Vintage Drummer (April/May/June 2004)

Micky Dolenz

Series Television's First Rock And Roll Drummer

by John Sheridan

 
2004年は申年である。それだけで「ヴィンテージ・ドラマ―」がミッキー・ドレンツにオマージュを捧げるのにふさわしい理由になる。元々は1966年から68年に放送されたTVシリーズ「ザ・モンキーズ」のドラマ―役に抜擢されたのだが、この若き俳優はレコーディングやライブ演奏などができるほどの楽器の実力がある事をすぐに証明してみせた。ミッキーがよく使う言い回しのように「レナード・ニモイが本当のバルカン人になったようなものさ!」
 
狂乱の1960年代後半から数十年に渡る数々の再結成ツアーまで、ミッキーはロックとポップス史上最も個性的な歌声の両方を披露できる事を証明してきた。そしてモンキーズは長年、一部のミュージシャンから反感を買う対象になっていたが、4人編成のロック・バンドとして演奏できる能力があり、なおかつ見事にこなしていたこのグループが、最終的に本物の演奏集団であると証明した事実は否定できない。逆説的に、このグループの多忙すぎる撮影スケジュールのお陰で、ロサンゼルスとニューヨークの双方で、多くのスタジオ・ミュージシャンたちに膨大なセッションの機会が与えられたという事実も見逃す訳にはいかない。現場のミュージシャンたちが反発していたというのは古びた結論である。あの偉大なハル・ブレインもこう言っている、「笑顔なら、居てもいい。ふくれっ面なら、出て行け!」
 
ミッキーのこれまでの演技経験がドラムの演奏力を育てた事は疑いようがない。ミュージシャンと同じように、俳優も才能や経験だけではなく、その技術も駆使して望んだ効果を成し遂げる。時に私たちは技術のないところに形式を見い出す事さえある。もし私たちに十分な想像力があれば、それを補い、うまく機能するように足りない部分を即興で補う方法を見つけるのだ。ここで未知の要因が登場する。そのお陰で私たち全てが同一に聞こえないようにしつつ、時おり革新的な事ができるようになるのだ。
 
1960年代のテレビにおいて、モンキーズのシリーズは確かに革新的だった。もちろんビートルズの2作の映画の影響は大きかったが、このシリーズは映画を超越し、常に努力し、そして毎週放送されたのだ。しかし、番組制作に取り掛かる前に、ネットワークに売り込むためのパイロット版を製作する必要があった。
 
パイロット版は1965年後半に撮影されたが、ミッキーにはロジャース社の「イーグル・バッチ」ホワイト・マリン・パール色の4ピース・キット(ラグ:留具は「ブレッド&バター」)があてがわれた。キットの内容は14x20インチのバス・ドラム、8x12のセンター・ラグ付きタム、16x16のフロア・タム、揃いの5x14のスネア・ドラム、スイヴォマチック(シンバル・ホルダー)でジルジャン社の22インチのライド・シンバルと14インチのハイハットだった(このセットで登場したのはこの回だけ)。パイロット版とその後のシリーズで使われた「吹替」の音楽は当初、すべてがスタジオ・ミュージシャンによって演奏された。ハル・ブレイン、フランク・デヴィ―ト、ジム・ゴードン、エディー・ホー、ビリー・ルイス、ハーブ・ロヴェッレ、アール・パーマーといった錚々たる顔ぶれのセッション・ドラマ―たちがモンキーズのために演奏していた。
 
モンキーズのツアーが必要に迫られた時、彼らはライブ演奏をやり遂げられると思うまで熱心にリハーサルを重ねた。ミッキーは右利きなのだが、足は左の方がやりやすいと感じていた。この思い付きが、クロスアーム奏法をしたくないという彼の望みを叶えると共に、リモート・ハイハットを固定した位置で演奏するという革新的なアイデアをそうとは気づかずに導入していた。現在では一般的な方法だが、37年前にはほとんど考えられなかった事だった!
 
ツアー初日は1966年12月3日、ハワイ公演だったがNBCでTVシリーズが始まって3ヶ月もたっていなかった。このツアーは1967年1月下旬まで続き、フェニックスでのコンサートはドキュメンタリー形式で撮影された。この1月21日の公演は数ヶ月後、ファースト・シーズンの最終回として放送された。
 
この頃、ブルックリンのグレッチ社は大量のTV露出と引き換えに番組へギター、ベース、ドラムを提供していた。ミッキーがこのツアーで使っていたのは、グレッチのシャンパン・スパークル色のキットでTVシリーズでも使っていた。構成は14x22インチのバス・ドラム(かの有名なモンキーズのギター・ロゴ入り)、8x12のタムタム、16x16のフロア・タム、5x14のスネア・ドラム(クローム・メッキ加工の真鍮製、マイクロ・センシティブ・ストレイナー付き)である。興味深いのは、タムタムのブラケット(固定具)がラディック社製(ティンバル・タイプ)だった事とグレッチの初期のダブル・タムのホルダー用支柱のブラケットだった事である。(グレッチ社はまだ自社のブラケットを開発していなかったので、実際に初期のダブル・タム・キットにはラディック社の物が使われていた!)グレッチ社がミッキーに提供したシンバルは独占輸入していたトルコのKジャルジャンかイタリアのアジャーハで、22インチのリベット付きライド・シンバルと18インチのクラッシュ・シンバルと14インチのハイ・ハットであった。
 
グレッチ社はモンキーズの全面広告を当時の様々な音楽専門誌に掲載し、この宣伝媒体を最大限に利用した。人気のTVシリーズに、ビートルズとローリング・ストーンズのレコードを合わせた売り上げを上回り、ツアーも完売というモンキーズは1967年のショービジネス最大のヒットになっていた。
 
3作目のアルバム "Headquarters" のレコーディングにあたり、ミッキーは67年初めにドラムをロジャースに切り替えた。音楽監督も変わり、ミッキーはアルバムの全曲とアルバム未収録のシングル "The Girl I Knew Somewhere" でドラムを演奏した。彼が使ったのは、レッド・オニキス色の14x20のバス・ドラム(クランプ付きスパー:レッグを追加したリバーズ仕様)にマウント式8x12のハイ・タム、スネア・スタンドにマウント式9x13のロー・タム、クローム加工の真鍮製5x14のダイナソニック・スネア、グレッチのシャンパン・スパークル色の16x16のフロア・タム(ロジャースのフロア・タム紛失のため、代用としてTVショーのグレッチ・セットから借用したと思われる)。あのシズル・シンバル(リベット付きシンバル)は "Headquarters" 全般に渡って、はっきりと聞くことができる。このセットにはスプラッシュ・シンバル(クラッシュより一回り小さいシンバル)も付けられていた。
 
ミッキーは当初、1967年夏のモンキーズ全国ツアーではレッド・オニキスのセットを使っていたが、主に使ったのはジェット・ブラック・パール(ブラック・ナイトロン)のロジャースのキットだった。構成は14x20のバス・ドラム(黒のモンキーズ・ギター・ロゴ入り)にマウント式8x12のハイ・タム、スネア・スタンドにマウント式9x13のロー・タム、16x16のフロア・タムと合わせたスイヴォマチック付き5x14のスネア(どちらのロジャースのキットも、ミッキーの左足操作に合わせてバス・ドラムの向きが逆になっている事に注目)。このセットはセカンド・シーズンに挿入される吹替演奏シーン(ミュージック・ビデオ)で度々見る事ができ、印象的なレインボー・カラー背景のシーンでも見られる。これらの挿入シーンは全てモンキーズのツアーの休みの日にシカゴのスタジオで撮影された。
 
1968年、モンキーズは長編映画「ヘッド」の準備に取り掛かっていた。ライブ演奏シーン(1968年5月21日、ソルト・レイク・シティーにて撮影)で、ミッキーはスリンガーランド社のブラック・スパークルのダブル・バス・ドラムのキットを使っている。セット内容は2つの14x20のバス・ドラム(共にすりガーランドのロゴと大きなブロック体の "DRUM" の文字が入っている)、スイヴォマチックのフロア・スタンドに付けられた8x12のハイ・タムと9x13のロー・タム、16x16のフロア・タムと8ラグのクローム加工真鍮製5x14のスネア。ミッキーはその数ヶ月前にモントレー・ポップ・フェスティバルに参加していたので、キース・ムーンに影響されたのかもしれない。彼はそこでザ・フーの演奏の最後にキースがスリンガーランドのシルバー・スパークルのダブル・バス・ドラムを叩きつけて、壊すのを目撃していた(あるいはダブル・バス・ドラムのキットがあるのはスリンガーランド社だけだと思ったのかも?)
 
ミッキーは68年後半にオーストラリアと日本を回った極東ツアーでも同じスリンガーランド社のキットを使っている。また、モンキーズが1969年2月5日に出演した「グレン・キャンベル・グッド・タイム・アワー」でもバス・ドラムを1つ減らして同じキットを使っていた。
 
TVスペシャル「33 1/3 レボリューションズ・パー・モンキー」(1969年4月14日放送)では、ミッキーはスリンガーランドのキットを番組のクライマックスで演奏している。グレン・キャンベルの時と同じものだが、バス・ドラムのヘッドが取り外されている(これは60年代後半に始まった流行で、70年代まで続いた)。ヴィンテージ・ドラムにはフープやTハンドル、フック〈どれもヘッドを固定する器具〉がないものが多いのを不思議に思った事はないだろうか?私たちはこの「愉快な」流行に感謝してやまない。私はこれを「70年代症候群」と名付けた。)
 
その宣伝効果を獲得しようと、当時のあらゆるブランドがモンキーズへ音楽機材を常に提供していた。それぞれが自分に合うものを選び、残りは手放した。公式スポンサーはグレッチのみだったが、彼らは最終的に1968年までにはギブソンのギター、ギルドのベース、スリンガーランドのドラムに移っていた。
 
モンキーズを心地良い軽快なポップ・ミュージックの象徴と見なすか、見掛け倒しのハリウッド産業の駒と見なすかはさておき、一つだけ確かな事がある。ロック界の「プレ・ファブ・フォー」として君臨した短い期間に多くの素晴らしい(そして今やヴィンテージとなった)楽器が彼らの手に渡ったのだ。
 
 
 
Micky Dolenz Up-Close
by Billy Jeansonne
 
およそ40年前、ミッキー・ドレンツは巷で人気のモンキーズのドラマ―としてアメリカのTVを賑わせていました。
 
1960年代半ばのポップ・カルチャーをフル活用するため、TV初のロックン・ロール・シリーズとなるパイロット版の企画が持ち上がります。モンキーズのオーディションはミュージカルのキャスティングと似ていました。楽器の演奏や歌唱、演技や即興も求められたのです。ミッキーは10才の時にプロの俳優となっていました、1956年から1958年のNBC「サーカス・ボーイ」にコーキー役で出演していたのです。彼はまた、歌もやり、ギターもフォーク・ミュージックに移行する前からクラシック・ギターを習っていました。モンキーズに先立って、「ミッキー&ワン・ナイターズ」というロック・バンドも始めています。こうした才能と突拍子もないコメディー・センスが相まって、ミッキーはこの役を勝ち取ったのです。
 
こうして、ポップス史でもとりわけ人気のある舞台が用意されて、ミッキーはポップスでも独特な歌声を披露する事になりました。とにかく、"Pleasant Valley Sunday" を聞いてみて。オープン・カーの屋根を開け、ラジオをつけて、大通りを疾走して楽しみましょう!
 
モンキーズのファンであろうとなかろうと、モンキーズの存在があったから多くの素晴らしい曲が誕生したという事は否定できないでしょう。曲の演奏はプロのスタジオ・ミュージシャンたちによって行われましたが、じきにモンキーズ自身で演奏するようになりました。コンサートによって、モンキーズは批評家たちを黙らせました。彼らのガレージ・ポップなスタイルの演奏は巧みで、初期のキンクスやビートルズのコンサートのような活気に満ちた確かな技量があり、未熟ながらも魅力的でした。TVシリーズと同様に、彼らの音楽が60年代のアメリカ文化に大きな影響を与えた事、ポップスの歴史にミッキーの名が刻まれる事は疑う余地がありません。
 
VDM:ミッキー、モンキーズの番組にドラマ―役として決まった時は何才でしたか?
 
ミッキー:あれは1965年で、僕は20才だった。
 
VDM:出演が決まった時はドラムをやっていたんですか?
 
ミッキー:いや、僕はギターを弾いていた。ドラムを習ったのは、役が決まってからだった。ドラムをちょっとかじった事はあったけど、ちゃんとしたレッスンを受けたのはモンキーズのドラマ―役に決まってからだった。
 
VDM:すぐにレッスンが始まったと思いますが、どこで受けましたか?
 
ミッキー:うん、ロサンゼルス近郊の複数の先生にしっかり1年間ドラムを習った。
 
VDM:番組で最初に使ったドラムはどこのですか?
 
ミッキー:最初に番組に用意されたのは(シャンパン・スパークル色の)グレッチのセットだった。それは長年持っていたんだけど、引越しの時に持っていけなくてね。取っておけば良かったと思ってる。黒のロジャースのドラムも番組で使ったし、それはツアーでも使った。黒のロジャースのセットは今も持っているよ。
 
VDM:ミッキー、あなたがモンキーズのスタジオ・アルバムで演奏し始めたのはいつからですか?
 
ミッキー:僕たちが全て演奏した最初のアルバムは "Headquaters" だ。元々、会社は僕たちにアルバムで演奏させたくなかったんだけど、僕たちが反乱を起こして自分たちの曲を演奏してレコーディングする権利を勝ち取ったんだ。僕は自分をスタジオ・ドラマ―だとは思ってない。僕は自分の演奏をして、僕はそれでいい。話は飛ぶけど、モンキーズの後でフランク・ザッパが電話をしてきて、マザーズ・オブ・インベンションに入って欲しいって言われた事があって。でも僕は他のレコード会社と契約中だったからできなかったんだよね。僕たちは始まったすぐの頃からモンキーズのアルバムには参加しているんだ。マイク・ネスミスはアルバムで演奏する事にこだわっていた。彼はファースト・アルバムでキャロル・キングと一緒に "Sweet Young Thing" という曲を書いてるけど、最初の頃のアルバムで演奏させてもらうのは本当に大変だった。僕に求められていたのは歌だけだった。
 
VDM:ハル・ブレインは初期のレコーディングでドラムをやっていたんですか?
 
ミッキー:ああ、そうだよ。レッキング・クルーは僕たちの初期作品を沢山やったけど、それだけじゃなくてビーチ・ボーイズやバーズにママス&パパス、その他多くのグループのアルバムに参加してる。最初の頃はハルからいっぱい教えてもらった、正規のレッスンじゃないけど、ハルから多くの事を学んだよ。
 
VDM:アルバムではあなたが主に歌っていたんですか?
 
ミッキー:シングルのリード・ボーカルは全部、僕とデイビーだった。マイクもアルバム・カットがいくつかあって、ピーターも2,3曲あった。でも、主なヒット・シングルは僕が歌ってる。
 
VDM:ヨーロッパを除いて、他の国でツアーした事はありますか?
 
ミッキー:うん、60年代に日本へ行った。デイビーと僕は極東ツアーもした。シンガポール、マレーシア、韓国、台湾と日本に行ったんだ。オーストラリアでもツアーしたよ。
 
VDM:今でもツアーでドラムを演奏しますか?
 
ミッキー:え~と、1997年に僕たち4人で英国ツアーをした時、オリジナルのモンキーズの配置を再構成したんだ。僕がドラムを叩いてリードを歌い、マイクがギター、ピーターがベースとキーボード、デイビーはパーカッションとアコースティック・ギターをやった。最初にピーターがグループを辞めた後、マイクとデイビーと僕でツアーに出たんだけど(1969年)、3人での演奏は経験がなかったからバックバンド(サム&ザ・グッドタイマーズ)をつけた。デイビーとピーターと僕がツアーをした時は、ダブル・ドラマ―体制だった。サンディー・ジェンナーロと僕でドラムをやったんだけど、僕は何曲かだけだった。皆にもっと前に出てほしいってずっと言われてたんだ、僕がほとんどリードで歌ってたからね。観客からしたら、リード・シンガーがずっとドラムの後ろにいるのは見ていて飽きちゃうんだ。デイビーに説得されるような形でドラムから離れた。デイビーは前でバック・ボーカルをやっていたんだけど、それだとドラムの後ろにいる僕とうまく合わなかったんだよね。
 
VDM:ツアーに行く時は今もサンディー・ジェンナーロがドラムをやっているんですか?
 
ミッキー:サンディーは真っ先に声がけする一人だよ。Eストリート・バンドのマックス・ワインバーグも1986年に一緒に演奏したんだ。
(訳注:ブルース・スプリングスティーンのバックバンドとして有名なEストリート・バンドのドラマ―、マックス・ワインバーグがモンキーズと演奏した事はありません。多分、ミッキーがTV番組「レイト・ナイト・ウィズ・コナン・オブライエン」1993年12月16日放送にゲスト出演した時に、番組専属のバンド、マックス・ワインバーグ7の伴奏で "I'm A Believer" を歌った事を勘違いしたのかも。)
 
VDM:ドラムを始めた時に影響を受けたドラマ―はいますか?
 
ミッキー:コージー・コール(訳注:米国のジャズ・ドラマ―)。バディ・マイルスはよくうちに来ていて、色々と教えてくれたよ。リンゴの影響は受けてると思う、何しろ僕はビートルズの大ファンだからね。多分、今でもリンゴが最高のロックン・ロール・ドラマ―だと思う。彼は派手なドラマ―じゃないけど、曲に対する直感的なセンスがあるんだ。
 
VDM:モンキーズで好きな曲は何ですか?
 
ミッキー:いくつかあるけど、ずっと好きなのは "Pleasant Valley Sunday" 。キャロル・キングの曲だよ。どんなに時が過ぎても通用するんじゃないかな。
 
VDM:モンキーズの曲を書いた事はありますか?
 
ミッキー:うん、でもヒットはしなかった。僕たちが書いた曲はどれもヒットしなくて。ほとんどのヒット曲はニール・ダイアモンドやジェリー・ゴフィン&キャロル・キングやトミー・ボイス&ボビー・ハートが書いたんだ。
 
 
ミッキーの近況:エルトン・ジョン&ティム・ライスのミュージカル「アイーダ」に出演中。
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