夕暮れの道をテクテク歩いた。
昼間は熱を放出していた
地面のアスファルトも、
今は呼吸を止めたように静かだった。
病院から片流楢(かたるなら)さんの
自宅までは何とか歩いていける距離に
あった。
由依さんに
今の僕の思いというか、決意というか・・・
“探偵であり続けたい”
と伝えたくて、
そればかりを考えていたら
自転車のことを忘れていた。
自転車も一応大事な僕らの足だ。
結構重宝している。
今日だって自転車を飛ばしたから
人助けになったわけで、
これが徒歩とか
バスを乗り継いで行っていたら
間に合わなかったかもしれない。
それに、僕の気持ちを後押ししてくれた
望来(みらい)ちゃんの言葉を
聞くことができなかったかもしれない。
たまには自転車を労って
油でもさしてメンテナンスしてやろう、
そう思った。
疲れていたが、
良いことをした自覚があったので、
足取りは自然と軽かった。
けれど、今更ながら
車で行けばもう少し楽だったかも、
なんて思っていた。
でも、もう過ぎたことだから
よしとしよう。
片流楢さんの自宅が見えた。
玄関先には車が停まっていた。
玄関から大きめの紙袋を持った女性と
ペット持ち運び用のケージを抱えた少女が
出てきた。
その少女は僕に気がつくと
「探偵さ~ん」
と言ってケージを地面に下ろし
手を振った。
望来ちゃんだった。
入院用の荷物を取りに来たという。
白猫のユイさんの面倒は
少しのあいだ望来ちゃんがみるようだ。
望来ちゃんのお母さんは
僕に気がつくと、
「すみません、
お送りすれば良かったですね。
ご自宅この辺りなんですか」
と言い、ばつの悪そうな顔をした。
僕は、
「いえ違います。
忘れ物を取りに来たんです。
そこに自転車ありませんか」
と聞いた。
すると、
「自転車ですか・・・ん?・・ありませんよ」
と返ってきた。
僕は慌てて駆け寄った。
救急隊の人が寄せたのでは
と思い庭も探したがなかった。
実のところ、
自転車には鍵を掛けていなかった。
片流楢さんの様子を
ちょっと見るだけだと思っていた。
何でもなければ
すぐに事務所に戻るつもりでいた。
まさか本当に倒れてるなんて
思わなかった。
自分では思いのほか
終始冷静に行動できたと思っていた。
でも、やはり多少なりとも
気が動転していたようだ。
自分が自転車で
片流楢さんの自宅に行ったことを
病院を出るまですっかり忘れていた。
今日中に思い出せて
良かったと思っていたのに・・・
遅かった。
自転車、盗まれました・・・
さっきまで軽かった足が
一気に重くなった。
そのまま地面にヘロヘロと
座り込んでしまいそうだった。
「お送りしますね」という善意に甘えて、事務所まで送ってもらった。
望来ちゃんが去り際に
やたら元気に手を振ってくれた。
だから一応振り返したのだけど、
もうそれで精根尽きてしまった。
外は薄暗くなり、
事務所から明かりが漏れていた。
僕はトボトボと事務所に入った。
「ただいま」
「おかえり!大変だったわね」
「うん・・・あのさ、自転車盗まれた」
「え、どこで?」
「片流楢さんの家の前・・・
鍵掛けるの忘れてて、ごめん・・・
ハァァ、ついてねぇ」
すると由依さんはニコッと笑った。
「謝る必要ないでしょ。
あのボロボロの自転車と引き換えに
人の命を救ったと思えばいいじゃない」
そして、僕の肩をバシッと叩いた。
「ヒーローはもっとシャキッとしろっ!
よし、じゃあご飯食べに行こっ。
奢ってあげるから」
由依さんの言葉と笑顔に
僕は俄然元気を取り戻していた。
自分があまりに単純過ぎて悲しい・・・
僕は急いで一度
事務所の二階にある自宅に帰った。
そして、シャワーを浴び、
着替えを済ませると
由依さんの待つ事務所に戻った。
辺りはすっかり暗くなり、
街灯が灯っていた。
ところどころから虫の音が聞こえてきた。
足早に家路につく人をちらほら見かけた。
僕と由依さんは
夕食を食べにどこかに向かっている。
はて、どこに向かっているのだろう?
という疑問を彼女に投げ掛けると、
こんな返しがあった。
この先にある、
“徒歩”四十分の焼肉屋、
“徒歩”三十分の寿司屋、
“徒歩”十分のお好み焼き屋、
どれがいい?
どれがいいって言われても・・・
あからさまに“徒歩”を強調してるよね。
つまり、事務所の財政的には
お好み焼きってことなのだろう。
「あ、お好み焼きがいいな」
最初から一択じゃないか。
でも、あのソースの香りはたまらない。
わりとすんなり
お好み焼きモードになっていた。
僕らはゆっくり歩いた。
特に会話はなかった。
けれど、気不味さはなかった。
今は何となくそれが心地よかった。
風も心地よかった。
お好み焼き屋の赤提灯の灯りが
妙に優しかった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
「もし、職業の記憶が戻っても、
僕は探偵を続けたい。
この先も探偵でいようと思う」
お好み焼き屋を出て、
由依さんを家まで送る途中に
僕は今の思いを彼女に伝えた。
僕としては決意表明のつもりだったから、
少し緊張感を持って伝えた。
由依さんはそんな僕を見ると微笑んだ。
そしてケロッとした顔をして言った。
「私は最初からそのつもり、
探偵の方が性に合ってるかなって」
僕とまったく同じことを
思っていたみたいだ。
なんだか嬉しくなって
笑いが止まらなくなった。
二人で笑いながら歩いた。
久しぶりに声を出して笑ったら
心が軽くなった気がした。
由依さんの右手が僕の左手に触れた。
そのままそっと指を絡めて手を繋いだ。
鼓動が高鳴った。
それと同時に
懐かしいような安心感を覚えた。
過去にもこんな感じで
手を繋いだことがあったような・・・
記憶は所々捕食されてしまった。
けれど、体は過去の感覚を
覚えているのかもしれない。
「懐かしいね・・・手繋ぐの」
由依さんが抑制の効いた声でそう言った。
「覚えてるの?」
僕が聞き返すと
彼女は小さく首を横に振った。
「んー覚えてない・・・
でも、なんとなく懐かしいの」
一瞬、彼女の細い指に力が入った。
ドキリとした。
そうしたらもう
繋いだ手元が気になって、
親指がやたらパタパタ動いてしまった。
「ちょっと、くすぐったいんだけど」
由依さんは笑いながらそう言った。
嫌がられて手を離されたら
どうしようかと思った。
だけど、彼女は僕の手を離さなかった。
ゆっくり手を繋いだまま歩いた。
それでも、気がついたら
彼女のマンション前まで来ていた。
「名前のことなんだけど・・・」
由依さんはそう言うと僕をチラリと見た。
「うん・・・」
名前の記憶の事だろう。
あれから、一度も話題にしていない。
正直言って、僕は気にしている。
由依さんはどうなのだろう・・・
「何て言うんだっけ・・・平手○○?」
はい!?
○○って、
それもう穴埋め問題になってるし。
由依さんの聞き方に
僕は思わず吹いてしまった。
「あはっ、ごめん。
友(ゆう)、友って呼んでたよ前は」
僕がそう言うと、
彼女は僕の名前を
何度も繰り返し口に出して言った。
そして突然
とんでもない注文を出してきた。
「名前なんだけど、
ゼッケンみたいに前後に
書いておいてくれたら、
その都度聞かなくて済むんだけど」
なにそれ・・・
由依さん、
僕としても名前を呼んで欲しいのは
山々なのですが、
いつもゼッケンをつけて過ごすのは
さすがに恥ずかしいです。
「それはチョット・・・」
僕は渾身の困り顔を作った。
すると彼女は悪戯な笑みを浮かべた。
「冗談に決まってるでしょ」
由依さんはクスクス笑った。
でも、その横顔は
憂いを帯びているように見えた。
そんな顔しないでよ・・・
僕は思わず彼女の手を強く引き
抱き寄せていた。
彼女の熱が伝わってきた。
彼女は僅かに肩を震わせていた。
「冗談やめてよっ」って、
さっきみたいに
クスクス笑っているんだと思った。
でも、違った。
彼女は僕の腕の中で泣いていた。
そっと彼女の背中を擦った。
彼女が僕の前で泣くのは
初めての事だった。
悔しくて、悲しくて、
けれどその感情のやり場がなくて、
やるせなさだけが残る。
記憶が捕食されている事を知った日から
僕らは痛いくらい切ない思いを
共有していた。
それとは別に、
僕は今、嬉しくなっていた。
何故かと言うと、
普段は弱さを見せない彼女が
その姿を素直に見せてくれたからだ。
嬉しさついで
というわけではないけれど、
実は邪念が沸々と湧いていた。
もしも・・・
もしもこのまま
彼女の部屋に上がり込んだら
目眩く展開もあるのではないか。
弱った彼女に
漬け込むような方法だけれど、
今は心も体も僕に預けて欲しいと
思っていた。
正直なところ、
僕の体は熱くなり
下半身は既にうずいていた。
そんな時、着信音が聞こえてきた。
由依さんの鞄からだった。
その着信音はなかなか止まらない。
どうも電話のようだ。
彼女は指で涙を軽く拭うと
律儀にその電話に出た。
「・・・はい、ん?
何やってんのよ・・・うん、
はい・・・切るよ、じゃあね」
ものの十秒あまりの短い通話だった。
「あ、兄さんから」
何てタイミングだ・・・
「美波に掛けたつもりだったみたい。
私が出たから驚いてた」
え、それホント・・・?
どっかで見てるんじゃないよね・・・
僕はいつかの土生さんの言葉を
思い出した。
(指一本でも触れたら承知しないから)
(下半身にしっかり節操を持とう。
わかってるよね)
土生さん、
もしかしてエスパーなのか・・・
背中がゾワッと寒くなり
鳥肌が立っていた。
僕はブルッと身震いをした。
「風邪引いたんじゃない?
私、ここで大丈夫だから、
今日はもうゆっくり休んで」
由依さんはあっさりとそう言った。
「あ・・・うん、じゃあまた明日」
僕は軽く右手を上げてそう言った。
土生さんからの電話で
心は完全に萎えてしまっていた。
けれど、体は正直なもので
まだ熱を持っていた。
由依さんに背を向けて歩き出した時、
「友、さっきはありがと・・・おやすみ」
と彼女が言った。
僕は振り返って
「おやすみ」
と言い手を振った。
そして、
彼女がマンションに入って行く
後ろ姿を見届けた。
彼女が名前を呼んでくれた。
これが一時的なことだと
わかっていながらも僕は嬉しかった。
今は由依さんが僕の名前を聞いてから
それほど時間が経っていない。
でも、明日になればまた
“平手”とか“アンタ” なんていう呼び方に
戻っている。
彼女はゼッケンをつけるという提案を
冗談めかして言っていた。
ゼッケンはやはり恥ずかしい。
けれど、
彼女が僕の名前を見聞きすることで、
今みたいに“友(ゆう)”と
名前を呼んでくれるなら、
せめて名札をつけるのはどうだろう・・・?
そんなことを
本気で考えている自分がいた。
繋いだ手に、
抱きしめた腕に、
まだ彼女の感触が残っていた。
思わぬ形で僕と由依さんの関係は
また少し前進したのかもしれない。
なんとなく、
のぼせたように頭がボーッとしていた。
くしゃみが出た。
あれっ、ヤバい・・・
これって本当に風邪かもしれない・・・
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