今日は9月11日。
同時多発テロから10年、大震災から半年という無茶苦茶な日になっているがもちろん俺はこの両方の事件を目撃しているためそれなりに思いの丈がある。
すっかり感覚が麻痺してしまっているのか時が経っているからなのかテロが大したことないように思えてきたがビルに旅客機が突っ込んでくるとは前代未聞の出来事である。

2001年というと俺が小学五年生でちょうどブヨブヨと太っていく一方で胃痛や貧血で朝礼をリタイアしまくっていた頃である。もちろんテロが起きるなんて思っていないしそもそもテロだとか中東だとかそういうのに気が回っていなかった。
そんな感じであの日の朝を迎えたわけだが驚き以外のなにものでもなかった。まずビルに旅客機が突っ込んだという状況が理解不能であったし何機突っ込んだのかもわからなかった。俺の中でそれまでのアメリカといえば経済も文化もケタ違いのまさに遠い遠い国だったのだがこれ以降戦争になだれ込んだりとそのイメージが崩れていく原因ともなってしまった。今のように夜更かしをしていれば第一報に接することができたのだが健康的な生活をしていたためか朝起きるまでそのニュースを知らなかった。
学校にいってみると皆異常な興奮状態である。まだパソコンが普及途上で新聞なんて大部分読んでないような連中なので話の中心はテレビであった。そのテレビであんな映像が流されたのだからたまったものではない。悲劇性が語られるテロだがあの頃の俺たちにとってはゴシップそのもので俺自身これでしばらく雑談のネタ探ししなくてすむなあと思っている程度であった。旅客機の数やビルが二本倒れたことを知ったのは結構後になってからなので情報が錯綜していたと思われる。
もちろん教師もニュースに触れた。授業を潰して「どれだけの人が犠牲になったか皆で知りましょう」と新聞の写真の中の人物の顔を全員で切り出しデカい方眼用紙にはっつけていった。人数分きっちり貼っつけたかどうかはもう忘れたが想像以上の大量の顔に生々しさよりどこか浮世離れした感情を抱いた。

大震災の方に関しては発生二ヶ月目に経緯を書いたが改めて書こうと思う。
これだけ大きな地震や被害をもたらした地震だが西日本はいたって平静で東のほうが滅茶苦茶だという認識だった。もちろんこちらにも津波の余波はきたがそれより原発の方が怖かった。原発の屋根がふっとんだ(その時は原発自体が爆発したと思っていた)ときは俺もフェリーで九州沖縄まで逃走しようと思った。
発生時俺は2ちゃんをみていてその後ニコニコ生放送のある放送にかじりつき惨状や震源地を徐々に認識していったという下りだったがもし発生直後にテレビをつけていればもっと衝撃だっただろう。テレビをつけなかったのは俺が地震が震度5か6程度で(それでも十分でかいが)揺れになれていない東京都民がパニックになってるだけだと心のどこかで決めつけていたからかもしれない。知っての通り俺が関東大震災と決めつけていた地震は東北大震災でありしかも問題は揺れではなく前代未聞の津波のほうであった。
それにしても不思議な感覚だった。テロの時は日本も我が事のように騒いでテロ防止とかそういうのに躍起になったが地震の時はこちらは恐ろしいほど静かだった。五時頃に津波の峠を越し、ニコニコ放送者が買い物にいったときに俺も図書館にいって勉強をしようとしたが大学には誰にもおらずしかも誰も地震の話をしていなかった。コンビニも通常営業だった。一瞬本当に地震はあったのかなという気持ちになった。企業が西日本に一目散に避難してきた理由もわからなくはない。
夜になっても報道が途切れないし気仙沼が大火災になっている映像がずっと流された。ニコニコ生放送本部のほうでもニュースのミラーが始まりだんだん恐怖の感情が沸き上がってきた。自衛隊の救助活動で自衛隊のイメージが上がっていたが震災前から自衛隊に潜り込もうとしていた俺は複雑であった。イメージアップはもちろんいいことで人に「防衛組織志望です」と堂々といえるようになったが、この震災で人が大量にきたら俺の採用枠なくなるなあとゲスい感情を多少抱いたのも否定できない。
あの日は本当に眠れなかった。「ああ、寝ている間に地震がきて俺はこの天井の下敷きになるんだなあ」と思うと目がギンギンになった。
次の日もテレビは一日中地震だった。もう勉強している場合ではない。飯をくう時間は保ったがそれ以外はほとんどニュースにかじりついた。フジがどうたらこうたらとかどうでもよくNHKが俺の大本営である。携帯をみると地震情報が送られていた。こういうのを見るのは初めてだったのだがまだ県内に津波警報がでていたようなので野次馬根性半分に港にいくことにした。たしか昼の二時ごろである。港にいく途中で警察に「こらきみきちゃだめだよ」と拘束されるかもしれないとビクビクしていたがそんなことはなかった。むしろ釣り人のおっさんが五人くらいのんびりと釣りをしている有様であった。その後に原発の屋根が吹き飛んで日本終了のようなニュースを聞き俺はビビりながらカレーを食った。あの時の絶望感は本当に筆舌に尽くしがたく南に逃げるかパナウェーブのような白装束を着るかで真剣に悩んでいた。そのあと屋根が吹き飛んだだけだということで安堵した。
その後に俺は京都旅行を控えていたのでそちらへの勢力もつぎ込まないといけなかった。地震で花灯篭イベントが祈りの灯という募金イベントに組み替えられ京都の友人が不機嫌になっていたが俺はなだめた。瀬戸大橋をバスで走っている時や新幹線に乗っている時にも地震で道が崩壊したらどうしようとビクビクしていた。
京都にきて改めて思ったのは企業が西日本に移転しているということであった。特にこの頃は天皇が京都御所にくるかもしれないという噂もあったためなのかやけに警察が多かった。ラーメン屋の店主や客も色々と移転しているという話をしておりこの地震はやはり全国レベルの災害だったんだと思うようになった。その頃はまだ水がスーパーやコンビニで普通に買えていた。だが四国に帰ってきた途端に水がスーパーから消えていた。やはり田舎に物資が足りていなかったのだろうか。その後京都でも水が足らなくなったという話をきいたので若干のタイムラグがあったんだろうなあ。

今あらためて思い出してみるとテロも大震災も大きな被害だったのにもかかわらずいうほど記憶にのこらない。人間の記憶の性質上の部分もあるかもしれないがこうやって一人一人が徐々に記憶を風化させて後世に語り継がれなくなったころにまたテロや震災がおきるのだろうか。そういう負の輪廻というものは断ち切らなければならない。改めてそう思う。
9月に入っても相変わらず昼夜逆転生活が治っていないのだがそんなことより今回の台風が結構ヤバげだったので書こうと思う。
前回史上最強と騒がれたマーゴンが俺が寝ている間にさっさと通り過ぎたため(ただ雨風は凄かった)今回のはあれ以上にザコだろうと高をくくっていた。
そもそも台風が接近しているのを知ったのは1日である。毎日最低でも新聞の一面大見出しと国際事情欄と軍事板のインテリジェンス総合スレは見ている俺がまさか自らの生活に一番直結する気象情報について何の情報も仕入れていなかったのである。
一応ゲリラ豪雨などの情報を仕入れるために時折気象庁の雨雲レーダーは見ているのだがここ一週間は疲れなどでチェックしていなかった。不覚である。
1日の夜勤を終えて帰宅している最中に小雨が降り始めた。小雨なのであまり気にせず洗濯機にタオルを放り込んでいつごろ台風が抜けるかをチェックしていた。昼夜逆転しているので正午前に寝て夜に起きればもう抜けているだろうと予想していた。この時にさっさとタオルをランドリーに突っ込んでおけばよかったのだが後悔しても遅い。
ご承知の通り今回の台風は速度が非常にスローモーで俺が目を覚ました時はまさに暴風域に四国がすっぽり覆われていたのである。冷蔵庫には冷え冷えに冷えた弁当とブルガリアヨーグルトだけである。水があったのでよかったがなかなか孤独であった。予想外の雨量のため傘をさしても服が濡れるのは自明であった。
結局その後適当にゼルダの伝説DSをやり(ブランクがあるとはいえガノンで一死するのは屈辱であった)寝て起きたらやっと天気が回復していた(曇だけど)。つまり俺の予想は一日ずれていたのである。なんてトロい台風だったんだ。

今回の台風は進路が南北横断だったため俺のところはもちろん故郷香川県も壊滅的被害を受けた。というか台風や大雨に関しては全国ワーストクラスの脆弱性である。中学二年の時台風が列島にバンバン上陸したことがあった。あの時サンポート高松はいつ瀬戸内海の海底に沈むかどうか想像されてしまうほど被害を受けた。あの時の台風は変なのもありなんと徳島から入ってきて愛媛県に抜けるというものもあった。その次の年が大渇水でトイレに節水の半紙がベタベタ貼られていたものである(俺はお構いなしに使っていたが)。
今回、大雨洪水波浪高潮と警報フルコースであった香川県。風はどうかよくわからないがこれでどういうところか改めてわかったであろう。とてつもなく弱い県である。
あまりとがめるとさすがに我が良心にも響くのでこのくらいにしておく。
前回の最後のほうでちょこっとだけ触れたが公務員試験勉強に関してはかなりの状況になっている。
なにせ行政三科目が六月からほとんど進んでいないのである。これにはさすがに驚いた。たしかに法律科目のほうを重点的にやっていたことも関係しているだろうがこの二ヶ月三ヶ月俺はなにをしていたのかと。
そんな感じで今日も昼夜逆転が治らず仕方が無いので無理矢理ねぼけた頭で経済学をやったのだがこれもまた量が多いし難しい。
改めて公務員試験をパスする難しさを実感した。これがやる気を増幅させるか減退させるかはまだわからない。今のところは増幅させている。
それと文章理解の英文読解演習で語学力のなさがモロに出てしまっているのでcore1900のほうを引っ張り出してついでにTOEICも受験したい。出来れば早めに受験したいので年末年始をめどとする。
それにしても改めて早めに勉強を始めていてよかったと思う。通常であるならこの二ヶ月のgdgdっぷりは致命傷となってもおかしくない。重傷であることには変わりはないのだけど。

陸軍についてだらだらと書いていた俺だが興味があるのは海軍である。
特撮や宇宙戦艦ヤマトやスパロボの見過ぎやりすぎのせいなのか軍艦、戦艦というものに興味があった。中学時代は軍艦建造FLASHゲームというのにShockwaveサッカーと同じくらいの情熱を注いでいたし仲間にも軍オタがいた。
海軍が好きな理由が単に清潔感という偏見にみちた要素であることも否定できない。陸軍=泥んこの中を匍匐前進、海軍=海の上で風を浴びながら勤務という見方だったのだがよく考えてみると海軍のほうが大変である。
現在でも海上自衛隊が横須賀に寄港すると飲み屋が一斉に繁盛するらしいし禁欲とハードワークで過酷の極みである。まさに海の男の艦隊整備だ。
大学の数少ない知人にも軍オタがおりイージス艦を愛用の一眼レフで激写しまくっていたが今や連絡も満足に取り合っていないのでここのコネクションは使えない。
そういえば実家にいたときカレンダーはなぜかイージス艦カレンダーであった。弟のほうは普通の無機質なものだったのになぜ俺があれだったのか謎である。
さてこちらにきてから最近に至るまで俺の大学生活には一人の恩師がいる。今でもそこのゼミナールに所属して机上の空論を戦わせてきたのだがその恩師の最近の研究課題が軍事なのも俺の軍オタ指向を再燃させるものであった。
前々から大学のキャンパスの一部が陸軍の弾薬庫だったとか歩兵四十四連隊の碑があるとか物騒な話は聞いていたがしらべてみるとさすが武士の国というか勇猛果敢な軍人が何人も出ている。
それを改めて実感したのが今年の終戦記念日に初めて護国神社にいった時である。自主憲法制定の旗をかかげた黒塗りのバスにビビりながらも到着するとそこは讃岐護国神社以上の規模を誇っていた。そこで目をひかれたのは海軍の塔というモニュメントである。たしかここにも陸軍しかなかったのではないかと思ったがよく考えたら日本海軍設立の発端にこの県の人物(主にピストルおじさん)が深く深くかかわっていたのを思い出した。また近世海軍におけるこの県で最も有名な人物は永野修身であった。まさに武士の国である。

その永野修身が学んでいたのが海南学校というところでここからどこに進学するかというと広島は江田島にある海軍兵学校(今は幹部候補生学校とか技術学校とか詰め込まれている)であった。
広島というのは中四国の雄である。つい最近までメトロポリスの基準が広島であった。修学旅行もほとんど広島である(俺の代は修学旅行は奈良県だったが)し親戚を探れば誰かしら広島に住んでいる。
そして広島といえば一大海軍都市、呉市である。ババアの話でも呉市に動員されてた◯◯のおっちゃんが云々という話が何回もでてきていた。俺もお暇を頂いて今度観光しにいくがどういうところなのかワクワクしている。