Huffpost (Dec. 18, 2012)

Micky Dolenz: The Man, the myth, the Monkee... and ME

by Tony Sachs

 

私には秘密があります、ほんのわずかな親しい友人しか知らないことで、私の妻でさえ最近まで知らなかったことです。

 

私はモンキーズが大好きなんです。

 

私が言いたいのは、ラジオで "Last Train To Clarksville" や "Daydrema Believer" を聞いて、「この曲、いいな。」と思うのではなく、モンキーズが好き!ということです。怪しげなアルバムも、スタジオ・アウトテイクも、未発表のモノ・バージョンも、持っているだけでなく、何度も、学者のように勤勉に、ファンクラブ会長のように熱心に(まだ会長ではないけど)、全部聞いています。モンキーズを聞く時は、妻と娘に迷惑をかけないようにヘッドフォンで聞くようにしています。熱狂的なモンキーズ・ファンであることは、時折、孤独な探究者であるということなのです。

 
私のモンキーズへの情熱は、私が15才位の少年だった頃に始まったのですが、1970年の解散以降は鳴りを潜めていました。何年も、何十年も経ってから、ミッキー・ドレンツ、デイビー・ジョーンズ、ピーター・トーク(マイク・ネスミスはたまにしか参加しません)を見るのは悲しいことだろうと思っていました。何周年かの記念に再結成して、今風に見せようとしたり(特に80年代後半の衣装は最悪でした)、昔のヒット曲をシンセのキーボードとドラムで台無しにしたり。そんな訳で、彼らの再結成のアルバム2枚(その内1枚にはネスミスも参加していたのですが)からは距離を置いていました。私は60年代の象徴としてのモンキーズに満足しきっていたのです。品質のよいアウトテイクやデラックス・バージョンが出続けていたので、それは容易いことでした。
 

しかし、今年の2月にデイビー・ジョーンズが突然この世を去りました。モンキーズの45周年記念ツアーが終わってすぐでした。もちろん、私はこのツアーを見に行きませんでした。そして、私は悟ったのです。残ったモンキーズのメンバーが地上を歩いている内に見ることができる時間はどんどん減っているのだと。

 

有難いことに、ドレンツ、ネスミス、トークのチームは楽器を手に(そう、批判論者の方々、彼らは自分たちで楽器を演奏するのです)、再びツアーに出る決断をしてくれました。もちろん、デイビーは居ませんが、アメリカでは1969年以来初めて、マイクがツアーに戻ってきました。まだ秘密にしていた私のモンキーズへの情熱を知る数少ない友人たちの助けを借りて、私はツアー最終日のニューヨーク、ビーコン・シアターのオーケストラ・シート(一階席)2枚を確保しました。

 
同じ頃、私はミッキー・ドレンツの新しいアルバム "Remember" を手に入れました。9月にひっそりと発売されたのですが、2013年にはもう少し晴れ晴れしく、数ヶ月前に撮影されたライブDVDと一緒に再発売される予定とのことです。ミッキーはモンキーズの再結成の合間も忙しく、イングランドで何年もTV・映画プロデューサー/ディレクターをしており、また、アメリカやイングランドで「ヘアスプレー」や「アイーダ」といったミュージカルにも出演していました。しかし、ソロとしての音楽作品はまばらで、おかしなものでした。70年代のシングルの数々や、90年代の子供向けアルバムが2枚と、カラオケでモンキーズのヒットを何曲か録音したものなどです。

 

そして、2010年ついに彼の本当のソロ・アルバム "King For A Day" が出ました。モンキーズの曲を書いたキャロル・キングのトリビュート・アルバムで、彼女の珠玉の名曲、素晴らしい出来栄えの "Don't Bring Me Down" (アニマルズで有名)から最悪の "Take Goo Care Of My Baby" (この曲のカバーは聞きたくないのです、例えモンキーズであっても)に、ミッキーが取り組んでいます。

 

しかし、"Remember" はモンキーズ最盛期以来の彼のベスト・アルバムであるだけでなく、私が2012年に聞いたアルバムの中でもベストの1枚なのです。これは、その、ちょっと待ってください。このアルバムや私が見たモンキーズのライブで聞いた彼の声は、1969年に冷凍保存されて、今年になって解凍されたみたいだったのです。驚きでした。驚異的です。そして、私は暗澹たる気持ちになりました。

 

何故、どうして、このポップス史上最高の声の持ち主(モンキーズに信用がおけるかどうかは別として、"Pleasant Valley Sunday" も聞かずに、彼がクソみたいな歌を歌うなどとは言えないでしょう。)、ミッキー・ドレンツの作品がこんなちょっとしか残されていないなんて!そして、今になって、彼がまともなレコーディングを始めたのには何があったのでしょう?

 

俄然、興味が湧いてきました。気になって仕方ありません。私は彼自身から話を聞きたいと思いました。そこで、出来得る限りのコネを使って、ミッキー・ドレンツとの電話インタビューにこぎつけました。私は綿密に計画し、自分のヒーローを崇める43才の夫・父親ではなく、真面目なジャーナリストであるよう振舞ったので、どんなにミーハーな女学生でも私のマネはできないでしょう。

 

時差を間違えて、2時間遅れで電話をするという大失態の後、ついにその人と電話がつながりました。彼の第一声は「やあ、トニー。調子はどう?」でした。もうここで終わらせてもいいと思いました。ミッキー・ドレンツが名前で呼んでくれたのですから。それだけで満足でしたが、20分という時間をもらっています。ここからが質問の時間です。

 

「まず、、、どうして40年以上もレコーディングをしてこなかったのですか?」

 

「いい質問だね。僕にも分からないよ!」彼の返答は、なぜレコードを作らなかったのか、今まで一度も質問されたことがないように聞こえました。だとしたら、80年代に戻って同じ質問をしたいと思いました。「問題は、僕は多作のソングライターじゃないってこと。基本的に、依頼というか契約というかが来ない限り、自分からアルバムの契約とかレコードの契約とかを取りに行くような人間じゃなかったんだ。」

 

私は彼が「多作じゃない」と強調したことは受け流しました。「でも、新しいアルバムのライナーノートで、いつかレコーディングしたいと思っていた曲がいくつかあるとおっしゃってますよね。」私は急いで計算しました。多作でないにしても、1年に1曲として、3枚から4枚分のアルバムの曲数になります。

 

「何年も前から、いくつかアルバムの話は出ていたんだ、例えば "Dolenz Does Nilsson" みたいな。二ルソンは大切な友人だった。"Remember" (二ルソン作)は今回のアルバムのタイトルにもなっている。」私はハリー・二ルソンも大好きなので、すぐさまクレジットカードで、スタジオをレンタルする準備ができていましたが、冷静を装っていました。

 

「彼の最初のヒットは僕たち(モンキーズ)の "Cuddly Toy" だった。それで、彼は銀行の仕事を辞めたんだ、これは本当の話だよ。彼から聞いたんだから。スクリーン・ジェムズの音楽部門の責任者だったレスター・シルに「これで銀行を辞められるよ。」って言われたと、二ルソンに聞いたんだ。」

 

それから、彼は話を元に戻しました。「だけど、さっきも言ったように、僕は多作のソングライターじゃないんだ、極端なほど。それに、僕のレコーディングに興味があるっていうような人がやって来るのを待つタイプだから。"King For A Day" はそういう訳で出来たんだ。」

 

新しいアルバムについても話してくれました。「このアルバムはある程度、プロデューサー兼アレンジャーのデビッド・ハリスが構想したんだ。彼が僕に会いに来て、僕が行ったんじゃないよ。僕たちは何年も前に会ったんだけど、「ほんとに、ほんとにあなたのファンなんです。あなたの声が大好きで、僕たちなら素晴らしいアルバムが作れると思うんです。」って、ずっと僕のことを追いかけてて。それで、彼と会うことになって、話し合いを始めたんだ。その会話の中で、この音楽のスクラップブックのアイデアが生まれてきた。僕は彼にそういう曲にまつわる話をして、これはすごくいい構想だってことになった。」

 
"Remember" は、ドレンツの人生とキャリアにおいて、何らかの形で意味を持つ曲を再考することになりました。もちろん、モンキーズのカバーも多いのですが、いくつか興味深い選曲もあります。例えば、うっとりするようなアコースティック・バージョンに仕上げたビートルズの "Good Morning, Good Morning" は、ドレンツが初めて彼らに会った時に製作していた曲です。"Just An Old Fashined Love Song" はモンキーズの解散後、ドレンツに提供されたのですが、彼が歌う前にスリー・ドッグ・ナイトが歌って、ヒット・チャート5位になりました。私が初めてこの曲を聞いたのは4才位だったと思うのですが、その当時から嫌いでした。しかし、マッカートニー風の魅力的なボーカルと気の利いたスキャットの間奏をもってしても、私にはミッキーの解釈を十分に理解することはできません。

 

ミッキー「それで、僕たちは思い出話がある歌から振り返る事にした。僕は "Randy Scouse Git" (ドレンツ作のモンキーズのヒット曲)をどうしても再構築したかったんだけど。よし、やれ!って感じで。多分、思い入れが強すぎて、自分じゃできないんだ。」

 

「それから、"Sugar Sugar" の話をしたら、デビッドが『それ、いいですね。やりましょうよ、アイデアを考えます。』って言うんだ。僕は『冗談だろ!僕は "Sugar Sugar" なんてできないよ!』って言ったんだけど、今はお気に入りの1曲だよ。」

 

インタビュアーとしては良くないかもしれませんが、私はミッキーが "Sugar Sugar" にまつわるどんな話をしたのかは聞きませんでした。何故なら、私は既に知っていたからです。という訳で、ここでご紹介しておきます。モンキーズの言い伝えにあるように、モンキーズのスヴェンガーリ(小説 "Trilby" の登場人物:悪意を持って他人を意のままに操る催眠術師)、ドン・カーシュナーが彼らに言いました、「"Sugar Sugar" が次のお前たちのシングルだ。さあ、スタジオに行け」。すると、モンキーズはこう言います、「私たちにレコーディングを指図するあなたは誰ですか?あなたは最初の日から私たちの作品を選んできた人です、私たちが本物のバンドではないにも関わらず、アメリカで一番のバンドにしてくれた人です。だから、さっさとくたばれ!」。考えてみれば、かなり衝撃的な経歴です。しかしながら、そんな訳でモンキーズが "Sugar Sugar" をレコーディングすることはありませんでした。もちろん、カーシュナーは数年後には別の架空のバンド、アーチーズにレコーディングさせて、大ヒットすることになります。新しいアルバムに収録された、ドレンツの再構築バージョンはオリジナルのバブルガム・ポップとはまったく違いますが、彼の歌がすごいし、新しいアレンジも効いています。

 

ドレンツによると、アルバムは3年越しの計画だったそうです。「レコード会社は関係なく始めたことで、お金のためじゃないんだ。デビッド・ハリスは彼の時間を費やしてきた、僕も時間を費やした。僕は資金面でも多少工面して、ミュージシャンとかあれやこれや。それに僕たちは他にもやっていることがあるから。でも、逆に言うと、ゆっくり考える時間は山ほどあった。普通はそんなことできない。彼の家にはスタジオがあったから、他の人に邪魔されて設備が使えないなんてこともなかった。本当に自分たちのためだけに使えたんだ。」

 

そういった利点の一つとして、ミッキー自身が全てのバック・コーラスをやることができたそうです。実際、いくつかの曲には非常に多くのバック・コーラスが入っています。「ある時点で、早い段階で僕は決心したんだ。他のボーカリスト、バック・コーラスをどうするか話していたからね。だから、、「これは僕がやる。僕はシンガーだ。僕が書いた曲もあるし、でも、僕はただ歌いたい」と言った。やったことが嬉しい。全部のボーカルをやったという事実を誇りに思う。機械的な加工とかはしてないよ。例えば、"Prithee (Don Not Ask For Love)" (このアルバム用にモンキーズの未発表曲を再録)。これは確か、30とか40のボーカルを重ねているんだ。このアルバムにはすごく沢山のボーカルの層(レイヤー)があるから、冗談で「アルバムの名前を "Getting Layered" (階層化)にしようか」って言った位さ。

 

ここで質問をしました。「ボーカルと言えば、その素晴らしい声はどのように維持しているのですか?」

 

「僕の両親はショービジネスの人間で、二人ともシンガーだった。それで、僕は歌う事はスポーツのようなもじゃないかと思っていて。声帯は筋肉だから、歌う事は身体的なことなんだ。そういうことなんじゃないかな。僕の妹のココ(最近のモンキーズのツアーにバック・コーラスとして参加)も素晴らしいシンガーだし。」

 

「ボイス・トレーニングもしたんですか?」私は、彼が状態を保つために60年代からずっと、ハチミツ入りのお茶を飲んだり、発声練習していることを想像していました。

 

「モンキーズの後、他のグループや歌手が70年代や80年代にモニタ飛び出して、モニタ―もない煙っぽいクラブで歌っていた時、僕はどれもやらなかった。10年位はただの一言も歌わなかった。だから、擦れきれるということに関しては、僕は10年先手を打っていたんだ。僕がカムバックして、最初に始めたことのひとつがミュージカルだった。エルトン・ジョンとティム・ライスの2000年かそこらの(実際は2004年)のミュージカル「アイーダ」のキャストに選ばれた時、ちゃんとしたトレーニングを始めた。人生で初めての経験だった。そこで初めてちゃんとした発声を習った。どうやってトレーニングするか、どうやってウォーミングアップするか、どうやって発声練習するかを習ったんだ」。

 

「僕の母親はとてもいいシンガーだったんだけど、モンキーズ時代に『ミッキー、ちゃんとした息継ぎを覚えた方がいいわ。』と言われたことがある。僕は一度もそういうレッスンを受けたことがなくて、ちゃんとした息継ぎとか腹式呼吸とかを知らなかったんだ。だから、『ママ、僕は6500万枚もレコードが売れたんだよ!』なんて言って、ほんとに何も分かってなかった」。

 

ミッキーの話題からモンキーズに話題を切り替える時、この10ヶ月の間にかなりのインタビュアーが尋ねたであろう質問はするまいと心に誓っていました。例えば、「デイビー・ジョーンズが亡くなりましたが、どんなお気持ちですか?」などのような。第一、彼は今までに数え切れないほど答えてきたはずですし、次に、45年来の友人でもある仕事仲間が突然亡くなってしまった時、どんな想いになると思いますか?その上、他に聞きたい事が沢山あるのです。

 

「モンキーズのツアーが終わりましたが、どうだったんでしょうか?」

 

「すごく良かった。間違いなく素晴らしかった。もちろん、マイクとまた一緒にやれたのも素晴らしかった。マイクの参加でライブに今までと違う動きが生まれた。それが良いとか悪いとかじゃなくて、ただ違うんだ。でも、僕個人としてはマイクとライブができたのはほんとに、最高の時間だった。僕のソロ・ライブでも、いつも2、3曲ネスミスの曲をやるし、デビッドとやったモンキーズのライブでも必ずネスミスの曲をやっていた。大抵、メドレーとかそういう感じで歌っていたんだけど、今回はマイクとオリジナル・バージョンで歌えたのはすごく良かった」。

 

「また一緒にツアーをすると思いますか?」

 

「先のことは分からない。簡単に言うとね。今の段階では分からないし、これから何が起こるかを判断するのは時期尚早かな。」

 

「私はあなた方がお互いを嫌っていないということが分かって嬉しいです。毎回、モンキーズのツアーの後に出る記事を読んできたので。」

 

「まあ、書かれてるほど悪くはない。揉めたことがないとは言わないよ。他のグループとか、ひどい話を聞いたことがあるけど、それほど悪くはないと思ってる。実際に悪かった時でも、そんなに悪くはなかったと思ってるしね!生きていく中で、仕事をしたり、遊んだり、何十年もかけて様々な経験をしていれば、自然と問題が生じる。僕は兄弟を持つようなものだと捉えているんだ。兄弟というのは、大好きだったり、大嫌いだったり、最高の時間を過ごしたり、言い争いになったり、落ち込んだり。そうやって長年過ごして、とても親しくなっていく。まるで家族のように強い絆が生まれる。だから、デイビーは僕にとって一番身近な兄弟のような存在だったんだ。」

 

彼は完璧なきっかけを与えてくれました、でも私はまだそこに触れるつもりはありませんでした。何度も言いますが、私はいいインタビュアーではないのです。

 

「あなたはモンキーズ以前のご自身を俳優とミュージシャンどちらだと思っていましたか?」(彼は50年代のTV番組「サーカス・ボーイ」の人気子役であり、いくつかのバンドで演奏したり、レコードも出していました。)

 

「僕はエンターテイナーだった、子供の時からね。僕が初めて弾いた楽器はスパニッシュのクラシック・ギターだった。僕の父が与えてくれて、やっていたんだけど、それからキングストン・トリオに出会って、それで歌い始めたんだ(笑)。僕は妹と一緒に歌ってて、僕の友達がいたんだけど、プライベートなパーティーで歌ったりしていた。そんな感じでやっていたのがフォーク・ロックになっていって、次にロックン・ロールになっていった。モンキーズの前はカバー・バンドをやっていて、ミッキー&ザ・ワン・ナイターズともう一つはミッシング・リンクスって名前だった。嘘みたいだけど、カバー・バンドだったのさ。"Johnny B. Goode" と "House Of The Rising Sun" をパーティーの壇上で演奏していたんだ。」

 

「僕がキャストになった時、プロデューサーたちは俳優を探していた訳じゃないことは明らかだった。そうでなければ、古いハリウッド方式に則って、音楽なんて気にせずに4人の俳優をキャスティングしていたはずだ。でも、歌えて、演技ができて、さらに即興の演技もできないといけないんだ。スクリーン・テストのことを覚えてるんだけど、即興の演技に重点が置かれていた。何をしようとしているのか明確だった。4人のキャストにただ演技をさせたかった訳じゃないんだ。」

 

「モンキーズ以降、モンキーズみたいなものがあっただろう?色んなプロジェクトがあって、僕が関わったものについて話すことはできないけど、『モンキーズのリメイクをやりたいんです』と言って、僕に助言を求めてくるけど、大抵おかしなことをしてるんだ。モンキーズに一番近かったのは、"glee" だと思う。架空の高校の、架空のグリー・クラブの話だからね。でも、番組の出演者はみんな、実際にやっていた。歌えたし、ダンスもできたし、演技もできて、本物だった。それと、僕の記憶違いでなければ、実際にツアーもやったと聞いてる。」

 

私は、「でも、ミッキー、"glee" は聞くたびに殺してほしくなるような、聞くに堪えないブロードウェイ・ミュージカルとカラオケをごちゃ混ぜにしたようなもので他人のヒット曲を台無しにしただけですよ。」と言いそうになるのを辛うじて堪えました。その代わり、「ええ、でも、彼らにはオリジナル曲がありませんよ。」とだけ言いました。

 

「うん、それはそうだけど、彼らは実際にやっていたからね。実際に歌えたんだ、あの出演者たちは。でも、あれは架空のグリー・クラブの番組で、モンキーズも、ビートルズに憧れる架空のロックンロール・グループの番組だった。ビートルズにはなれなかったけどね!ほとんど全てのロック・グループにはできなかったんだ。アメリカだけじゃなく、世界中の若者がビートルズになりたがったという事だから。みんな、ビートルズになるために居間や地下室で練習していた。モンキーズの番組の中でも、僕たちは成功していないんだ。さあ、ここで論点がずれてくる。だったら、僕たちはなんでビーチハウスなんかに住めたのか?誰も答えることができないのさ」。

 

またもや、いいパスをもらったので今度は返すことにしました。「それはもちろん、リキッド・ペーパーのお陰でしょう。」(モンキーズ・ファンならご存知の、マイク・ネスミスの母親が発明したリキッド・ペーパーはパソコン以前の学生や秘書のお助けアイテムでした。)

 

「それ、いいね!」…おお、わが友よ、わが敵よ。最高の喜劇俳優、ミッキー・ドレンツが私の冗談に大笑いしています。この事は私の追悼記事に書いてもらわなくては。

 

私は辛うじて冷静さを保ち、ずっと気になっていた質問をしました。「影響を受けたボーカルはいるんですか?」

 

「もちろん、最初の頃はね。最初に影響を受けたのは、ロックンローラーだ。モンキーズの前にやっていたのは影響を受けた人たちの曲なんだ。エリック・バードンにもハマったし、サム・ザ・シャム&ザ・ファラオスにもハマったけど、僕が一番ハマって影響を受けたのはリトル・リチャードとジェリー・リー・ルイスとチャック・ベリーだ。僕はシャウト系のロックをやっていたんだけど、モンキーズになってからは当然、方向性を合わせた。どう見てもポップス音楽だし、ポップな曲をやるポップ・グループだったからね。僕はポップ・グループのドラマ―の役で採用されたんだ。番組と音楽は、10才の女の子向けに作られていた。「このスタイルでいく」と言われたよ」。

 

「『この曲は歌わない』と言ったことはありますか?」

 

「そう、"Sugar Sugar" は歌わないと言ったよ、でも、それにはちゃんとした理由があるんだ。悪い曲じゃないし、僕が歌ってるバージョンは大好きだし、僕のは大人向けの、ちょっと艶っぽい感じなんだけど(笑)。つまり、創作的な理由じゃなくて、僕が歌わないと言ったのは、ドン・カーシュナーに対する『クーデター』のためで、マイクがクーデターの先陣を切っていた」。

 

「"Gonna Buy Me A Dog"(彼らのファースト・アルバムに収録された、くだらなすぎて笑える曲)をやっていた時のことを覚えてるんだけど、デイビーと僕にシンプルに、正攻法で歌わせたかったみたいで。小さな女の子向けの可愛らしい曲って意味なんだけど、デイビーも僕も『俺たちもう20才過ぎてるし、8才の子供に歌うなんて、可笑しいじゃん』。て感じだったんだ。それで、歌いながらふざけ始めて、今ではちょっとしたオールディーズだけど、ハイテンションだよね。それと、どうしてこの曲をステージで歌わないのかって、よく聞かれるんだけど、試したこともないと思う。多分、やろうとしても無理なんじゃないかな。本当に即興でやったことだから、本当に適当にやったことだったんだ。」。

 

「それで誰かが、僕は知らないけど、ドン・カーシュナーとか誰か、誰かが『このバージョンを使う』。と言ったんだろうね。マトモなバージョンはやらなかったはずだよ。やった記憶もないし。僕たちは♪僕は犬を飼う、僕には友達が必要なんだ。彼女が出て行ってしまったから♪なんて歌いたくない、と言っただけで。歌いたくないから、ふざけてたんだと思う」。

 

この時点で、私の持ち時間がなくなってきたので、ささやかなレコード・コレクターに戻らざるをえません。「ライノの再発売シリーズで近々、発売予定のモノはありませんか?」(個人的には、1969年に辛うじてトップ100入りを果たした"The Monkees Present" の3枚組デラックス・バージョンを期待しています。いや、マジで。)

 

「僕は知らないんだ、誰からも聞いてないし。そういうのは、ただ発売するだけで。TVショーと(モンキーズの1968年のサイケなカルト・ムービー) "HEAD" のDVDが出た時は、電話があって、コメントしたいかどうか聞かれたけど、今のところ、何の連絡もないから、予定はないんじゃないかな。ライノが全てを所有しているから」。

 

ちくしょう、ドン・カーシュナーの影がちらついているかのようです。「でも、ライノだって実際のバンド・メンバーからの意見を求めていると思いませんか?」

 

「忘れないでくれよ、バンドじゃなかったんだ!いや、そうなったかもしれないけど、最初の頃、僕たちはどんなことも何も言う事がなかった。それ自体、おかしなことだ。でも、もし君が気づいたら、あるいはコンセプトを受け入れたら、バンドについてのTV番組だってことに気づきはじめるんだ。それで、全てのことがわかってくる」。

 

ミッキー、参りました。