私は双極性障害II型(躁鬱病)を患っており、精神障害者保健福祉手帳2級を所持しています。

他に自律神経失調症と、軽めの睡眠障害をいくつか併発しましたが、現在は軽微化しています。

 

職業はWebシステム開発/運用に関わるエンジニアです。デザイナーやサーバ管理者も兼任しています。

 

この記事は、健常どころか陽キャであった私が鬱病と診断され、入院を経て社会復帰を図るまでの闘病記録です。

絶頂だった陽キャ人生

子供の頃から明るく目立つ性格で、何か集まりがあるとよくリーダーを務めていました。

行動意欲に溢れ、遊びにしろ仕事にしろ、自ら発案し積極的に提案・実践するタイプでした。

 

男女問わず友人は多く、集まっては飲んで、朝までバカ騒ぎを繰り返していました。

後にSNSにてオフ会コミュの管理人となり、少なくとも月に1度はオフ会を開催していました。

このとき結婚と離婚、そして複数女性との交際を経験しています。

休みの日にはレジャーに出かけたり、オフ会参加者を集めてバーベキューをすることもありました。

 

つまり、精神疾患とは縁遠い人生を送っていたということです。

人生の転機「起業」

21世紀に入る頃、それまで勤めていた会社を退職し、自分のやりたいことを追求しようと個人事業を始めました。

大変ではありましたが、これまでやりたくてもできず温めてきたアイデアを形にする喜びがあり、没頭しました。

 

1年ほど過ぎた頃、私と同じように2名の元同僚(私を含めいずれも元役職者)が退職し、私の事業を3人で大きくしないかと話を持ちかけてきました。

ちょうど人手不足に困り会社を設立しようとしていたところですし、この二人が信頼できる人物であることから、すぐにもやろうという運びになりました。

 

前職で店舗経営を行っており、地元有名企業の社長を父に持つ者が、社長に就任しました。

営業部から来た者は、そのまま営業を行うことになりました。

技術面の全作業はこれまで通り私が一人で担うことになりました。

 

経理事務や営業から解き放たれるだけでもずいぶん助かると思っていましたが、それは甘い考えでした。

個人と法人では、取引相手となる企業の規模も数もまったく異なります。大きな案件も増えます。

私は設計、開発、デザイン、サーバ管理、勉強、営業に渡す資料の準備まで、すべて一人でこなしていました。

 

スケジュールは非常にハードで、土日や祝日でも休むことは少なく、深夜までの作業が続きました。

いよいよ複数案件が重なり余裕がなくなると、事務所に泊まり込んだり、帰宅しても自宅で朝まで仕事をしていました。

 

自分にしかできないことで代わりがおらず、とにかく毎日ガムシャラでした。

後に社員を採用することになりますが、しばらくは教育という仕事が増えただけで楽にはなりませんでした。

過労で倒れ仕事ができなくなる

前兆はいくつかありました。

  • 体が重く、疲れが取れず、クラクラするときがある
  • 頭の中に霧がかかったようになり、考えがまとまらなくなる
  • 目の前にある作業になかなか取り掛かれなくなる
  • 会話の理解や物事の判断に時間がかかる
  • 表情が変わらなくなり、精気が感じられなくなる
上記には、他者に言われて気付いたこともあります。
疲れているのだろうと考えていましたが、あるとき自室で椅子から立ち上がった際にふらっとして…
 
「ゴンッ」
 
受け身なしで前のめりに倒れ、頭をフローリングの床に強打しました。
自分が倒れたことを理解していましたが、そのまま動けませんでした。
 
しばらくすると当時の妻がやってきて、私が(転んだ等ではなく)倒れたこと、さらに私の様子がおかしいことに気づきました。
後で聞いて知ったのですが、感情が感じられない表情で目は虚ろ、声掛けにうまく応答できず、なぜか涙を流していたとのことです。
 
病院に運ばれましたが、このときのことをほぼ何も覚えていません。
脳波には異常がなかったのですが、先に書いた諸症状がひどく悪化しており、まるで生ける屍のような状態でした。
当然おわかりと思いますが、倒れた原因は過労です。労災に認定され、休暇を取りました。
 
休暇中、「一時的な鬱病になったのかも知れない」と考え、適当に選んだ地元の精神科に通院を始めました。
 
まさかこれが悲劇の始まりになるとは思いもしませんでした。

薬害のおそろしさを知る

仮にK医院としますが、医師から鬱病であることを告げられ、とりあえず薬を出されました。
この薬が曲者で、コレ大丈夫なのかと目を見開くほど大量でした。
 
後に書くJ医院の院長先生によれば、
 
薬事法で定められた限界くらいの量
 
を出されていました。
専門家に言われなければ、素人では異常なのか判別できない点が恐ろしいと思います。
もちろん当初は疑うこともせず飲み続けましたが、一向によくならないばかりかひどい副作用に悩むようになりました。
 
さすがに積もった仕事が心配だったのですが、泥酔者のようにあちこちに手足をぶつけながらふらふら歩く状態で、デスクについても頭が回らず、ほぼ何も手に付きませんでした。
そして最終的にはしゃべることができなくなりました。呂律が回らず、もはや聞き取れという方が無茶な状態でした。
 
このようなことがあるたび医師に相談しましたが、大したカウンセリングもなく淡々と薬を変更し続け、量はほぼ一定でした。
 
このとき妻は、自身の父に私の症状や薬のことを相談していました。
当時の義父は有名な薬品メーカーの営業で、大きな病院の有名な医師を紹介するから行ってみては、と提案してくれました。
 
しばらく考えた末、片道1.5時間以上と遠いですが、より良い治療を求めてJ医院に通うことにしました。
紹介された医師は院長先生で、各地を巡って講演したり、書籍も出版しているような有名人でした。大変パワフルな方です。
 
まず今飲んでいる薬を見せたところ、
 
なんでこんなに薬出してるんだ?
 
と驚かれました。
なんと出されていた薬の大半は不要か過剰で、今困っている様々な症状は不要な薬による副作用、つまり「薬害」であると告げられました。「ジャンキー」という言葉も出ました。
 
なお院長先生は、K医院の名前を聞いたとき「ああ、あそこか…」と言っていました。
後に知りましたが、どうやら点数稼ぎのために過剰な薬を出す医院があるそうで、K医院はその筋で有名だったようです。
 
かくして減薬作戦を決行することになりましたが、問題があります。
抗鬱剤としてSSRI(当時の日本ではほぼパキシル)を処方されていた方ならわかると思いますが、飲むのをやめたり減らしたりすると、苦しい副作用が出ます。
副作用に耐えられずOD(オーバードーズ / 薬を多量に飲んでしまうこと)に走る患者さんもいるそうです。
 
飲み忘れたり通院が遅れて薬が途切れた際に経験していますが、「目のピント合わせに連動して頭痛が起き、前頭葉の辺りでギンッと音がする」という副作用が最も堪えました。
 
日常生活中に意識してみればわかると思いますが、目のピント合わせは頻繁に、というかほぼ常に行われています。
そのためほとんど常時、頭痛と「ギンッギンッギンッギンッギンッ…」と休みなく続く不快な音に悩まされました。
 
結果、自力で毎日経過を観察しながら少しずつ減薬するのは難しいということで、入院を勧められました。
私の判断力が鈍っていたこともあり、両親に相談して決めることにし、手続きも両親に行ってもらいました。
 
なお、ここまでで数年かかっています。
 
仕事は傷病手当の期間も切れ、復帰したり長期休暇したりを繰り返していました。
もちろん収入の安定など望むべくもありません。

入院生活で健常者でなくなったと思い知る

私は病気による入院は何度か経験しています。病名がなかなか判明せず、1ヶ月以上入院したこともあります。
非常に退屈で、食事がおいしくない思い出が蘇り、嫌だなと思っていました。
 
しかし入院初日、まったく予想していなかった問題に直面しました。
 
「周囲の皆さんが見るからに重篤な精神疾患」
「妙に厳重で、自由に外にも出られない環境」
 
まず入院施設である通称「鬱病棟」(正式にはA病棟)に入った瞬間、空気というか世界が違うことがわかりました。
皆さんぐったりと元気がなく、例えは悪いですが、健常者としての生活が長かった私にはまるでゾンビのように見えました。
窓の方を向いてブツブツつぶやき続けている人もいます。まさに悪夢の中で異世界に迷い込んだ気分でした。
 
ここで大変なショックを受けたのは、
 
「自分もこの方たちと同類なのか…!」
 
ということです。失礼極まりないのは承知のうえですが、これが偽りのない心の声でした。
このとき受けたショックは、退院後もずっとコンプレックスとして引きずることになります。
 
次に「ナースセンター内」を抜けて二つのドアを通過しないと、外へ出られない仕組みに驚きました。
もちろん二つのドアは施錠されており、医師か看護師が協力しなければ閉じ込められたままです。
 
「自分は外に出てはいけない人間になってしまったのか…!」
 
これによって「腫れ物を見る」ではありませんが、周囲には近い印象を持たれているのかも、という気持ちが芽生えました。
「まさか自分が」そのような扱いを受けるとは夢にも思っておらず、大きなショックを受けました。
 
そして説明を受けて、またしても驚くことがありました。
 
「自分の意志で退院できない!?」
 
もしかすると当然のことかも知れません。しかし当時の私にとっては想定外のことでした。
正直なところ、入院生活が苦しくなったら適当に理由をつけて退院しようと思っていました。
そのような「権利」が、自分には当然あると思っていたのです。

ゆっくりと流れる時間

入院して数日で、既に音を上げたくなりました。
 
まず、することがありません。携帯電話やPCを持ち込むことはできないことになっていました。
しかし仕事の事情を話し、連絡手段が皆無になるのは困るとゴネて、携帯は持ち込ませてもらいました。
ただし入院施設が山の中腹にあり、施設内はどこも圏外です。許可を取って外に出ないと電波が入りませんでした。
 
できることと言えば、読書か喫煙くらいです(イオン等で見かけるような喫煙スペースがナースセンター前にありました)。
遊びにせよ仕事にせよ、常に忙しく動いていた自分にとって、この退屈は耐え難いものでした。
そろそろ30分位経ったかなと思い時計を見ると、5分も経っていません。毎日、その日が終わるのをひたすら待つ生活でした。
 
この感覚を狂わせる「ゆっくり流れる時間」で、心底気が滅入りました。

先輩患者さんとの会話

やることがないため、喫煙所と自室を往復するというより、喫煙所に籠もることが多くなりました。
喫煙所にたむろするメンバーはほぼ決まっていたため、すぐ顔見知りになりよく会話をするようになりました。
 
ある男性患者さんは話好きで面倒見がよく、目が虚ろで表情の変化が少ない点を除けば、一見健常者にも見える方でした。
その方は、色々と私の知らなかった世界について話してくれました。
  • 自分を含め、多くの入院患者がトヨタ系列の人間である
  • 私と同じように過労から鬱病を発症した者が多い
  • 見て分かる通り重篤な患者が多い
  • 朝になると、意外なものを使って自殺を図っている者がいる(何度かあった)
  • ◯◯さんには気をつけろ、話もしないほうが良い
  • 退院していく者の多くは、すぐまた戻ってくるので常連メンバーが多い
  • ここの施設は古い。N医院の方が新しく綺麗だがルールが厳しいらしい
  • 少し歩いたところにコンビニがあり、皆外出許可をもらってそこへ行く
  • たまに内緒でモールやカラオケ等に行っているが秘密にしてくれ(一度発覚して大いに叱られていた)
  • 薬の副作用で、皆性欲を失っている(彼は女好きだが勃起不全になった)
等々、どの話も自分が異世界に迷い込んだことを十分に自覚させてくれる内容でした。
ほかに「ここにいると鬱病ではなく煙草による肺がんで死ぬだろうな」とも言われ「確かに」と思いました。
 
私がことさら興味を抱いたのはコンビニの話でした。
とにかく何もすることがなく、院内にある小さな売店は品揃えが最低限で、退屈を凌げそうなものはありませんでした(おそらく自殺対策もあったのでしょう)。
 
すぐに外出許可を取り、生活用品購入を名目にコンビニまで行ってみることにしました。
いざ外に出ると、山の中腹ということもあり見渡す限りの緑です。どの方向にコンビニがあるのか、最初はわかりませんでした。
しかし父が「来る途中にミニストップがあった」と話していたことを思い出し、自宅へと向かう左方向に歩を進めました。
 
しかし行けども行けども山道ばかりで、コンビニどころか民家もまばらです。
引き返した方が良いかとも考えましたが、「もしかしたらもうすぐ着くかも知れない」という思いがあって歩き続け、結局1時間近くかけて目的のミニストップを見つけました。
 
ここで生活用品のほか、退屈凌ぎのためにおやつや雑誌を購入して帰りました。
しかし帰りは上り坂であり、あの苦労した長い道のりをもう一度歩くのかと思うとさすがにげんなりしました。
結果、1時間以上かかったと思います。すっかり薄暗くなっていました。
 
病院に近づくと、女性看護師の方が何やら慌てて大声を出しているのが見えました。
私を見ると駆け寄ってきて、「どこに行っていたんですか!」と大変な剣幕で怒られました。
何のことかわかりませんでしたが、私が外出を装って自殺をしに行ったかも知れないと騒ぎになっていたのでした。
 
「ああ、自分はそういう疑いの対象になっているんだな」
 
とショックを受けつつ、心配と迷惑をおかけした方々に謝罪しました。探してくださった皆さん、本当にごめんなさい。
 
そして笑い話も生まれました。
私が向かったミニストップは、車ならまだしも歩いていく距離ではないこと(実証済み)、そして反対方向の右側に進めば、すぐにファミリーマートがあることを教わりました。
ミニストップまで徒歩で行った私の冒険譚はちょっとした話題になりました。何とも恥ずかしい限りです。

待ちに待った外泊でまさかの事態に

コンビニに行けるようになり無敵になったかのような錯覚に浮かれていたのも数日のこと、いよいよ退屈によって本当に「死んだほうがマシ」とさえ思うようになりました。
 
退院したいのはやまやまですが、減薬が成功するまではどうやっても出られないことはもう理解していました。
そこでせめて一晩くらい自宅で過ごしたいと外泊許可を申請していましたが、これがついに受理されました。
 
両親に迎えに来てもらい、自動車で自宅へ向かっていると、悪夢から開放され現実に戻ってきた気分になりました。
どこへでも自由に行ける自動車、自由に街を歩く健常な人々、楽しそうに並んで自転車を走らせる女子高生。
当たり前の風景のはずなのに、すべてが新鮮で輝いており、同時に
 
「自分はもう違うんだな」
 
という卑屈な考えも浮かびました。
 
自宅に帰ってしたことは、「リビングの絨毯に大の字で横たわる」でした。
これが非常に開放的で、「自由」であることを実感できました。
自宅では、看護師の抜き打ち視察もありません(真っ暗な中で寝ていても普通に入ってきました)。
しばらくそのまま、横たわって幸せに浸っていました。
 
暑いと感じた私はエアコンの温度を低めに設定していましたが、それでもどんどん(特に肩が)暑くなるように感じました。
おかしいとは思いつつエアコンの温度を思い切り下げ、それでも暑いので扇風機の強風を直接体に当てました。
ここまでしてもなお暑くて仕方がなかったところ、しばらくして私は意識が朦朧としていることを自覚しました。
 
明確に覚えているのはここまでで、後は断片的な記憶しかありません。
気付いたら病院におり、今回の現象は「自律神経失調症」によるものと診断されました。
体は危険なほど冷え切っていたのですが、自律神経の失調により暑いと錯覚していたとのことです。
 
なぜこんなことが起きたのか理解できませんが、ともかく両親には「まだ危険」と見なされ、すぐに入院生活が再開されました。

入院生活が終わるも社会復帰は時期尚早

ゆっくり流れる時間をひたすら耐え、死にたくなる衝動にも何度も耐え、ついに2ヶ月弱で減薬に成功し退院の日を迎えました。
荷物をまとめて部屋を片付け、お世話になった医師や看護師に挨拶をし、煙草仲間からは「戻ってくるなよ」と出所する犯罪者のように言われ、待ちに待った娑婆の空気を吸いました。
 
自宅に到着した後、私はしばらく車の中に残っていました。
静寂がことのほか気持ちよかったのです。入院中は、夜中であっても常に何かしらの物音や話し声が聞こえていたためです。
 
やがて自室に入り、私がしたことは「仕事メールのチェック」でした。
お客様からのメールは別の社員に転送するよう入院前に設定しておいたため、そちらで対応してもらえていました。
取引先からのメールのほかに、サーバ管理者をしているとサーバから自動送信されたメールが大量に届きます。
合わせると、全部で十万件以上あったと思います。
 
しばらくはメールの取捨選択と仕事のカンを取り戻すこと、情報の収集に専念しました。
しかし以前に比べ大変疲れやすくなっており、何度も長い休憩を取るためなかなかうまく進みませんでした。
薬を飲んでいるとは言え気分は常に鬱々としており、電話で会話するだけでも相当なパワーと覚悟が必要でした。
 
ようやく「これなら」という気持ちになり、役員仲間たちに仕事に復帰したい旨の連絡をしました。
皆は歓迎してくれ、私は職場復帰を果たしました。
 
これでようやく元の暮らしを取り戻せる!
 
そのときはまだ、このように考えていました。
ほどなくして私は療養のため、再び長期休暇を取ることになります。
 
ここからは、次の記事にてお伝えしたいと思います。