※ かつて ”チームリーダー” で感じたこと の樹憶 ※



【評論家にならない】


自分流の取り組みややり方が確立してくると、
どういうわけか
「自分のやり方が一番だ」
というような意識が不思議と芽生えてきます。


そうすると、
その意識を基準として
他人に対して、とやかく言いたくなってくる場合があります。


充分と注意する必要があります。


客観的な事実がともなわすに
その当事者の取り組んでいることには一切かかわら無い状態で、
自分を基準とすることでとやかく言うことは
よくないことだ と私は考えます




【使ってはいけない表現】



文章や会話の中でよく使われてる表現で、
「・・・・・すべきである」
というのがあります。


この言い方、
”裏に隠された意味” を御存じ無い方が多く
無意識で使われている場合をよく見受けるのですが、
あまりいい表現ではありません。


というのは、
「〇〇〇〇〇すべきである」
に含まれる意味として、
「ほんとうは〇〇〇〇〇やってなきゃいけないのに、
 やってないじゃないか。
 さっさと、〇〇〇〇〇やれ!」
というニュアンスが含まれているのです。


”相手を傷付ける要素を持っている表現”
ということを知っておいてほしいです




※ かつて ”チームリーダー” で感じたこと の樹憶 ※



【具体的な話をする】


ヒトというのは、
いくつになっても、
他人への情報伝達というのは
うまくゆかないものなのでしょうか?


自分の幼年、少年時代を思い出すと、
親からこんな事をよく言われていました。

「ちゃんとやっとけ」
「いい子にしてたら、おみやげ買うて来たげる」

しかし、これらの表現
実に曖昧でその意図するところはまったく意味不明です。


さらに、これまた実際にあったことですが、
食事中の食卓で、母親が突然
「ミルクミルクミルク、、、」
と叫びはじめるのです。
何を意味するものかまったくわからないのでそのまま聞き流していたら、
自分のヒジが、テーブルの端に置いたミルク入りのコップにあたって、
あたり一面をミルクだらけにしたのでした。
そのとたん、
「ほれ見てみい、おかあちゃんがさっきからミルクミルク言うてんのに
 ちゃんとせえへんからこぼしたやないか!」
と叱られたりしました。

子どもの頃、こういったことは別段不思議には思わなかったのですが、
今振り返って考えると実に不思議な会話です。


つまり、
情報を伝える側の表現が、
内容を伴っていないため
まったく意味不明なのです。

これでは、
情報の受け側としては
何をやっていいのか判断に困ります。


「ちゃんとやっとけ」
なにを、どのように、いつまでに仕上げればいいのか
まったく不明です。

「いい子にしてたら、おみやげ買うて来たげる」
”いい子”というのは何なのでしょう、理解に苦しみます。

「ミルクミルクミルク、、、」
これなど、後で叱るための伏線かと疑いたくなります。


さて、
「ミルクミルクミルク、、、」
のケースについて考えてみると、
・”コップをテーブルの真ん中に置きなさい”
・”そうしないと、手があたってこぼすよ”
というような、
具体的な表現にすれば
▲▲▲▲▲▲
子どもは叱られることなく、
親も怒ることもなく、
全てがまるく収まるわけです。


情報の伝える側が、
わかりやすく伝えるために
具体的に物事を伝える術を知っていれば、
悪い方向には至らない


伝える事柄が

より具体的なほど、
”情報は正確に伝わる” し、
”依頼した事柄の完成度”

はあがります


”具体的に話をする”

状況によっては必要だと思います。


※ かつて ”チームリーダー” で感じたこと の樹憶 ※



【未知の分野で様々なことに出会う】


「未知の世界で路頭に迷う」
これはチャレンジャブルな取組みをしていると
必ずぶつかってくる課題です


そんなときは、
・自分なりに調べる
・知っている人に質問しまくる
といった方法を取るといいでしょう、、、
というかそれしか方法がありません


ところが、現場にいて
未知の分野のとりくみ を言い渡されたとき、
そして
”すぐに仕事をはじめなくてはいけない”
ということがあったりします
その場合、
”自分なりに調べる”
ということに、
時間が取れないということが頻繁におきます


そんなときは、
「自分は何にも知らないんだ」
という姿勢で、
謙虚に自分をさらけ出して
”第3者の詳しい人”
に正直に質問するしかありません


ところがこの聞きまくる ということが
できないことがあるんですよね、
”自分のプライド”
とか
”権威ある人に近づくのがいや”
とかです。
また 場合によっては
”自分より若い人材に聞かないといけない”
という場合があり、その場合、
”若造に話を聞くのなんてやりたくない”
というその人の資質に依存することが
行動の妨げになるものです


”客観的”に自身を観てみればわかるのですが
すべて”自分の主観”によるものが行動の妨げ
になっているのです

そうなると
”先に進めなくなってしまう”
のです


また逆に、
自分が熟練者になって質問などをされる側だったら、
”些細な質問でも耳を傾けるだけの余裕”
が必要になってくるのかな


※ かつて ”チームリーダー” で感じたこと の樹憶 ※



【変化すること を 良し とする】


前回までに
不変性(Immutable, unchangeable)が心地好い(Comfortable)
それが日本人が潜在的にもっている気質
という話をさせていただきました


また
”肯定的に表現をすること”
それは とても大事なことじゃないかな
ということと、一方でそれはわれわれ日本人が
”あまり持ち合わせていないこと”
に由来するのだ との話もしました


というわけで私が思うこととして
”不変性が心地よい”
という考え方を否定して
「変化してゆくこと それ自体を肯定的に楽しんでみる」
という発想、考え方の転換が
「必要な時期」
になっていると感じています

「変化を容認してゆく」
ことで、
「われわれの未来が開けてくる」
と私は思うのです

人々が自然に接するとき
無意識に想定していること
それは
「ヒトの手の入った自然」
だということ

意外と思うかもしれませんが
ヒトによる手の入った自然 を
美しい、すばらしい
と、感じているのではないか ということ。


たとえば
・広大な牧草地、パッチワークの草原
⇒ 定期的に草刈が行われているから実現
・いなかの田園風景
⇒ 田植え や 畑作り の 農作業が行われた結果、実現・維持
自然散策の ハイキング
⇒ 整備された道があるから たどれる


何のことはない 自然が好きな人々は結局のところ
ヒトの轍のあと
をたどっている、めぐっている だけで

それで充分満足をしているのであります。

ヒトの気配を感じない本当の自然の中に放置されると
ヒトは本当に心細くなってくる と思います。

普通の人々は 自然で遊ぶ といっても
ヒトの気配の感じる範囲から逸脱しないで 行動をしています。
その一線を越えないよう 無意識で行動をしています。

それを逸脱して行動しているのは
冒険家 だけだと思います。