音が聞こえる。
孵化する音が。
私は、今までずっと、さなぎだった。
蝶になりたくなかったわけではない。
むしろ、羽根を得て自由に飛び回ることを何よりも切望していた。
それでも私は。
自らの意志でさなぎに、とどまった。
自由よりも大切にしていたものが、
もっと正確に言うと大切にしなければならないと勝手に思い込んでいたものが
私にはあったからだ。
何を犠牲にしても守り抜かなければならない、と思っていたものが。
でもやっと、それを捨てるときがきた。本当の自分を解放するときが。
今まで大切にしていたものが、ほかならぬ私にとって
全くの無価値であると悟った出来事があったからだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私が何よりも大切にしていたもの。
それは
「善く在ること」だった。
「自分がどうしたいか」、「自分が楽しいか」じゃない。
「多くの人にとって善なる存在となること」「評価される対象で在ること」。
それが、全てだった。
また、そうでなければならないと思い込み、
そこに「使命感」とも思しき大仰なものさえ抱いていた。
だけど。
つい先日、その目標は私が望んでいたカタチで果たされていた、
私はそのような存在になることができていたのだと確信させるできごとがあった。
「先輩は僕にとっては神様のような存在ですから。」
と、真顔で言われた。
どんな意味で言ったのかは、知る由もない。
ただ私は、あの部活において技術があったわけでも、仕事ができたわけでもないので
「人柄」に起因しているのだろうとは思った。
たしかにいつでも「思慮深く、思いやりに満ちた善なる存在」たろうとする努力は怠らなかった。
そのために、影で並々ならぬ努力をしてもいた。
この言葉は私にとっては大層衝撃的で、いろいろと考えさせるものだった。
「男の子は単純だし、そんなに大げさに受け止める必要はないのでは?」とも考えた。
でも思い出したのだ。
「ほんと、女神様ですよねぇ」と後輩女子達にもてはやされたり、
「なんでそんなに菩薩ばりに寛容なの?」と友達に不思議がられたりしたことも
少なからず在るよなぁ、と。
人がどんな思いでその言葉を発したかは知る由もないし、
もしかしたら半ば冗談で、何も考えずに言ったのかもしれない。
でも。
私はここに、今までの努力がそういった形で結実し、
少なくともその人間にとっては「そのような存在」として認識されるに至ったのではないか、
という結論を見出した。
どんなカタチであれ、「望んだ存在になった」のだと・・・。
それでも。
その言葉を聞いたあと、私の心に残ったのは
「言いようのない虚しさ」と「ほんとはそんなんじゃないのに」という思いだけだった。
うれしく、ない。
自分を評価、できない。
誰に認められようが、自分がそういう自分を認めなければ
好きになれなければ、日々を生き生きと生きていくことは不可能。
必死に努力して、何とか勝ち得た存在認識に、相応の喜びを見出せないとしたら。
このような生き方を続けても、不毛さだけが残るということだ。
「底」が、見えた。
「もう、やめよう」と思った。
22年目にしてやっと
「本当の自分」をさらけ出す決意が、やっとできた。
誰に認められなくとも、例え反感しか買わないとしても
「自分が望むこと」「自分が意義を見出せること」「自分が自分を評価できること」
に正直に、生きていこうと、思った。
今まで押し隠しすぎて、埋もれてしまった「本当の望み」を見つけたい。
最近良く目にする言葉に
“本当の自分はどこか別のところにあるのではない。
まして探しに行かなければならないようなものでもない。
それは、「こうあるべき」、「こうでなくては」という義務感めいたものののなかに
埋めもれてしまっているだけだ。
それは自分の本質の部分であり、深層にある。
「本当の自分」になるには、それを全て脱ぎ捨てればよい”
というのがある。
まさしくそうなのだろうと、身をもって悟ったように思う。
これからはまず、「脱ぎ捨てること」に注力ししていこう。
「蝶」としての人生は、たった今、始まったばかりだ。
孵化する音が。
私は、今までずっと、さなぎだった。
蝶になりたくなかったわけではない。
むしろ、羽根を得て自由に飛び回ることを何よりも切望していた。
それでも私は。
自らの意志でさなぎに、とどまった。
自由よりも大切にしていたものが、
もっと正確に言うと大切にしなければならないと勝手に思い込んでいたものが
私にはあったからだ。
何を犠牲にしても守り抜かなければならない、と思っていたものが。
でもやっと、それを捨てるときがきた。本当の自分を解放するときが。
今まで大切にしていたものが、ほかならぬ私にとって
全くの無価値であると悟った出来事があったからだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私が何よりも大切にしていたもの。
それは
「善く在ること」だった。
「自分がどうしたいか」、「自分が楽しいか」じゃない。
「多くの人にとって善なる存在となること」「評価される対象で在ること」。
それが、全てだった。
また、そうでなければならないと思い込み、
そこに「使命感」とも思しき大仰なものさえ抱いていた。
だけど。
つい先日、その目標は私が望んでいたカタチで果たされていた、
私はそのような存在になることができていたのだと確信させるできごとがあった。
「先輩は僕にとっては神様のような存在ですから。」
と、真顔で言われた。
どんな意味で言ったのかは、知る由もない。
ただ私は、あの部活において技術があったわけでも、仕事ができたわけでもないので
「人柄」に起因しているのだろうとは思った。
たしかにいつでも「思慮深く、思いやりに満ちた善なる存在」たろうとする努力は怠らなかった。
そのために、影で並々ならぬ努力をしてもいた。
この言葉は私にとっては大層衝撃的で、いろいろと考えさせるものだった。
「男の子は単純だし、そんなに大げさに受け止める必要はないのでは?」とも考えた。
でも思い出したのだ。
「ほんと、女神様ですよねぇ」と後輩女子達にもてはやされたり、
「なんでそんなに菩薩ばりに寛容なの?」と友達に不思議がられたりしたことも
少なからず在るよなぁ、と。
人がどんな思いでその言葉を発したかは知る由もないし、
もしかしたら半ば冗談で、何も考えずに言ったのかもしれない。
でも。
私はここに、今までの努力がそういった形で結実し、
少なくともその人間にとっては「そのような存在」として認識されるに至ったのではないか、
という結論を見出した。
どんなカタチであれ、「望んだ存在になった」のだと・・・。
それでも。
その言葉を聞いたあと、私の心に残ったのは
「言いようのない虚しさ」と「ほんとはそんなんじゃないのに」という思いだけだった。
うれしく、ない。
自分を評価、できない。
誰に認められようが、自分がそういう自分を認めなければ
好きになれなければ、日々を生き生きと生きていくことは不可能。
必死に努力して、何とか勝ち得た存在認識に、相応の喜びを見出せないとしたら。
このような生き方を続けても、不毛さだけが残るということだ。
「底」が、見えた。
「もう、やめよう」と思った。
22年目にしてやっと
「本当の自分」をさらけ出す決意が、やっとできた。
誰に認められなくとも、例え反感しか買わないとしても
「自分が望むこと」「自分が意義を見出せること」「自分が自分を評価できること」
に正直に、生きていこうと、思った。
今まで押し隠しすぎて、埋もれてしまった「本当の望み」を見つけたい。
最近良く目にする言葉に
“本当の自分はどこか別のところにあるのではない。
まして探しに行かなければならないようなものでもない。
それは、「こうあるべき」、「こうでなくては」という義務感めいたものののなかに
埋めもれてしまっているだけだ。
それは自分の本質の部分であり、深層にある。
「本当の自分」になるには、それを全て脱ぎ捨てればよい”
というのがある。
まさしくそうなのだろうと、身をもって悟ったように思う。
これからはまず、「脱ぎ捨てること」に注力ししていこう。
「蝶」としての人生は、たった今、始まったばかりだ。