[火曜日、午前8時45分]


図書館組は身支度を済ますと
開館前に出掛けて行った。


寮に残った僕と志田先輩と
殿様・・・じゃなくて、てちさんは

昨日使ったロープと懐中電灯、
キンキンに冷やしたペットボトルの
スポーツドリンクを持って
井戸に向かった。


てちさんは、僕があげた
緑色のビーチサンダルを
気に入ってくれたみたいで、


「これは、良いのぅ~!」


と、ごきげんだ。



外に出ると太陽がギラギラと輝き、
これでもかと熱を発していた。

地面ではそれに答えるように
アスファルトの熱気で
陽炎が揺れていた。



今日も暑い。


蝉は、この世の春、という感じで
合唱してるし、

今日も道路工事が行われていて
ジージー、ギィーギィー、ガーガー
と人が働いている音が容赦なかった。


てちさんは、
道路工事の音に驚いていたけど、


「静寂も良いが賑やかなのも良い」


と言い、
蝉の声と工事の音で
リズムを取っていた。

この音で楽しめる人がいるとは
思わなかったから、
こっちが驚いてしまった。



井戸のある木陰まで来るといくらか
涼しかった。

僕はてちさんに、
ペットボトルの蓋の開け方を教えた。


初めて飲むスポーツドリンクは
お口に合ったようで、


「美味である」


と言いながら一口飲む度に
ペットボトルのラベルを見ていた。


そんなてちさんを見た志田先輩は、


「飲み方まで似てるんだな~」


と言って笑った。


僕はそういう事を言われる度に
自分を客観的に見ている様な
不思議な感覚を覚えた。





一般的な井戸については
ざっと調べた。

浅井戸と深井戸があるらしいけど、
僕らが何とかてちさんを
引き上げられたってことは
この井戸はたぶん、
深さ10m程の浅井戸なのだと思う。


"浅"井戸というけど十分深い。

浅井戸は、雨水を汲み上げ
農業や生活用水として使われていた
ようで、飲み水としは
使われていなかったらしい。

深井戸の水は
自然に濾過されていたらしいから、
深井戸の水が飲み水として
使用されていたのだろう。

江戸時代は
結構衛生的だったみたいだ。





僕達は3人で井戸を覗き込んだ。


懐中電灯で照らしてみたが
暗くて底までは見えなかった。


昨日引き上げに使ったロープに
少し大きめの石を括り付けて
落としてみたら底まで届いた。

やはり深さは10m弱あるみたいだ。


よく引き上げたもんだ。


なにより、
僕らが引き上げたとはいえ
垂直な井戸をロープ一本で脱出した
てちさんの身体能力は凄いと
感心した。


お武家様というのは
よほど鍛錬しているのだろうか。

僕なんか昨日の夜から
腕が筋肉痛なのに、
よじ登ってきた当の本人は
ケロッとしていた。


そういえば、
朝からラジオ体操をして
軽快に腕を回していた。

どうやらてちさんは
筋肉痛とは無縁のようだ。




井戸に垂らしたロープを引き上げた。


括り付けた石が消えていた、
何てミステリーは起こらなかったし、

てちさんが井戸に吸い込まれていく
といった怪奇現象も起こらなかった。


目の前にあるのは、
何の変化も起こらない
ただの枯れ井戸だった。




井戸の周辺を探ってみた。



昨日は、驚きのあまり
井戸の周りを見る余裕なんて
全くなかった。


よく見回してみると、
心地よい木陰をつくっている
欅の木に隠れるようにして
石碑が建っていた。



石碑は僕の膝上くらいの高さで
かなり苔むしていた。


この井戸も石碑も
僕が生まれる遙か昔から
この場所にあって、
奇跡的にあの昭和の戦禍も
免れたのだろう。


てちさんが現れなかったら、
僕はこの場所に足を踏み入れることは
なかったのかもしれない。


なんだか小学生の頃の夏休みに
祖母のいる田舎に行って
近所を探検した事を思い出した。





石碑の表に刻まれた文字は
薄くなっていたけど、
かろうじて読むことはできた。


側面には、"若君の井戸"
と書いてあった。


「"若君の井戸"とは
 いささか変わった名であるな」


と、てちさんは首を傾げて言った。


僕と志田先輩は、その"若君"とは
たぶん貴方のことですよ、とは
言えなかった。

もしかしたら、
井戸に落ちたことで有名な人
だったのかもしれない。

実際には落とされたのだけど、
今も昔も話に尾ひれを付ける人は
いただろう。

そのうち事実とは全く違う話として
広まってしまったのかもしれない。

面白がって後々の誰かが付けた
名前だとしたら、
てちさんが可哀想だ。



石碑のもう一方の側面も
見てみると、
今度は一文が刻まれていた。


こちらも文字は薄くなっていたけど
はっきりと読むことができた。



そこには、


"どうぞ安らかに" と刻まれていた。





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