むしろ同じなのかもしれない。的な。
あまり詳しく述べるまでもないのでそうしないけれど、
なんだか唐突に、ものすごく寂しくなった。
悲しくなった。
そしてそんなときにふと電話できる対象のいないことにも悲しくなった。
いや、正確にはいるのだけれど、何となく遠慮してしまう。やっぱり。
私の今の理想の女性像は
楠本まきの不朽の名作「致死量ドーリス」に出てくる主人公、蜜だったりする。
名前のどことなくセンシュアルな響きがとても好きだけど、実際非現実的だとも思う。
名前からして。
「彼女は君にとって理想の少女だろう。 僕にとってもそうだ。
あれは相手の望むものになるんだ。」
実際私も、相手のことがたまらなく愛しくなると、相手の望むものそのものになろうとしてしまう。
でも、いつでも無理だった。
それには私は、我が強すぎる。
「私はどこにいるの?」って言う自問自答に耐え切れなくなって、自分が本来求める姿を求め始める。
だからといって、自分が望む理想系になろうとしたって、それが自分にとっての幸せとは限らない。
じゃあ何を目指して、進んでいったらいい?どう納得したらいい?
つまり私の理想系は常にぼんやりとしているのだ。
せいぜい、日常の一こま一こまを切り取った目標ぐらいしか掲げられない。
だからこそ。
何も考えずに、何の疑問も抱かずに
相手の理想像に近づくことに至上の喜びを見出せたら。
どれだけ幸せだろうと思うんだ。
それが「奴隷状態における幸福」というものだろう。
現代人は全て例外なく「自由という名の刑に処せられているのだ。」
私は、進んで自らが最も重要視する自我を放棄することで、自己形成を目指すため絶え間ない苦痛から逃れたいのだと思う。
上記の理由で私は、建前上は確固たる自己を死守しつつも、
無条件で降伏できる相手を常に求めているのだ。
そんな人間が目の前に現れたら私は、「愛しくて憎らしい自由」を、いっぺんの躊躇もなく全て放棄するだろう。
そんなことをつらつらと考えておきながら一方で、「なんて愚かしい考えだろう」とも思う。
「自分が大事にするものを放棄した時点で、人は死んでいるも同然で。
自分の生き方を誰かによって定められるのはまっぴらごめんだわ。」って。
だから私はいつだって
「吐き気がするほど正気」で
「冴え渡る狂気と澄みきった正気の狭間で」
行き場をなくしている。
爆発点を探している。
ずっと探し続けているそれがいまだに見つからないのは、
きっと悲しいくらいに「守られているから」。「困難な状況の全てから」。