目の前で厳つい髭面の大男が泣いている。


人目をはばからずに号泣している。


人目といっても、
この男性の周りには
僕と由依さんしかいないのだけど。


赤の他人の前で、よくもここまで
声を出して泣けるものだと
感心してしまった。


でも、病み上がりで
いきなりこれはキツい。





僕は、
人命救助に貢献し、
自転車を盗まれ、
大好きな彼女を抱きしめたあの日の夜に
風邪を引き熱を出した。


二日間は熱でフラフラしていて
まったく使い物にならなかった。


昨日になってようやく熱が下がり、
今日から何とか通常運転に戻っていた。


通常運転とはいえ、
この依頼人の応対をするのは、
今の僕には少しパンチが効きすぎていた。



先週からすでに、今日の朝一に
調査報告の予定は入っていた。


だけど、ここまで盛大に泣かれるとは
思いもしなかった。





目の前にいる大男は浮気調査の依頼人だ。


依頼人は二回り以上年下の妻の浮気を
疑っていた。


後妻だというその妻は
調査を進めると俗にいう
清楚系ビッチだということがわかった。


かなり年上が好みのようで、
依頼人と同年代の初老の男性数人と
関係を持っていた。



依頼人に証拠写真を見せると、
はじめのうちは時が止まったかのように
写真を凝視した。


そして、次第にワナワナと震えだし、
怒り狂うのかと思った途端に泣き出した。



浮気調査の報告では、
調査を依頼しておきながら
調査対象者が真っ黒だとわかると
キレる人がたまにいる。


中には、

“こんなこと知りたくなかった”

“どうしてくれるんだ”

などと理不尽な事を言い出し
喚き散らす人もいるから困ったもんだ。


だったら依頼なんかしなければいいのに、
と思いつつも、
証拠はちゃんと掴んだのだから
依頼料はしっかりいただく。


こっちは仕事なんだから当然だ。



今、僕らの目の前にいる依頼人は
この世の終わりなのかと思うくらい、
ただただ泣いていた。


顔の穴という穴からまるで滝のように
涙やら鼻水やらヨダレやらが
流れ出ていた。


僕は、どう声を掛けていいのかわからず、
そっとボックスティッシュを差し出した。


依頼人はそれに気が付くと
しわがれた小さな声で、

「すいません」

と言い豪快に鼻をかんだ。


大きな背中を丸め、
目を真っ赤に腫らした姿は
見るに堪えないくらい悲哀に満ちていた。


これが映画やドラマだったら、


この俳優すごいなぁ・・・


なんてその演技に感服して
終わりなのだけれど、

現実となると、そうはいかない。


演技ではない本気の号泣を見せられ、
それが泣き止み落ち着くのを
ただ待つことしかできない。



依頼人に気づかれないように
由依さんと目配せし合っていた。


普段の彼女なら
依頼人の前で表情が崩れる
なんてことはまずない。


しかし、今回ばかりは珍しく
哀れみの目になっているように感じた。





依頼人が欲しかったのは
浮気をしている証拠ではなく、
“していない証拠”だった。


疑いたくはないけれど、
“していない証拠”を掴む事で
自身を安心させたかったようだ。



けれど、結果は違っていた。



依頼人の本心などわからない。


だから、どの程度なら
想定の範囲内だったのかもわからない。


でも、
大の大人がこれほどまでに
泣き喚くということは、
まるっきり想定外だったと
いうことだろう。



愛する人を疑うこと自体が
不純な気もするが、
この依頼人は純粋に見えた。


だけど、依頼人が愛してる人は
不純な人だ。


混じりっけ無しか有りか。


純水と不純がマーブル模様になって
グルグルしていた。





なに考えてるんだ、僕は・・・



また熱が上がってきたのだろうか・・・





愛があれば年の差なんて関係無い
という人がいる。


でも、愛が無くなったら
年の差しか残らない。


愛で埋めていた
ジェネレーションギャップが
あからさまに際立つのではないか・・・


そんな勝手な想像をしてしまった。



この依頼人の場合、
不幸中の幸いと言うのかは
わからないけれど、
奥さんはどうも後妻業では
なさそうだった。


だから、
どんなに尻軽であっても、
依頼人にまだ愛があることを
願わずにはいられなかった。



それで救われるかはわからないけれど・・・





調査報告をしたら僕らの仕事は
そこでおしまい。


あとは当人同士で
なんとかしてもらうしかない。







落ち着きを取り戻した依頼人の鼻は
真っ赤だった。


彼は僕らに礼を言うと、
静かにトボトボと事務所を出ていった。


力無く丸まった大きな背中が
やたらと痛々しかった。


あとには大量のティッシュの山が残った。


僕と由依さんはそれを見ながら
同時にため息をついていた。



するとそこに先程の依頼人とは正反対で清々しい顔をした高齢男性がやって来た。


片流楢(かたるなら)さんだった。


回復が早く
昨日の午前中に退院したという。


わざわざお礼の品を持って
事務所に来てくれた。


そのお礼の品とは、なんと自転車だった。



「私のせいで泥棒にあわれたみたいで、
    何だかすみませんでした。
    仕事に必要かと思いまして」


片流楢さんはそう言いながら
自転車を事務所の中に押してきた。


「これを使ってください」


それは、新品ピカピカだった。


綺麗な自転車というのを
久しぶりに見たもので、
顔がほころんでいた。


盗まれたボロボロの自転車には
申し訳ないが、
あの日、自転車で行ってよかった。


結果が人命救助になったから
言える事だけれど、
本当に自転車で行ってよかった。



ありがとう、ボロボロの自転車!


そして、ようこそ、ピカピカの自転車!!



ついさっきまで
どんよりとして、まるで梅雨空みたいに
暗く重苦しかった事務所の空気が、
一瞬で換気されたみたいに
スッキリとしていた。


僕も由依さんも素直に喜んでいたのだが、
その自転車をよくよく見ると、
どうもそれは量販店等で販売されている物ではなさそうだった。


少々、瞬きが止まらなかった。



今、僕らの目の前にある自転車は
チョットお高い自転車専門店の
ショーウィンドウに置かれていそうな、
そんな自転車だった。


折り畳み式で、
タイヤはたぶん20インチはあり、
変速機がしっかり装備されていた。


チラリと見えたロゴを確認すると
上等な海外ブランド品だということが
わかった。


正直、仕事で使うには勿体ないくらい
高価な物だった。



片流楢さんは、
命を助けてもらったのだから
これでは足りないくらいだと言った。


僕らは充分過ぎると
逆にペコペコしてしまった。


けれど、結局素直に受け取った。





「人生で二度も
    探偵さんにお世話になるとは
    思いませんでした」


片流楢さんはそう言うと
笑いながら頭を掻いた。


来月には、孫の望来(みらい)ちゃんが
通う小学校で運動会があるという。


保護者が参加する競技があるようで、
望来ちゃんからそれに出て欲しいと
言われているらしい。


だから、今から運動しておかなければと
今日も自転車を押して歩いてきたという。


また熱中症にでもなったらと
ヒヤヒヤしたが、
本人は至って元気だった。


同じ病み上がりでも
僕とはえらい違いだ。


気力がみなぎっている
パワフルな老人に圧倒されてしまった。



片流楢さんは再度礼を言うと、
足取りも軽く事務所をあとにした。



僕は由依さんと、
自転車に見合う鍵を買わないと、
なんて話をしながら
先程のティッシュの山を
ごみ袋にまとめていた。



そんな時、
今度は和装の上品そうな婦人が
事務所を訪ねてきた。


その婦人は、簪(かんざし)で
真っ白い絹のような髪をまとめ上げ
淡い灰色の着物を着て、
深緑色の風呂敷包みを抱えていた。


依頼人かと思いきや
その婦人は、



「先日は主人が大変お世話になりました」


と言った。


はて、何の事だろうと
僕も由依さんも考えてしまった。


“先日は主人が”と言うくらいだから、
たぶん、ここ最近事務所に来た依頼人の
奥さんということになるのだろう。



けれど、どの依頼人のことを
言っているのだろうか・・・?



該当しそうな依頼人が
さっぱり思い浮かばなかった。





婦人は髪こそ真っ白だったが
小顔の童顔で年齢不詳だった。


鼻筋の通った整った顔立ちで
カラーコンタクトをつけたような
少し青みがかった瞳をしていた。


少し神経質な性格のようで、
事務所の外を通る車の音に
いちいち反応していた。


そして、
この婦人が纏っている雰囲気は、
どこかミステリアスに思えた。



でも、どこか見覚えがあるような・・・





婦人は不安そうに、


「こちらは、K探偵事務所ですよね・・・」


と確認してきた。



「はい、そうです」


と由依さんが答えると、
婦人はチャーミングな笑顔を見せて、


「では間違いありません。
    先日はありがとうございました。
    主人を助けてくださり
    本当に感謝しております」


と言った。





助けた・・・?



最近の依頼で助けたとなると、
犬と猫、あとフェレットぐらいだ。


人間となると、
調査はしたけれど助けてはいない。




ん、ちょっと待て・・・



助けてるな・・・



最近の依頼人ではないけれど、
かつての依頼人なら助けている。



え・・・ええっ!?



この人、片流楢さんの奥さん!?



まさかぁ・・・



思わず心の声が出そうになり、
慌ててそれを飲み込んだ。



驚いたら鼻が垂れてきた。


僕は婦人に背を向けて鼻をかんだ。


まだ少し頭がボッーとしていた。



なぜ今日に限って
朝に来客が集中するのだろう・・・



今日が始まったばかりなのに僕は少し
しんどくなっていた。





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