Saving Country Music (Dec. 10, 2021)

More Than a Monkee: Mike Nesmith's Seminal Hand in Country Rock

モンキーズだけではない:カントリー・ミュージックにおけるマイク・ネスミスの影響力について

Saving Country Music

 

「彼らは○○版のモンキーズで、、、」というのは、自然発生というよりは作られたバンドを表現する、音楽業界において使われるいつもの言い回しである。グループがかつて60年代の音楽シーンを商業化しようとするプロデューサーたちによって集められたグループだということを引き合いに出しているが、歌とレコードと(やや)人気があったTV番組はその後、カルト的な人気を集めることになった。
 
しかし、真実とはいつもそういうものであるが、デイビー・ジョーンズ、ピーター・トーク、ミッキー・ドレンツ、マイケル・ネスミスは認知されているよりもモンキーズの音楽に関わっていた、特にプロジェクトの後期においては。一方、当時の人気アーティストたちは世間で思われているよりも自分たちの音楽に関わっていなかった。モンキーズとそのスタッフは、専門のソングライターが曲を書き、スタジオ・ミュージシャンが音楽を作り上げていたということを隠そうとしなかっただけなのだ。
 
このモンキーズに対するネガティブなイメージは、カリフォルニアのカントリーとロックを融合させた、ギタリスト、シンガー、ソングライターであったマイク・ネスミスの非常に重要な功績にしばしば暗い影を投げかける。彼はこの地域の音楽がサイケデリックからカントリーのルーツへ移行していく中で、パフォーマー、慈善活動家としての役割も果たしてきたのに、である。

 

テキサス州ヒューストンに生まれ、ダラスで成長したマイク・ネスミスは空軍で兵役をこなし、その後サンアントニオの大学に行った。大学で彼はジョン・キューンと曲作りや演奏を始めた。キューンは早くからジョン・ランドンとして知られており、後に5番目のモンキーズのような形でプロジェクトに関わり、バンドが自分たちの曲を演奏できるようになるとベースを演奏するようになった。

 

サンアントニオ大学で賞を取った後、ジョン・キューンとマイク・ネスミスは思い切って、ロサンゼルスに拠点を移す事にした。モンキーズで大ブレイクする前に、マイク・ネスミスはポール・バターフィールド・ブルース・バンドに "Mary, Mary" という曲を書いた(後にランDMCもカバーする)。また、リンダ・ロンシュタットとカントリー・ロックで著名な彼女のグループ、ストーン・ポニーズが歌う "Different Drum" や "Some of Shelly's Blues" も書き上げた。

 

マイク・ネスミスは著作権契約を結び、ロサンゼルスのカントリー寄りのロックやフォークのミュージシャンたちと親しくなっていく。とりわけ、伝説のトルバドールで行われていた "Monday Night Hootenanny"(訳注:hootenanny、観客参加型のフォーク・コンサート)の司会としてカントリー・ロックの将来の担い手たちと知り合い、彼自身も知られていった。

 

もちろん、こういった事は全て、マイク・ネスミスの顔が全国放送のテレビで毛糸の帽子を被ったノッポでひょろっとしたモンキーズのメンバーとして知られることで、影が薄くなっていた。彼は多くの十代の憧れの的であったが、当時のミュージシャンたちはギターを抱えた小道具のようなものだとバカにしていた。しかし、モンキーズは彼らの見せかけの演奏に対する批判を真摯に受け止め、ネスミスはリーダーの一人として、彼ら自身の曲を良かろうが悪かろうが自分たちで作って演奏していく方向へ舵を切った。そして、少数ではあったが新たな信頼を勝ち取った。

 

モンキーズ自身におけるカントリー・ロックへの貢献も見落とすことはできない。彼らの最初のヒット曲 "Last Train to Clarksville" は実にカントリー・ロックらしい曲なのだ。派手で特徴的な、トゥワングな(カントリー独特の高音が突き抜ける)ギター・リフがNo. 1シングルへと押し上げた。バンドがあの有名な "Daydream Believer" を録音する頃には、マイク・ネスミスはモンキーズのほとんどの曲で自らギターを弾いていた。モンキーズ後期のヒット曲の一つ、トゥワングな "Listen to the Band" は作曲、演奏、歌唱全てがネスミスによるものである。

 

しかし、実際にカントリー・ロックの原動力となったものはマイク・ネスミスがモンキーズの解散後にやったことであった。バーズやグレイトフル・デッドがカントリーへ移行していったのと同様だ。1969年、マイク・ネスミスは旧友のジョン・キューン、セッション・ドラマ―のジョン・ウェア、伝説のスティール・ギター奏者オーヴィル・レッド・ローズとファスト・ナショナル・バンドを結成した。モンキーズやバーズ、リンダ・ロンシュタットのストーン・ポニーズから誕生したカントリー・ロック・バンドのイーグルスのような大きなヒット曲はなかったが、ファースト・ナショナル・バンドは "Joanne" をそれなりにヒットさせ、急成長するカントリー・ロックへ大きな影響を与えた。

 

ファースト・ナショナル・バンドは新たな楽曲と共にセカンド・ナショナル・バンドへと移行した。しかし、マイク・ネスミスとスティール・ギター奏者のレッド・ローズによる共同制作はレッドが1995年に亡くなるまでずっと続いた。時がたつにつれ、ネスミスはカントリー・ミュージックへの情熱のはけ口をプロデューサーの座に見出すようになる。一時期、エレクトラ・レコードの一部門でカントリーサイドという自身のレーベルを任されることになった。

 

カントリーサイドはネスミスにとって野心的なプロジェクトであった。彼はカントリー・ミュージックの伝統を守り、メインストリームから見落とされているアーティストたちがレーベルを通じて広く支持されることを強く望んでいた。彼は様々なアーティスト、ガーランド・フレディやレッド・ローズ、ブルーグラスのミュージシャンたちと仕事を共にした。更にはテキサス州の詩人賞に輝いたスティーブ・ホルムホルツともアルバムを製作したが、これは発売されずに終わっている。デヴィッド・ゲフィン(アサイラム・レコードの創設者)がエレクトラのトップになると、彼はネスミスのカントリーサイドに十分な収益が見込めないとして、レーベルを閉じてしまった。とはいえ、カントリーサイドは独立系カントリー・レーベルとしては初の試みの一つであり、アーティストたちが音楽的な主導権を持てた場所である。ネスミスがそれを可能にしたのだ。

 

ネスミスはカントリーのソングライター、リンダ・ハーグローブと仕事をして、二人でリン・アンダーソン(世界的ヒット曲を持つカントリー・シンガー)のヒット曲 "I've Never Loved Anyone More" を書いた。彼はまたあちこちで注目すべきカントリーのプロジェクトに関わっていた。マイクの母親はタイプライターの修正液、リキッドペーパーの発明者で、彼女はその権利を1979年に4800万ドル(96億円:当時のレートは1ドル約200円)でジレットへ売却したが、その数ヶ月後帰らぬ人となってしまう。こうして、ネスミスは裕福な相続人となった。

 

マイク・ネスミスと言えば、モンキーズの12弦ギターを引くとぼけたメンバーというのが世間一般のイメージであり、マイクがグループと共に思い出すべき価値のあるレガシーを作ったことも間違いない。しかし、それによってマイク・ネスミスが追い求めたもう一つの情熱、テキサスで培われたカントリーのルーツが見落とされてしまうのは残念なことだ。モンキーズの人気と影響力を利用して、ポピュラー音楽の中でカントリー・ミュージックをよりクールなものにしようとしたこと、彼が観客に届けたいと思ったアーティストたちを支援していたことも見過ごされるには忍びない。

 

マイク・ネスミスは12月10日(金)、自然死により78才で他界した。

2021 Saving Country Music

 

(訳注:延命治療を行わず最期を迎える事も自然死に含まれる。)

 

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