幕末編  15代藩主 徳川茂徳 | 東海雜記

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私も学生時代にはさまざまなアルバイトをしました。

今の仕事につながる家庭教師や塾教師をはじめ、スーパーマーケット、内装工事、交通量調査、めずらしいものではカメラマンのアシスタント(といってもただの荷物持ち)、ヘアモデル占い師の助手などなど。短期バイトを含めると十数種はやったと思います。怠け者の今の私には自分のことながらよくやったなと思ってます。

そんな中でもっとも華やかな職場だったのが大阪の大丸デパート。年がばれちゃいますが、その大丸デパートがオープンした年の冬の1ヶ月間、ボーナス商戦まっさかりの時期にバイトしました。なにせオープン1年目ですから店員さんはどれも他店からの選りすぐり。デパートは女性の職場、といわれますようにただでさえ華やかな世界ですが、私のいた頃はそりゃもう宝塚に及ばずながらもきらびやか、華やかな世界でした。皆颯爽としている、てきぱきしている。かっこいい制服を着こなし、背筋がしゃんとして、にこやか。ですから皆美しく見える。まあ、私がおぼこい田舎ものだったせいもありますが。その女性の職場で一番苦労したのは派閥。


女性の方、怒らないでくださいね。


私がいたフロアでも大きく二つの派閥がありました。そんなこと知るはずのないバイトの私でも昼食に誰に誘われついていったか、だれに包装の仕方を教えられたか、で属する派閥が決まってしまったようです。

売り場ではレジ打ちの女性が権力を握っています。忙しいときには私のもっていった商品のレジ打ちが後回しにされたり、逆に優先されたりしたことが何度かありました。

女性とは恐ろしいものだということがよおく分かりましたです。


女性の方、怒らないでくださいね。


まあ、それが苦になるほどどっぷりと業界にはつかりませんでしたし、男の私は商品センターでの品物管理などもあったので、全体としては楽しいバイトでしたよ。


さて、幕末の尾張藩でも大きく二つの派閥がありました。

一つは慶勝(よしかつ)擁立の箇所でも述べた金鉄組。藩政改革を志し、慶勝擁立を願い、どんな苦難にあってもくじけぬよう、金鉄の如き意志を持って集った藩士たちです。慶勝の時代には藩政に活躍する場が増えました。

もう一つはふいご党。金鉄をも溶かすふいごのような存在として名づけられたそうです。金鉄組に対抗して佐幕派となりました。

どんな集団でも主流派がいれば反主流派がいる。尾張藩の場合、藩主の座をめぐって幕府と何度か衝突しましたから、最初は反主流として金鉄組が形成されました。一度そういったまとまりができてしまうと不思議なもので、自然と別のまとまりができてしまう。人間のすることですから、高度な政治理念のみで金鉄組に入るものばかりではないのですね。縁故入会や何となく、とか金鉄の時代になったからオレも、なんてのもあったでしょう。ふいご党も然り。金鉄が勤皇なら佐幕の連中が集まってくる。そりの合わない奴があっちにいるからオレはこっちにしよう、なんてのもあったでしょう。

もっともふいご党の方は金鉄組ほどはっきりとしたまとまりはなく、藩内の佐幕派をあとからまとめてふいご党と呼んだのだ、という説もあります。それにしても金鉄組に対して別の思惑を持った藩士たちがいた、別の集団がいくつかあった、ということは違わないでしょう。


慶勝の失脚は金鉄組の没落を意味し、同時にふいご党躍進を意味しました。

慶勝引退を受け15代藩主になったのは弟の茂徳(もちのり)

ここで慶勝のお里、高須藩を振り返って見ますと、慶勝の藩主就任を見届けた父義建(よしたつ)はその翌年(1850年)に引退し、藩主の座を五男の義比(よしちか)に譲ります。この義比が兄の失脚後15代尾張藩主となり、将軍家茂から一字もらって茂徳と名乗るのです。茂徳のあとの高須藩はその年に生まれた茂徳の子、秀麿(ひでまろ)が継ぎます。

慶勝から茂徳の政権交代時はまだ父義建も健在でしたから胸中は複雑でしたでしょう。


尾張藩主に就任した茂徳の周りには自然とふいご党の面々が集まってきました。全国的には安政の大獄の嵐が吹き荒れ、開国に反対した攘夷派が次々と左遷させられたり、処罰させられたりしていました。

茂徳個人の思惑がどうであれ、兄と同じ道を歩むことは不可能でした。


個人レベルでは対立点のなかった兄弟でしたが、時代が2人の道を2つに分けてしまいました。

茂徳は徹底した佐幕開国派となります。

そして他家に養子に行ったもう二人の弟、会津松平家の容保(かたもり)と桑名松平家の定敬(さだあき)も、もう少し後のこととなりますが佐幕派に位置づけられることになります。


恐ろしきは派閥抗争。

15代茂徳はその犠牲者といえましょう。