私が大好きな映画がある。
黒澤明監督の、「虎の尾を踏む男達」である。
鎌倉時代、源頼朝に追われた九朗判官(義経)一行は、
奥州藤原氏に落ちるべく、山伏の姿に身をやつし、
南都東大寺建立(なんととうだいじこんりゅう)の、
勧進(かんじん)を唱えながら諸国を行脚す・・・。
歌舞伎で有名な「勧進帳」である。
大河内伝次郎!かっこい~!
南都東大寺建立とは、平家によって焼き打ちにあった
東大寺を再建するために寄付を募り歩くという意味で
この時期、奈良・平安時代に何度も落雷や大火で焼失し
何度も再建した東大寺は、またもや興福寺とともに大仏殿は焼失、
本尊の大仏も台座と背の一部を残すのみだった。
(この時が、勧進帳の時代背景なのです)
しかし、翌年には源頼朝の絶大な協力もあり、10年後には
奈良時代より現在に至るまでの間で、最も規模の大きい
大仏殿を復興再建した。
その後約400年、この大仏殿は温存されたが、戦国時代、
三好・松永の乱がおこり、松永久秀により焼き打ちにあい、
大仏殿、廻廊、講堂、食堂、八幡宮、東塔(七重塔)など
殆どが灰燼に帰した。
本尊 盧舎那大仏は破壊をまぬがれるが、大仏殿は再建されず
約120年間は雨ざらしとなる。(鎌倉の大仏のごとし)
そして江戸時代、5代将軍徳川綱吉公により幕府の許可が下り
現在の大仏殿が完成し、現在に至っている。
南大門(国宝)
約40年前の記憶がよみがえる。
平成の修理で美しく蘇った阿吽像ももちろん国宝である
阿吽像修復の折、大勢の宮大工、学芸員の方々の
大変な苦労を、NHKスペシャルで見た事があるが、
あちらこちら傷だらけで、部分的に欠損もあった
阿吽像であったが、見事に修復が完了し復活。
どこをどう直したのかも全く分からない。
大変な努力のたまものだ。
そして中門へ。
さて、いよいよ大仏殿を初めて拝見する。
あれ?以前にも東大寺に来たのでは?
じ、実は、前回訪れた折は、昭和の大修復中で
大仏殿全てが覆われていて見れなかったのです。
余談ですが、屋根部の吹き替え、修復を任されていた企業は、
私の義理の父が勤めていた会社、(大手財閥系企業です)
つまり家内の父も修復に関わったのです。
東大寺本堂(金堂・国宝)
凄いスケールですね。
人のとの対比で、どれだけ大きいかご理解頂けると思います。
瓦11万枚、下地吹き替えした面積も相当でしょう。
義父さんたち、大変だったでしょうね。
見事な木組みですね。
しかし、よく重い屋根を支えていますね。
実は、明治中期には屋根は大きく傾き波打っておりまして、
修復時にイギリス製のトラス構造の鉄骨で梁を補強し、
現在でも、定期的にメンテナンスしているそうです。
本尊 盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ・国宝)
何と14.7mもあるんですね。とても優しいお顔です。
当初は全身を金で覆われていたそうです。
台座は蓮の葉ですが、よく見ると模様がある部分と
何の彫刻もない部分があります。
模様のある部分は平安時代以前で、模様のない部分は
鎌倉時代以降ご修復された部分だそうです。
虚空蔵菩薩坐像(重要文化財・江戸期)
大仏様の向かって左側に座ってらっしゃる脇侍です。
この急な階段、実は屋根裏をメンテナンスするための
もので、このような階段を3つ上がらないと梁のある
屋根裏上部には行けないそうです。怖~い。
広目天立像
大仏様の向かって左、後部で大仏様をお守りする
四天王の一員です。
光背の化仏
大仏様の後ろで光る光背です。実に重たそうですね。
ここから天井を臨むと、どのように補強しているのか
よくわかります。
左右、右手前の柱はかなりの太さです。
多聞天立像
やはり四天王像の一員です。
しかし、四天王と言ってもお二方しかお見受けできません。
実は後の二天王は首しか残されていないそうです。
首以外は焼失してしまったのか?
有力説は、どういう訳か首しか作られなかったそうです。
如意輪観音坐像(重要文化財・江戸期)
大仏様の、向かって右側の如意輪観音坐像です。
左側の虚空蔵菩薩坐像より先に作られ、
先に大仏様の脇に座られたとか。
二体の観音坐像と、二天王。
大仏さまは大仏殿がない時からおられましたから、
出来た順番に一体づつ増えていったのですね。
仏像の配置のバランスを考えると、四天王はやはり二体しか
造られなかったのだと思います。
当初造る予定が、あとの二体が大仏様をお守りする
スペースがない。そんな理由じゃないかと・・・。
創建時大仏殿模型
現在の大仏殿より遥かに大きく、七重の塔まであります。
写真には写っておりませんが、七重の塔は東西に2棟
あったそうで、高さは何と100mあったそうです。
奈良時代に作られたのですから大変な規模ですね。
もう一度大仏さまを拝み、帰路につきます。
まだ、拝見したい寺社仏閣が沢山ありますが、
とてもじゃないけど2泊3日程度の旅行じゃ無理です。
それでも、強行軍でしたが、頭の整理がつかない程
奈良京都を楽しませて頂きました。
あ、そうでした、まだ2日目の彦根城があるんでした。
近々ご紹介する事をお約束しまして今回の旅行編は
ここで打ち切らせて頂きます。
長々お付き合い下さり、誠にありがとうございました。
黒澤明監督の、「虎の尾を踏む男達」である。
鎌倉時代、源頼朝に追われた九朗判官(義経)一行は、
奥州藤原氏に落ちるべく、山伏の姿に身をやつし、
南都東大寺建立(なんととうだいじこんりゅう)の、
勧進(かんじん)を唱えながら諸国を行脚す・・・。
歌舞伎で有名な「勧進帳」である。
大河内伝次郎!かっこい~!

南都東大寺建立とは、平家によって焼き打ちにあった
東大寺を再建するために寄付を募り歩くという意味で
この時期、奈良・平安時代に何度も落雷や大火で焼失し
何度も再建した東大寺は、またもや興福寺とともに大仏殿は焼失、
本尊の大仏も台座と背の一部を残すのみだった。
(この時が、勧進帳の時代背景なのです)

しかし、翌年には源頼朝の絶大な協力もあり、10年後には
奈良時代より現在に至るまでの間で、最も規模の大きい
大仏殿を復興再建した。
その後約400年、この大仏殿は温存されたが、戦国時代、
三好・松永の乱がおこり、松永久秀により焼き打ちにあい、
大仏殿、廻廊、講堂、食堂、八幡宮、東塔(七重塔)など
殆どが灰燼に帰した。
本尊 盧舎那大仏は破壊をまぬがれるが、大仏殿は再建されず
約120年間は雨ざらしとなる。(鎌倉の大仏のごとし)
そして江戸時代、5代将軍徳川綱吉公により幕府の許可が下り
現在の大仏殿が完成し、現在に至っている。
南大門(国宝)
約40年前の記憶がよみがえる。
平成の修理で美しく蘇った阿吽像ももちろん国宝である
阿吽像修復の折、大勢の宮大工、学芸員の方々の
大変な苦労を、NHKスペシャルで見た事があるが、
あちらこちら傷だらけで、部分的に欠損もあった
阿吽像であったが、見事に修復が完了し復活。

どこをどう直したのかも全く分からない。
大変な努力のたまものだ。

そして中門へ。
さて、いよいよ大仏殿を初めて拝見する。
あれ?以前にも東大寺に来たのでは?
じ、実は、前回訪れた折は、昭和の大修復中で
大仏殿全てが覆われていて見れなかったのです。
余談ですが、屋根部の吹き替え、修復を任されていた企業は、
私の義理の父が勤めていた会社、(大手財閥系企業です)
つまり家内の父も修復に関わったのです。
東大寺本堂(金堂・国宝)
凄いスケールですね。

人のとの対比で、どれだけ大きいかご理解頂けると思います。
瓦11万枚、下地吹き替えした面積も相当でしょう。
義父さんたち、大変だったでしょうね。
見事な木組みですね。
しかし、よく重い屋根を支えていますね。
実は、明治中期には屋根は大きく傾き波打っておりまして、
修復時にイギリス製のトラス構造の鉄骨で梁を補強し、
現在でも、定期的にメンテナンスしているそうです。
本尊 盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ・国宝)
何と14.7mもあるんですね。とても優しいお顔です。
当初は全身を金で覆われていたそうです。

台座は蓮の葉ですが、よく見ると模様がある部分と
何の彫刻もない部分があります。
模様のある部分は平安時代以前で、模様のない部分は
鎌倉時代以降ご修復された部分だそうです。
虚空蔵菩薩坐像(重要文化財・江戸期)
大仏様の向かって左側に座ってらっしゃる脇侍です。
この急な階段、実は屋根裏をメンテナンスするための
もので、このような階段を3つ上がらないと梁のある
屋根裏上部には行けないそうです。怖~い。

広目天立像
大仏様の向かって左、後部で大仏様をお守りする
四天王の一員です。
光背の化仏
大仏様の後ろで光る光背です。実に重たそうですね。
ここから天井を臨むと、どのように補強しているのか
よくわかります。
左右、右手前の柱はかなりの太さです。
多聞天立像
やはり四天王像の一員です。
しかし、四天王と言ってもお二方しかお見受けできません。
実は後の二天王は首しか残されていないそうです。
首以外は焼失してしまったのか?
有力説は、どういう訳か首しか作られなかったそうです。
如意輪観音坐像(重要文化財・江戸期)
大仏様の、向かって右側の如意輪観音坐像です。
左側の虚空蔵菩薩坐像より先に作られ、
先に大仏様の脇に座られたとか。
二体の観音坐像と、二天王。
大仏さまは大仏殿がない時からおられましたから、
出来た順番に一体づつ増えていったのですね。
仏像の配置のバランスを考えると、四天王はやはり二体しか
造られなかったのだと思います。
当初造る予定が、あとの二体が大仏様をお守りする
スペースがない。そんな理由じゃないかと・・・。
創建時大仏殿模型
現在の大仏殿より遥かに大きく、七重の塔まであります。
写真には写っておりませんが、七重の塔は東西に2棟
あったそうで、高さは何と100mあったそうです。
奈良時代に作られたのですから大変な規模ですね。
もう一度大仏さまを拝み、帰路につきます。
まだ、拝見したい寺社仏閣が沢山ありますが、
とてもじゃないけど2泊3日程度の旅行じゃ無理です。
それでも、強行軍でしたが、頭の整理がつかない程
奈良京都を楽しませて頂きました。
あ、そうでした、まだ2日目の彦根城があるんでした。
近々ご紹介する事をお約束しまして今回の旅行編は
ここで打ち切らせて頂きます。
長々お付き合い下さり、誠にありがとうございました。