私の一族はもともと甲斐の武田領出身である。
嫡流は武田信玄に仕える武士であったが、傍流の殆どが
甲斐で半農半兵・・・つまり合戦の時以外、普段は百姓だった。
武田家が織田信長によって滅ぼされた後、戦国最強と謳われた
飯富、山縣の赤備えの部隊で、武田軍団の一員であった事から
徳川家康公の計らいで家臣に取り立てられた。
後の滋賀県彦根の伊井の赤備えである。
幕末まで徳川家旗本で、大禄450石の禄をはんでいた。
私の先祖(傍流)は江戸に出てきたが、武士ではなく商人だ。
農家の四男で継ぐべき田も畑もなかったからである。
傍流の殆どが今でも山梨県で農家を営んでいる。
幕末、大政奉還があり維新を迎えると武家は録を召し上げられた。
威勢の良かった嫡流一家は離散し、維新後何処に行って
しまったのか皆目分からない。
一方、農民と商人の傍流は全て脈々と東京、山梨でそれぞれの
家を守り現在に至っている。
何と皮肉な事であろう。
私の住む街にはお寺が多い。
ライフワークで、その一つ一つの寺の歴史や様々な事を調査して
きたが、ある日、自宅からそう遠くない寺の事を調べていて
何とも驚愕する事実が分かった。
その近所の寺に、行方不明の当家嫡流の当主が、他の徳川旗本と
ともに祀られていたのである。
姓名も官位も史実通り、家紋も私の一族のそれである。
なぜ私の棲む街にお墓が?
お寺の住職に伺うと、なんでも当初上野界隈にあった旗本の墓を
後年この地に移したようで、理由は分からないとの事。
鳥羽伏見の戦いまでは、生存が確認されているから、もしかしたら
上野戦争で薩長軍と戦い命を落としたのかもしれない。
勝てば官軍、負ければ賊であるから、薩長にとって目障りな
徳川旗本の、当初上野にあった墓を、当時郊外だったこの地に
移したのかもしれない。
本当の理由を解明するまでには、私もまだまだ齢を重ねる事に
なると思うが、忘れ去られていた嫡流の存在が明らかになり
嬉しく、涙腺が緩み、人知れず涙を流した。
我が一族の誉れである。
親戚にも知らせようと思ったが、よくよく考えてやめた。
安土桃山時代末期から付き合いのない家なのである。
静かに祀られ、眠り続けるのが重畳である。
嫡流は武田信玄に仕える武士であったが、傍流の殆どが
甲斐で半農半兵・・・つまり合戦の時以外、普段は百姓だった。
武田家が織田信長によって滅ぼされた後、戦国最強と謳われた
飯富、山縣の赤備えの部隊で、武田軍団の一員であった事から
徳川家康公の計らいで家臣に取り立てられた。
後の滋賀県彦根の伊井の赤備えである。
幕末まで徳川家旗本で、大禄450石の禄をはんでいた。
私の先祖(傍流)は江戸に出てきたが、武士ではなく商人だ。
農家の四男で継ぐべき田も畑もなかったからである。
傍流の殆どが今でも山梨県で農家を営んでいる。
幕末、大政奉還があり維新を迎えると武家は録を召し上げられた。
威勢の良かった嫡流一家は離散し、維新後何処に行って
しまったのか皆目分からない。
一方、農民と商人の傍流は全て脈々と東京、山梨でそれぞれの
家を守り現在に至っている。
何と皮肉な事であろう。
私の住む街にはお寺が多い。
ライフワークで、その一つ一つの寺の歴史や様々な事を調査して
きたが、ある日、自宅からそう遠くない寺の事を調べていて
何とも驚愕する事実が分かった。
その近所の寺に、行方不明の当家嫡流の当主が、他の徳川旗本と
ともに祀られていたのである。
姓名も官位も史実通り、家紋も私の一族のそれである。
なぜ私の棲む街にお墓が?
お寺の住職に伺うと、なんでも当初上野界隈にあった旗本の墓を
後年この地に移したようで、理由は分からないとの事。
鳥羽伏見の戦いまでは、生存が確認されているから、もしかしたら
上野戦争で薩長軍と戦い命を落としたのかもしれない。
勝てば官軍、負ければ賊であるから、薩長にとって目障りな
徳川旗本の、当初上野にあった墓を、当時郊外だったこの地に
移したのかもしれない。
本当の理由を解明するまでには、私もまだまだ齢を重ねる事に
なると思うが、忘れ去られていた嫡流の存在が明らかになり
嬉しく、涙腺が緩み、人知れず涙を流した。
我が一族の誉れである。
親戚にも知らせようと思ったが、よくよく考えてやめた。
安土桃山時代末期から付き合いのない家なのである。
静かに祀られ、眠り続けるのが重畳である。