潔白ですっ!!」
ある意味このやりとり自体が
破廉恥なのかもしれない。
そんなもんだから当然お叱りを受けた。
「「うるさいっ!!」」
僕と土生さんは
由依さんと理佐さんに
思いっきり睨まれた。
それはもう
ゾッとするくらい冷たい目で・・・
「二人とも、
そのどうでもいい話やめてくれない」
由依さんはそう言った後に
ひと言つけ加えた。
「あと兄さん、私、
子供じゃないんだからね」
妹の凄みのある声に
土生さんは完全にシュンとしてしまった。
すると理佐さんが、
「由依も平手くんも何か勘違いしてる」
と言い僕らを見た。
「理佐、どういうことなの説明して」
由依さんがそう尋ねると、
理佐さんは、
「ごめん、少し待ってくれる」
とスマホを鞄から取り出し
どこかに電話を掛けた。
そして、電話を掛け終えると、
「説明はちゃんとするから、
今から私の職場に来てくれる」
と言った。
「職場?何でですか?」
僕がそう聞くと、
どうもここでは説明できない事情が
あるみたいだった。
少しすると
白のワンボックスカーが来た。
理佐さんと土生さんに促され
僕と由依さんはその車に乗り込んだ。
僕は自分の置かれている状況が
上手く飲み込めなかった。
それは由依さんも同じようで、
彼女は不安からか、
僕の服の裾を掴んでいた。
こんな不安定な状況でも
彼女の仕草が可愛い
と思ってしまう自分がいた。
車内は沈黙していた。
ふとモッズコートの男の事を思い出した。
理佐さんと土生さんは、
僕らに気づいて逃げていたわけではない。
あのモッズコートの男を追いかけていた。
でも、何で?
それに、理佐さんは、
追跡中の身のこなしが
妙に玄人じみていた気がする・・・
あれっ・・・
そういえば数ヵ月前、
理佐さん、ウチの事務所に依頼に来た時、
あの男を見るなり猛然と追いかけてた・・・
彼女、公務員って言ってたけど、
もしかしたら警察官なのか?
でも、それならなんで
土生さんも一緒になって
追いかけてたんだ?
わからない事だらけだった。
自分の置かれている状況が
まるで理解できず、
なんだか急に心細くなった。
理佐さん、
貴女は一体何者なんですか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーー