年末年始休暇中、無性に古い本が読みたくなり、以前古本屋で十数冊購入した100年ほど前の著作(それも100円本)を読みました。ステイホームを超安価で楽しく過ごし、少し頭もリフレッシュしたような気がします。

 読んだ本の一部を紹介します。1916年に出版されたマーク・トウェイン著『不思議な少年』と1915年に出版された夏目漱石著『道草』はほぼ同じ時代の作品ですが、『不思議な少年』ではキリスト教的人生観が披露されており、一生懸命働き、倹約より儲けたお金を隣人のために使うことが神の教えにかなっているとの考えが読み取れ、神が何を望んでいるのかが全ての価値基準になっています。多くの大金持ちが儲ける人生を終えた後、財産を寄付し、「神の御心」に沿った生き方を目指そうとしますよね。

 一方、夏目漱石の『道草』では、お金をどう見ているのでしょうか。主人公の「健三」は次のように見ています。

  健三は昔この男につれられて、池(いけ)の端(はた)の本屋で法帖(ほうじょう)を買ってもらった事をわれ知らず思い出した。たとい一銭でも二銭でも負けさせなければ物を買った例(ためし)のないこの人は、その時も僅(わず)かな五厘の釣銭(つり)を取るべく店先へ腰を卸して頑として動かなかった。董其昌(とうきしょう)の折手本(おりでほん)を抱えて傍(そば)に佇立(たたず)んでいる彼に取ってはその態度が如何(いか)にも見苦しくまた不愉快であった。                                        (引用:夏目漱石著『道草』、新潮文庫)

 倹約は見苦しいものだという考えが見て取れます。アメリカ人のマーク・トウェイン氏と日本人の夏目漱石氏とでは考え方が異なることが分かりますね。

 さて、私は有志の方々とともにSDGs(持続可能な開発目標)に沿った取り組みの一環として、主に日本で暮らす外国人の方々を対象に、貧困によって住居を失った人に対し住居と食を無料で提供する支援活動を行っていますが、様々な難問、奇問を抱えた人が私たちの活動拠点に来所されます。子どもを連れた目の見えない母親、工場が5勤2休から3勤4休になり家賃も払えない人、60歳を過ぎて夫婦二人とも失業し、行くところも頼るあてもない人など、様々な人が来所されますが、中には備品や食品を持ち逃げする人もいます。なぜでしょうか。育つプロセスで愛情を受けていないことも原因の一つと考えられます。食べたいものを聞いても「分からない」という子もいます。もちろん挨拶や感謝の言葉も出てきません。生活保護世帯の子どもが大人になって生活保護受給者になることが多いのは、共感の乏しさ、まさにそこにあるのでしょう。私たちがミルクや生理用品まで用意して対応しても、自らが受けてこなかった愛を食や住居の支援だけで愛として受け取ることはないのです。特に日本人が難しいと感じるのは、キリスト教やイスラム教のように絶対神を持っていないことで、頼る術を持っていないことです。衣食住だけでは温めることの出来ない心の芯を温める術として頼るべく宗教、こころの礎を持っていない国民は、追い詰められると弱さを露呈、脆いような気がしています。ブラジル系日系人に自殺など考えられなかったのは昔の話で、今は追い詰められると簡単にノイローゼになり、自殺を考える人が出現、まさに日本人化しつつあります。

 現在、群馬県大泉町で私が参加する「リスタートコミュニティー支援センター」では、食料や住居の支援に加え、彼ら自身のスキルアップを図り、自らの力で暮らせるよう支援し、貧困の連鎖を断ち切るための新たなプロジェクトを考えています。プロジェクトが進みましたら改めてここでもお知らせしたいと思います。ご期待ください。