少数であるとはいえ、われわれしあわせな少数は
兄弟の一団だ。なぜなら、今日私とともに血を流すものは
私の兄弟となるからだ。
ヘンリー5世(『ヘンリー五世』第四幕第三場)
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フランスへ
1415年8月13日。ハリー(ヘンリー5世)率いるイングランド軍は北フランスに上陸。ハーフラー(仏名アルフラール)の港を包囲しました。
ところがこのハーフラー攻略が思いのほか手間取ります。町が降伏したのが9月22日。疲れきったイングランド軍は10月8日までこの町にとどまりました。
当時も今も、戦争、特に他国への侵略は略奪がつきもの。むしろ略奪が傭兵たちへの戦利品となっているむきもありました。町が陥落したとなれば、次に待っている運命は略奪と虐殺でした。
しかしハリーは軍の規律を厳しくし、略奪を厳重に戒めます。彼はフランスを略奪するためでなく、支配するために来たのですから。
はっきりと厳命してあるように、この国を進軍するあいだ、村人たちよりなに一つ徴発してはならぬ。金を払わずしてなに一つ強奪してはならぬ、(中略)寛容と残酷が一王国をかけて賽(さい)をふれば、やさしい前者が勝つに決まっているからだ。
(第三幕第六場)
これはフランス進軍中のハリーのセリフ。かつての仲間バードルフが教会から絵を盗んだかどで死刑になる際のセリフです。「寛容と残酷が、、、」の言い回しがかっこいいですね。さすがシェイクスピアです。私の好きなセリフの一つです。
この場面はもちろんフィクションですが、実際のハリーも略奪には厳罰を処したのです。
さて中世の戦争というものは、その悲惨さは代わりませぬが、現代からみるとのんびりしたものでした。
日本でもそうですが、この頃はまだ職業軍人というものはおりません。封建制では貴族や騎士は自前で戦争に参加したのであります。王や貴族に雇われた傭兵たちもあくまで臨時雇いであり、戦争がなくなれば夜盗と変わらない連中でした。常備軍を組織、維持するのはお金がかかるのです。この時代になって徐々に組織化されてはきますが、それはまだ少数でした。
そして貴族や騎士には自分たちの領地の管理、という大事な役目がありますから、しょっちゅう留守にするわけにはいきません。また、彼らが従えている者たちも同様でした。
つまり戦争にはするにふさわしいシーズンがあったのです。ハリーたちはハーフラー攻略でそのシーズンをほぼ潰してしまったのでした。兵糧や物資も乏しくなってきています。
敵は雲霞の如く
イングランド軍はカレーを目指します。そこで体勢を立て直し、年が改まったらまた戦争をしようという算段でした。
もちろんフランスはそんな勝手を許しません。寒さと病気で苦しむイングランド軍の後を大軍で追いかけます。地図(笑)でお分かりのように、イングランド軍はカレーに向けて進みはするものの、かなり迂回しています。これはフランス軍を避けてソンム川渡航地点を東にとったからです。
ところがフランス軍はカレーの手前に陣をしきました。
ハリーもここで腹をくくり、野戦で決着をつけることにしました。
彼我の勢力には諸説がありますが、イングランドが5,000~9,000、そのうち半数近くが長弓部隊でした。そして病人を多数抱えていました。対するフランスが12,000~30,000。
劇では王の叔父、エクセター公トマス・ボーフォートがこんなセリフを述べています。
つまり一人あたり五人、しかも新手ばかりだ。 (第四幕第三場)
この戦力差はかつてのクレシー、ポワティエ以上。ハリーの頼みの綱はウェールズの長弓部隊でした。
彼が少年時代に、顔面に傷を受け九死に一生を得たという、文字通り身を持って知ったその威力。
長弓は敵の頭上を狙って射出されます。重力が加わって落ちてくるその威力は、下手な鎧では貫通するほど。
彼は常日頃から長弓の鍛錬を奨励していました。サボったものには罰金を科したほどです。
ハリーは守りの陣形を組みます。二つの丘陵に囲まれた泥炭地の狭間に陣を敷いたのです。左右の守りは地形でカバー。中央を自分が、左右を一族が率い、陣と陣の間には弓兵を楔(くさび)状に配しました。さらに部隊の前にはくいを打ち込み、先端を尖らせました。この防御柵は牙の突進にそなえたもので、くいの先端が自然と敵を中央に誘い込むようになっていました。
イメージとしてはわが国の長篠合戦に近いものがありますね。馬防柵を組み、飛び道具である鉄砲を配した戦いに。
対するフランスもバカではありません。クレシー、ポワティエでも長弓にやられたことはちゃんと学習しています。彼らは自慢の重量騎馬部隊で弓兵を蹴散らす作戦に出ます。
はじめ両軍の距離は2キロ。フランス軍は動きません。一気に蹴散らすには遠すぎるし、持久戦に持ち込めば物量で勝るフランスが勝つからです。
そこでハリーは陣を1キロ前進させます。フランス軍はこれにひっかっかりました。功名に走り、敵を見下した騎士たちが突進してきます。作戦通りいけば防御力のない弓兵を蹴散らすことができたでしょう。しかし連日の悪天候でぬかるんだ地面。人馬共に足をとられ、その威力は半減。彼らの頭上に弓兵の射る矢が雨嵐のように降りかかります。
こうしてフランス軍がイングランド陣に到達するころには人馬共に疲れきってしまっていました。
ぬかるみに足をとられ、そのまま倒れこんで起き上がれなくなり、窒息死したものも多くいました。
しかし数で勝るフランス軍は第二第三の突撃をかけます。
戦場は退却する一陣と前進する二陣三陣で混乱状態に陥り、次々と弓兵の餌食になりました。
そしてどうにかイングランド陣にたどり着いた所で主力同士のぶつかり合いになったのです。
騎士道の終焉
この戦いはクレシー、ポワティエ同様、イングランドの圧勝で終わりました。
しかしながら前二戦と異なり、戦いの途中ではまことに無残な出来事が起こっています。
まずはイングランド。
当時は投降した貴族・騎士は命をとらず捕虜とするのが騎士道の礼儀でした。もちろん身代金が手に入るからです。ところがイングランドの優勢で捕虜の数があまりに多くなりました。
また優勢とはいえ、主力同士のぶつかり合いになるとやはり兵力で劣るイングランド。ここでもう一部隊投入したいと考えたハリーは、捕虜を監視していた部隊をこれに当てることを決意。さらに数が多くなりすぎた捕虜に武器が奪われる不安もあって、捕虜の虐殺を命じます。
一方のフランス。
フランス軍はイングランドの物資食料を焼き払う戦術に出ました。
そこを守っていたのは騎士に付き従う従者たち。つまり少年たちでした。
戦争でいきり立つフランスはテントを焼き払い、子どもたちを虐殺します。
この両軍それぞれの行動はもちろん騎士道に反するもの。
かつてポワティエで黒太子エドワードが仏王ジャンを捕虜とし、丁重に扱った頃と比べれば、いかにお互いに余裕がなくなってきたかが分かります。
もはや戦争は王侯貴族のスポーツでなくなりました。
この百年戦争に続く薔薇戦争ではさらに悲惨さが増します。復讐が復讐を招き、捕らえられ虐殺されるものも多くなりました。
栄光
こうしてハリーはクレシー、ポワティエを上回る大勝を得ました。
それぞれの犠牲者の数も諸説あります。まずシェイクスピアの芝居。
この書面によれば、戦場に横たわるフランス軍将兵は
その数一万、(中略)
ところでわがイギリス軍の死者の数は?
(中略)
総計わずか二十五名。
(第四幕第八場)
さすがにこれは誇張だろうと、映画ではオリヴィエが
five and twenty
と原作通りに言ってるのに、字幕では
600名
となっています(これはこれで問題あり、ですけれども)。
実際の所は先ほど申しましたように諸説ありますが、イングランドが100~500名、フランスが10,000名前後だろうとされています。クレシー、ポワティエでもそうでしたが、長弓の前に騎士たちはどんどん倒れていきました。
どちらにしてもこれは大勝利といってよいでしょう。
ハリーの名前はここに全ヨーロッパにとどろき渡りました。
伝説
シェイクスピアの芝居の影響もあって、このアジンコートは英国民にその栄光を長く記憶されることとなりました。ネットでagincourtと検索しただけでも、80万件近くヒットします(この中にはAgincourtというアーティストや戦艦の名前も入っていますが)。そして英国民にとって、トラファルガー、ワーテルローと並ぶ対フランス大戦勝として、半ば伝説と化しています。
しかし一度の野戦で勝敗全て決するほどフランスは弱くありません。
シェイクスピアはアジンコートの後一気にトロワの和約、そしてハッピーエンドとつなげますが、実際には栄光の凱旋を終えた後ハリーは再びフランスへと向かうのです。
◆本文中のセリフは
ウィリアム・シェイクスピア, 小田島 雄志
より引用しました◆