Hartford Courant (Feb. 21, 2019)
Mansfield's Peter Tork bassist and singer in the Monkees, dies at 77
by Harrion Smith
ブルース&フォークのミュージシャンで、TV番組としてビートルズをまねて作られたが一時は売り上げを凌ぐほどだった、皮肉の効いたポップ・グループ、モンキーズのメンバーとして10代の若者の人気者となったピーター・トークが2月21日に他界した。77才だった。
彼の訃報は妹のアン・トーケルソンによってもたらされたが、詳しい事は公表されていない。トークは2009年から腺様嚢胞がんという、舌部を侵す希少がんを患っていた。
もしモンキーズがビートルズの人工物として作られ、ロックン・ロール・コメディー用にオーディションで音楽的な才能よりも長髪の見た目重視で選ばれた「プレハブ・フォー」だったとしたら、トークはグループのリンゴであり、愛すべきマヌケな脇役だった。
番組で演じたのは、彼の言葉によるとグループの「とんま」役だった。その仮面は彼がグリニッジ・ビレッジでフォーク・ミュージシャンとして活動していた時に開発したもので、ステージでのジョークがすべった時に笑顔でごまかす為だった。素顔の彼は「サマー・オブ・ラブ」を享受し、モカシン(訳注:アメリカ先住民の靴)を履き、「ラブ・ビーズ」を身に着け、「非言語的、超感覚的なコミュニケーションが間近に迫り」、「教条主義(訳注:ある特定の原理・原則に固執して応用の効かない考え方)は消えつつある」と力説していた。
様々な楽器に長けたトークは、モンキーズでは主にベースとキーボードを担当し、“Your Auntie Grizelda” やグループのサイケデリックな映画「ヘッド」(1968)のために彼が書いた “Long Title: Do I Have to Do This All Over Again” ではリード・ボーカルを務めた。
1966年に「ザ・モンキーズ」の放送がNBCで始まった時、24歳の彼は最年長のメンバーだったが、そんな事は気にならなかった。その年の「ニューヨーク・タイムス」紙で彼がその理由を語っている、「僕たち全員、精神年齢が13才だから」。
プロデューサーのボブ・レイフェルソンとバート・シュナイダーによって創作された「ザ・モンキーズは、ビートルズのミュージカル・コメディー(リチャード・レスター監督)、「ア・ハード・デイズ・ナイト」と「ヘルプ!」の成功を再現する事を目的としていた。
バンドのメンバーはトークと、シンガーソングライターでギター担当のマイケル・ネスミス、元子役のミッキー・ドレンツ(ドラム担当)とデイビー・ジョーンズ(リード・ボーカル担当)だった。イギリスのライバル同様、彼らもいたずら好きで、魔法のネックレスや猿の手、海賊やテキサスのならず者を巻き込んだ大騒動を繰り広げた。
「ザ・モンキーズ」はわずか2シーズンの放送だったが、エミー賞で最優秀コメディー賞を受賞し、商品展開やレコード売り上げにワールド・ツアーといった熱狂を生み出し、それはモンキーマニアと呼ばれるようになった。1967年の「ワシントン・ポスト」紙の記事によると、モンキーズは3500万枚のアルバム、「ビートルズとローリング・ストーンズを合わせた2倍」を売り上げた。ビルボード・チャートで1位をとった “Daydream Believer”、“I’m a Believer”、“Last Train to Clarksville” のような曲の力があったからである。
否定派は、少なくとも最初の内はバンドが名前だけの存在だったという事実を指摘した。モンキーズがデビュー・アルバムのジャケットを飾り、TVで演奏シーンが放送されたが、実際は彼らの楽器はアンプに繋がれていなかったのだ。曲の演奏はほとんどがセッション・ミュージシャンによるもので、グループ名が入ったデビュー・アルバムの製作を手伝おうとスタジオ入りした時にショックを受けたトークが当時を振り返る。
後にCBSニュースで語ったところによると、彼は「愕然とした」そうだ。「黄金の耳を持つ男」と呼ばれた音楽プロデューサーのドン・カーシュナーは彼を必要としていなかったのだ。「丁度 "Clarksville" をやっているところで、僕は対位旋律(訳注:主旋律を効果的に補う別のメロディー)を書いた。僕は音楽を学んでいたからね」とトーク氏は語る。「それを彼らに手渡したら、『いや、いや、ピーター。君は分かってない。これはレコードなんだ。もう出来上がってる。君は要らないんだ』って言われたよ」。
2作目のアルバム “More of the Monkees" (1967) の発売後、トークとバンド・メンバーたちはレコーディング作業の主導権を握り、 “Headquarters” (1967) と “Pisces, Aquarius, Capricorn & Jones Ltd.” (1967) 等のレコードのほとんどの曲を作曲して演奏した。
彼らはツアーも始め、チケット完売のスタジアムの観客の前で演奏した。オープニング・アクトには、短い間だがギタリストのジミ・ヘンドリックスも入っていた。しかし、トークの音楽的意欲が高まるにつれ、彼はモンキーズを純粋なロック集団として思い描くようになり、モンキーズをむしろ物珍しいエンタメ活動として捉えていたバンド・メンバーたちとの衝突が始まった。
俳優のジャック・ニコルソンが共同脚本を務めた映画「ヘッド」、風刺的でほぼ筋書きのない失敗作が公開された直後、トークはグループを脱退した。トークはこの映画にカメオ出演したミュージシャンのフランク・ザッパの台詞からきっかけをもらったかのように見える。ザッパがジョーンズのキャラクターに向かって、こう言うのだ。「(モンキーズは自分たちの音楽に)もっと時間をかけるべきだ。何故なら、アメリカの若者がどうなるかは君たちが示す道にかかっているからだ」。
1970年代の大半、トークは自分探しにもがいていた。リリースというバンドを結成したが上手く行かず、1972年には「ポケットに3ドル相当のハシシ(訳注:大麻樹脂)」を所持していた事で数ヶ月投獄され、高校で教師をして、モンキーズ時代の財産も底を尽き、「歌うウエイター」として働いた。彼はまた、アルコール依存症にも苦しんだと語る。「酒に酔った僕は本当にひどくて、周りに怒鳴り散らしていたんだ」と、1980年代初頭に禁酒する前、「デイリー・メール」紙に語っている。
その頃までには、TVショーの再放送やアルバムの再発売によりモンキーズへの関心が再び高まっていた。トークはソロ・アーチストとして活動する傍ら、10年に一度は大掛かりな再結成ツアーに参加してきた音楽グループの根本的な性質について語るようになった。
「これはバンドじゃない。エンターテインメント活動であり、その演目がモンキーズの音楽なんだ」と、2016年のモンキーズ・ツアー中に「ブリティッシュ・テレグラフ」紙に語った。「それが分かるまでに時間がかかってしまったけど、結果としては素晴らしい音楽なんだ!なんて風変わりでステキな体験なんだろう!」
ピーター・ハルステン・トーケルソンは1942年2月13日に誕生した。母親は専業主婦で、父親は第二次大戦後にアメリカ統治下のベルリンで陸軍士官を務め、コネチカット大学の経済学の教授となり、家族を連れてマンスフィールドの町に居を定めた。
両親ともにフォーク・ミュージックのレコードを収集しており、幼い彼にギターとバンジョーを買い与えた。ピーターはピアノを習うようになり、ミネソタ州ノースフィールドのカールトン大学ではフレンチ・ホルンを習った。大学を2度落第して、ニューヨークに移った。苗字を縮めて、トークと名乗った彼はコーヒー・ハウスや簡易的なフォーク・ミュージックの小屋で演奏をした。トークの由来は、ロサンゼルス・タイムスによると、彼の父親のお下がりのトレーナーにそう書いてあったのだという。
1965年にロサンゼルスのロング・ビーチへ引っ越す以前、トークはギタリストのスティーブン・スティルスと演奏した事があった。スティルスも西部へ移っていて、「ザ・モンキーズ」のオーディションを受けていた。番組のプロデューサーが「バラエティー」紙に出した広告「17才から21才までの4人のイカレた若者を求む」を見ていたのだ。
その役を取り損ねたスティルスは(噂では、歯並びが悪かったからとも)、トークにオーディションを受けるように勧めた。後にロサンゼルス・タイムズでトークが語っている、「僕は『うん、わかった。電話ありがとう』って、切ったんだ。彼は数日後にまたかけてきたよ」。最終的に説得されたトークはオーディションを受けた。
後年、いくつかのTV番組にゲスト出演し、ドラマ「ボーイ・ミーツ・ワールド」では主人公の初恋相手トパンガの父親役(ギター職人)を演じた。近年はシュー・スエード・ブルースというバンドで活動。また、1994年にはソロ・アルバム “Stranger Things Have Happened” を発売して好評を博し、フォーク・シンガーのジェームズ・リー・スタンリーと組んで数枚のアルバムを出した。
トークの結婚歴はジョディ・バーブ、レーン・スチュワート、バーバラ・イアノリ(いづれも離婚)。遺族は現在の妻パメラ・グレイプス、二度目の妻との娘ハリー、三度目の妻との息子アイバン、タミー・サステックとの娘エリカ、そして弟と妹。
モンキーズの再結成ツアーの多くはネスミス抜きで行われた。彼はリキッド・ペーパーを発明した母親の遺産を相続し、バンドの最初の解散後は表舞台に現れることがあまりなかった。モンキーズの歌い手、ジョーンズが亡くなった2012年にネスミスがパフォーマーに復帰し、4年後の50周年再結成ツアーとアルバム "Good Times!" への弾みとなった。
モンキーズは仲たがいの報道としばしば起こる緊張状態に悩まされた。トークはジョーンズに頭突きをくらった事があるし、2001年のツアーを途中で辞めたのは自分が「ブチ切れて、不適切な行動をとってしまった」からだと言っている。とは言え、彼らは一緒にいる時が最高の状態だとトークは主張する。仮にTV番組のためにプロデューサーが顔のいい若者を集めただけだったとしても、彼らの音楽的な相性は特別なものだったとトークは語っている。
「僕たちにできたなら、どんな4人組にもできたという意見は受け付けない」と、トークは2013年の「ギター・ワールド」誌に語っている。「この組み合わせには魔法がかかっている。僕たちは互いに選ぶ事はできなかった。そんな事はムリだっただろう。しかし、そういう状況下で、彼らは最適な人材を選んだのさ」。
https://www.courant.com/nation-world/hc-wp-peter-tork-obituary-20190221-smowccxtqzcw5doflqjgwbnoxe-story.html