年末に『年末だから』「芝浜聴く」ってのも野暮な感じで、じゃ聴きたくないかと言うとそうじゃないわけ。
談志亡き今だからこそ、やる「芝浜」だもの。
今しか聴けません。
来年の談春や志らくの「芝浜」、絶対今年のと違うはず。
再来年、きっともっと変わるよね。
数年後どうなってるか、わー、どうなってるんだろう。
今、聴かなきゃ。
ううん、今聴きたい!
立川流にとってはものすごく大きな演目だもの(どれだってそうだろうけどさ)。
ってなわけで中野まで。

前座なし。
まずは「唖の釣り」。
「芝浜の前に演る噺じゃない」のは同感だけど、「だんしゅんのしばはまをねんまつにきく」緊張感をいい感じに解きほぐしてくれました。
中村屋、さだまさし、志の輔とのゴルフの思い出話は、品川のきゅりあんかどっかでも聞いたなあなんて、「またかー」と思っていたのですが、中村屋の追悼公演の話に流れました。
「矜持」だなあ、まさに。
私は落語は10代前半からテープで聞いていたので、ライブでは歌舞伎の方が先だったのです。
歌舞伎には落語の演目を取り入れた芝居も多く、「芝浜」はその中の一つ。
同じストーリーでも、歌舞伎と落語ではもちろん演じ方も違うし、演者もそれぞれ違うし、向かう目標が違っても「好きなものが同じ」っていうのもあるし、この魅力的な好きなものは絶対自分も好きだという、超原始的なコミュニケーションがいとも簡単にこの手練れのプロ達の間で成立してしまう感動。
そして、「芝浜」。
まくらなし。
女房をツンデレにしようとしているようだけど、それをつまんなくしないためか、勝五郎を女房にでれでれの男衆に仕立て上げる。
浜で財布を拾うシーンを割愛して、その分女房視点で語った。
ここはどうだろう。
やっぱり勝五郎が財布を拾い上げるシーンも見たかった気がする。
時間がなかったのかな。
一気に私事になるが、私は数年前から芝浜を素直に聴けなくなっている。
「腕はいいのに、仕事をしない。女房を軽んじて甘えてつらくあたる」
もうこの時点でだめだ。
何年我慢しただろう。
私から最愛の「蒲田」という土地と毎日思わないことのない犬を奪った、世界で一番憎んでいる男を思い出さずにはいられない。
どれだけ憎んでも泣かないことにしている。
だって、勝五郎はどうひっくり返ったって女房を大事に思っていたからこそのラストだもん。
私の手には絶対に手に入らなくて切望して乞うても拒絶されて踏みにじられたことだもの。
私はどんなに手をつくしても大事にされないようなくだらない人間の烙印を押された。
だからこそ、絶対絶対、こんなことで泣かない。
そんな屈折した思いを抱きながらの談春の芝浜は微妙に消化不良だったのです。
不満だったわけじゃなく、もっと大きいのください。
落語は人間の業だと言ったのは談志。
私の業を消化して昇華する話をください。
まだ足りない。
もっとほしいの。
欲しがりすぎね。