【萌える日本史講座】
日本海と琵琶湖を運河でつなぐのだ-。NHK大河ドラマで活躍中の平清盛(1118~81年)が、壮大すぎる計画を描いていたという伝説が滋賀、福井の県境にまたがる深坂峠にひっそり眠っている。瀬戸内海などの制海権を手中に収めて南宋(中国)との日宋貿易を本格化させた清盛だ。珍説と決めつけるわけにはいかない。幻の「琵琶湖運河計画」を探るべく、深坂峠の「堀止(ほりどめ)地蔵」をたずねた。(川西健士郎)
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■紫式部も越えた山道
深坂峠はかつて、日本海と琵琶湖を結ぶ最短ルートとして米、塩、魚などの物資や人々が盛んに往来していた。越前国(福井県)と近江国(滋賀県)のまさに国境で、現在は峠の地下をJR北陸線の新深坂トンネル、東側を国道8号が走り、峠道はハイキングコースになっている。
福井県敦賀市のJR新疋田駅で降りて滋賀県長浜市との境に位置する深坂峠を目指す。人里を抜け、「クマ注意!」の看板に気持ちを引き締めて山道を南東方向へ登っていく。
新疋田駅を出発したときは、傘もさせないほどの暴風雨で引き返すことも覚悟したが、尾根に囲まれた山の中に入ると一転、風は穏やかに。
知りぬらむ ゆききにならす 塩津山 世にふる道は からきものぞと
登山道の案内板に書かれていたのは、長徳2(996)年ごろ、若かりし紫式部が父藤原為時の越前守就任に伴って峠を越えたときに詠んだという歌だ。
京都の宮廷人でもある式部は地方に下る寂しさを感じながら峠を越えたのだろう。世の中を塩を運んだ山道にかけ、「からいものだ」と歌っている。
新疋田駅から1時間近く歩いただろうか。標高370メートルの深坂峠に到達すると再び風は強まり、峠の頂上にいることを実感させる。そこから琵琶湖側に数百メートル下ると、深い木立の中に深坂地蔵のほこらが見えた。
■堀止めの地蔵
深坂地蔵は「堀止地蔵」とも呼ばれる。由来について深坂地蔵境内の石碑は次のように説明する。
越前の国守である平重盛(清盛の長男、1138~79年)が清盛の命を受けて琵琶湖と日本海を結ぶ運河を計画し、深坂峠を起点に塩津に流れる大川と日本海に注ぐ笙川を利用しようと、現在の深坂地蔵境内で試験掘りを行った。すると、大きな石が現れて掘り進むことができず、石工の職人が金矢で打ち砕こうと穴をあけたところ、突然腹痛にかかり、不思議に思った役人が作業を中止してこの石を掘り起こしたところ、お地蔵さまのお姿であった。それ以来、お地蔵さまは万民の不幸や災難を守り下され、特に子供の願いごとは必ず聞き入れてくださるありがたいお地蔵さまでおられる。
重盛が事実上の越前守になるのは仁安元(1166)年。この年、父清盛は内大臣に昇進し、翌年には最高の官職である太政大臣への昇進を果たす。まさに平家全盛。一大国家プロジェクトの実行が可能な立場ではあった。
■夢の運河計画
滋賀県文化財保護協会によると、清盛の運河計画の真偽は定かではないが、江戸時代の17世紀から昭和に至るまで、日本海と琵琶湖をつなぐ運河計画は何度も持ち上がっては消えた。
背景には物流革命があった。日本海側の物資は江戸時代初めまで、敦賀湾から琵琶湖の大津港を経て京都や大阪に運ばれていた。このため大津港は諸藩の蔵屋敷が湖に面する国内有数の貿易港だった。
ところが、江戸時代初期の豪商・河村瑞賢は日本海側の物資を琵琶湖を通さず、関門海峡、瀬戸内海を経て関西に届ける西廻り航路を開拓し、琵琶湖水運の地位は低下する。
そうした中、琵琶湖水運を復活させようと西廻り航路の影響を受けた京都の豪商らが運河計画をたびたび立案。元禄8(1695)年には、深坂峠の開削が計画され幕府も実地調査に乗り出すところまでいったが、敦賀の庄屋の猛反対で実現しなかったという。
享保5(1720)年には、敦賀-塩津間約20キロの運河を開削して水運をつなげるだけでなく、琵琶湖の水を日本海に流して水位を下げることで水田の拡大につなげる目的も掲げられたが、着工に至らなかった。
明治38年には日本海から琵琶湖、瀬田川、淀川を経て大阪まで汽船を通船させる計画が貴族院で採択。これは日露戦争中だったため実現しなかったが、昭和8年には琵琶湖疎水を完成させた田辺朔郎も同様の計画を発表。太平洋とカリブ海をつないだパナマ運河方式と同様の、いくつもの水門によって船を上下させながら運河を通過させる方式を考えていたという。
■発案の裏に日宋貿易
琵琶湖運河計画が次々と持ち上がった理由について、同協会調査員の辻川哲朗さんは「運河計画の目的は時代による変化はあるが、列島中央に位置する琵琶湖の水運を列島外をも含む規模の物流網上で活用しようとする強い意志がうかがえる」と指摘する。
清盛は瀬戸内海の海賊と戦って海運航路を確保し、博多に日本初の人工港をつくるなど瀬戸内海ルートを使った日宋貿易の活性化に手腕を振るっている。
航路が狭く難所とされた広島県の「音戸(おんど)の瀬戸」を開削した伝説は、スケールは違うが琵琶湖運河計画に通じる。
一方、日宋貿易は清盛の父・忠盛が越前守だった時代に敦賀でも行われたといわれ、清盛は日本海~琵琶湖ルートの重要性を教えられたに違いない。
朝廷の権力抗争にもまれながら武士の世をつくり出した清盛は、海運貿易で得た財を力の源泉としたはずだ。壮大な琵琶湖運河計画の最初の発案者として、清盛ほどふさわしい人物はいないだろう。
■お地蔵さん頼み?
運河の起点となる塩津港があった「塩津港遺跡」で5年前、すごい発掘成果があった。誓約書のルーツである起請文が書かれた大きな木簡が多数出土したのだ。ほとんどは12世紀後半のもので、まさに清盛が活躍した時代と一致する。
木簡に書かれていたのは、「魚を一巻もなくさず運びます」「米は一升も盗んでいません」など水運業者が誓約や身の潔白を宣言したと考えられる文言。
さらに、多数の神仏の名を列挙した上で「うそ偽りがあれば神罰を体中の八万四千の毛穴に蒙る」と決まり文句のように書かれていた。
当時、神罰は毛穴から浸透すると考えられていたといい、人々が神仏に対して抱いていた畏怖が生々しく伝わってくる。
清盛から運河開削を命じられた重盛は、そんな物流業者がひしめく塩津港から深坂峠に登り、深いため息をついたことだろう。
「こんな深い山に運河をつくるなんて無謀すぎる。とはいえ、父上に向かって工事は無理だなんて言えない。おい石工、何か言い訳を考えてくれ」「へい、こうおっしゃられてはいかがでしょう。私どもが金矢で岩を砕こうとしましたところ…」
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