Davy Jones: それはつまり、自分の妻と知り合うのと似たようなもので。婚約した時は最高、全てがバラ色になるような感じ。その後、彼女がだらしないとか、いびきをかくとか、色々と気づく。しかし、そういう事では判断しないものだろう。
僕たちはとりあえず雇われたんだけど、僕はマイク・ネスミスとピーター・トークが音楽面に関してあれ程譲らないとは思いもしなかった。僕は1963年からコロンビア・ピクチャーズと契約していて、会社が僕をハリウッドに来させたんだ。"Hogan’s Heroes" や "The Wackiest Ship in the Army" や "F-Troop"(いずれもコメディードラマ)のオーディションを受けた。会社は僕に「バットマン」のロビンをやらせたかったようだ。どれも60年代前半のものだけど、その先の事は知らないんだ。
僕はモンキーズを、"A Hard Days Night"のTV版みたいな、ミュージカルのバンドだと思っていた。ネスミスがあの忌々しいキャデラック・エルドラドに乗っている事に気づくまではね。その頃、僕はフォルクスワーゲンに乗っていたけど、彼はB面に自分の曲を提供していると気づいたんだ。彼は僕たちがスタジオでやった仕事以上の事を静かにやっていたのさ。ソングライターのトミーとボビーやプロデューサーのドニー・カーシュナーがスタジオに立ち入ることを拒否して、指示される必要がないと強く主張していた。
マイクは当時22才の成人で、自分自身のものを持っていた。これはとても難しいことなんだ、当時の僕は雇われ人だったから。僕は何年も組織の一部だった。そのことをちゃんと理解していなかった、でも共に戦う仲間ができて。身近な男友達というのは初めてだった、学校の仲間みたいな。それまでは、そういう決断をする必要がなかった。僕の下地はブロードウェイで、劇場には僕が慣れ親しんだ規律があり、演出されて、製作も衣装も全てが用意されていた。
僕は現役の俳優で、演劇畑の人間で、それこそ僕が気にかける全てだ。僕は週に450ドル稼いで、次の年に僕たちは750ドルになった。僕たちにはソングライターがいて、僕がやらないことをしてくれる人たちがいる。僕はそういう事を学んできた。丁度、新しいクリスマス・ソングのシングルがあるんだけど、この地下室でセットすれば、iTunesで世界中に配信される。今はそれができる、だからやらなかったわけじゃないけど。
Bankrate: あなたとミッキーがショービジネスとはこういうものだと捉えていた一方で、ピーターとマイクはコメディーとして見なすことに消極的で、次世代のビートルズになりたがっていたと言われますが、本当ですか?
僕たちは1日24時間そうやっている訳じゃない。次の仕事の場はどこかといつも考えを巡らせているのでもない。僕はマイクにもピーターにも否定的になりたくない。彼らは素晴らしいミュージシャンだ。マイク・ネスミスは今日のカントリー・ミュージックに多くの影響を与えてきた。彼はカントリー・ロックを取り入れた最初の人物だ。素晴らしい曲を書いて、自身のヒット曲もあるし、リンダ・ロンシュタットの最初のヒット "Different Drum" を書いたのも彼だ。マイクはやりたくない事をやらないだけだ。今回は40年前を振り返りたくないし、マヌケなことをしている自分を見たくないってだけなんだ。
Bankrate: ご自身がブームの一部になっていると実感したのはいつですか?
Davy Jones: 僕はいつも少しばかり目立ちたがり屋だった、大抵は学芸会でだったけど。僕にとって、今までやった事はすべて学芸会と何の違いもない。僕は本当に幸運な野郎だってだけで、やってきた事をそれ以上考えたことはないんだ。
僕は学生時代は女の子と一緒に大きくなって、サッカー・チームに入っていた。だけど、いつも何か違うと感じていた。僕はブロードウェイに行った。ジュディ・ガーランドとランチをしに行って、バードランドでバディ・リッチ(ジャズ・ドラマ―)にも会った。週末はよくファイアー・アイランド(NY近郊のリゾート地)に行って、シャーリー・ジョーンズやジャック・キャシディ、タミー・グライムズ、ジュディ&ジョージア・ブラウンとか数え切れないほどの有名人と過ごした。
だから、有名になっても圧倒されるようなことはなかった。僕にとってはみんな同じことなんだ。これが僕の天職だと、これが僕の仕事だと感じていた。だから、モンキーズは僕にとってたいした事じゃなかった、本当に、誓ってもいい、学芸会のトム・ソーヤと比べてもどうってことない。何か違いがあるとするなら、ショー・ビジネスは目に見えない危険があるってこと。
僕はいつも人に聞いてもらったり、見てもらったりしていた。子供の頃、頭をなでられて言われた、「なんてハンサムな坊や」ってね。だから、僕は特別なんだと思っていた。今までずっとそんな風にちやほやされてきた。僕は本当に恵まれている。だから、一度も、そういう、有名になってやる、とか思ったことがない。今までと同じ位。空港を通ると、いつも誰かが "Hey hey, we’re the Monkees!" と叫ぶけど、40年前もそうだった。マフィアと同じようなものさ、一度入ったら、ずっとそこにいることになる。
Bankrate: ドキュメンタリーを見てみると、いい時ばかりではなく、よくない時も多かったようですね。モンキーズになって、こういう経験をしたことはよかったですか?
Davy Jones: すごくよかったと思ってる。60年代の "Oliver!" を見たとか、80年代や90年代に演じたフェイギンを見たと言ってもらえるともっと嬉しい。モンキーズでやってきた事は全て誇りに思っている。そのせいで、俳優としてのキャリアがダメになったと言えば、そうかもしれない。でも、だとしたら継続して、世の中の認識を変えるのも自分次第だ。
最近、映画とTVアニメ用の台本を受け取ったんだ。僕のキャリアは変わり続けている。いつも活動中なのさ。雑誌やそういったものはいつもじゃないけど、僕は生涯現役の俳優だ。負荷が重かろうが軽かろうが関係ない、僕は食べていけるし、やる事をやっている。
ここ(ペンシルバニアの自宅)には11頭の馬たちがいる。フロリダとカリフォルニアのサンタ・バーバラにも家がある。僕は粛々とやる事をやる。その点では何も変わっていない。僕を知る人は皆、僕の事を親しみやすいと言うだろう。僕は昔から変わらないんだ。会う前に想像していた僕を思い出してみて、それが今、目の前で話をしている人物だよ。
Bankrate: 諸々の事が起きた中で、当時のモンキーズの成功ではいくらか稼ぎましたか?
Davy Jones: ドキュメンタリーで見た通り、ドニー・カーシュナーは僕たち全員に24万ドルの小切手をくれた、最初の著作権料分だ、その後お金が入ってきた。
問題は、その時他の連中が乗り込んできたことだ。60年代終盤から70年初めにかけて、ある男に財産を盗まれて、僕は一文無しになってしまった。まだ払わなければならない税金が残っていたのに。払い終えるのに何年もかかった。トム・ジョーンズのショーの出演料5万ドルは助かったし、テネシー・アーニー・フォードの「サンクスギビング・デー・スペシャル」も助けになった(訳注:共に1969年放送)。でも、僕の元から消えてしまった何百、何千ドルの損失を埋めることはなかった。「彼に盗まれて、私は何も持ってない」と訴えても、弁護士は不測の事態に陥った人を助けてはくれない。
Bankrate: お金はどうやって盗まれたのですか?
Davy Jones: 口座から抜かれた、委任状で銀行の口座から盗まれたんだ。誰にでも起こり得る。誰もが経験することだ。父に「過ちから学ぶのだ、息子よ。」と言われたよ。
でも、過ちから学ぶべきではないね。でっかい棒を持ち歩くとか、周りに人を集めておくべきだな。必要なのは、優良で、ちゃんとした会社、世間に知られていない人物だ。まあ、最近の株式市場で起きていることを見てしまうと、必ずしも有利に運んでくれる訳ではないけどね。
必要なのは自分や自分の才能を信じてくれる人ではないし、いつでも一緒にいて、相棒になってくれる人でもない。本当に必要なのは、まっとうな、保証制度のある弁護士や会社だ。僕たちは様々な裁判で、弁護士の裁量によって審判の差が出るのを見てきた。弁護士がほんのちょっと否定的なことを言っただけで、急に審理無効になってしまうんだ。
僕は今まで何度か審理無効の裁判を経験している。でも、僕にはサンタ・バーバラのポロ・クラブに素敵な家があるし、ペンシルバニアにも素晴らしい家を持っている。数年前に離婚した時は、イングランドの美しい邸宅を妻に譲った。
そうやって月日は過ぎた、モンキーズのお陰で、コマーシャルにも出られるようになった、ジョージア州メイコンでは今でも見られる、マテル社の声が出る指人形とか。全部、モンキーズがあったからなんだ。
最初の年、モンキーズの仕事は週450ドルだった、そして2年目は750ドルになった。僕たちは多分、モンキーズの著作権料で1年に2万ドルは稼いだ。今の基準からすると、レコードを7000万枚売り上げた割に少ないと思うかもしれないけど、大抵の人が1年間の仕事で持ち帰るよりはずっと多いんだ。
だから、じっと座って考えてるだけでは、僕が所有している家々を維持することはできないし、僕の馬たちも車も馬の運搬用トレーラーも、そういうもの全てを維持していくことはできない。一生懸命やってきた。僕は働きたいから働くし、この生活を維持したいから働くんだ。
12月27日はベガスにいた、年末にオーケストラとコンサートをやったんだ。今年も同じようにやる予定だよ。僕には様々な道があって、それは僕がプロフェッショナルだからこそで。11才の時からずっと続けてきた。12月30日には63才になる。下着と靴下が欲しいんだ。そればっかり気になっちゃってさ。