The Palm Beach Post (June 1, 2012)

Micky Dolenz looks back on a magical 45-years partnership with Davy Jones

by Jan Tuckwood

 

ミッキー・ドレンツは「科学オタク」である、"Scientific American" のような科学誌を購読するようなタイプで、生得的と社会的についての本を読んだり、大学で物理の学位を修得したこともある。「量子物理学に夢中なんだ」と語る歌手。ご存知のように、エネルギーと光の速度、引力の法則に関わるものだ。高エネルギー荷電粒子が同じ周波数で振動した時に生ずる輝かしい一例が、ドレンツのキャリアであるとすれば、驚くことではない。

 

1966年、バンドを主人公にしたTV番組 "The Monees" (学校の合唱クラブを舞台にしたTV番組 "Glee" のようなもの)のキャストとして、プロデューサーたちはドレンツをデイビー・ジョーンズと一緒のステージに上げた。愛らしい英国人のジョーンズとまさしくハリウッド的なドレンツはたまさか子役同士であった。初めて会った瞬間から、二人の相性は「驚くほど良かった」とドレンツは語る。「デイビーと僕の作業は、まるで魔法のようだった」。こうして、ステージの上でスターたちは手を組んだ。その後45年間に渡って、彼らがとにかく共同作業を続けたのは、驚異的な事である。時にはドレンツ自身にとっても。

 

デイビー・ジョーンズがインディアンタウンにて66才で亡くなってから、3ヶ月になる。

 

ドレンツはまだ立ち直れないと言う、「バスに轢かれたような気分だ」。デイビーが亡くなった当日、2月29日に彼はいくつものTVインタビューを受けた。デイビーの「慈しみの心」、ユーモア、モンキーズ初期に一緒に暮らしていた日々について語った。ミッキーは彼の古い友人の多くがそうするように、デビッドと呼ぶ。しかし、ドレンツは何を話したか覚えていないそうだ。茫然としていて、いまだに気持ちの浮き沈みが不安定であるという。ディズニー・ワールドのエプコットにあるイングリッシュ・パブでフィッシュ&チップスをつまみながら、ジョーンズの想い出と彼らの45年間の友情を公開してくれた。ここは、ジョーンズがギネス・ビールを1、2杯楽しんでいたパブなので、ぴったりの場所ではあったが、ドレンツにとって5月下旬の午後に来るには心痛める場所でもある。後日、ドレンツはエプコットで行われるフラワー・パワー・コンサート・シリーズで、ジョーンズの代わりに3夜の公演を行うことになっていた。ジョーンズは毎年春のコンサートを10年以上楽しみにしていた、3世代のモンキーズ・ファンと交流したり、毎晩締めに打ちあげられるエプコットの花火をバックステージから見ることができたからだ。デイビーが亡くなった後、そんなたくましいファンがディズニーにミッキーを呼んでほしいとキャンペーンを始めた。子供の頃からのアイドルを失った悲しみに暮れる自分たちと、同じように心を痛めているもうひとりを救ってほしいと訴えたのだ。

 

「彼は今までで一番兄弟に近い存在だった。もし君に兄弟姉妹がいれば分かると思うけど、親密さだけじゃなく関係性もあるんだ。良い日もあれば、悪い日もある。大好きだったり、大嫌いだったり」と語るドレンツ。何年間も会わないかもしれない。誤解から腹を立てることがあるかもしれない。他の家族が関わってきて、関係が複雑になるかもしれない。しかし、兄弟姉妹は幼い頃の思い出を共有している唯一の存在である。とすれば、ドレンツとジョーンズ、残りのモンキーズ、マイク・ネスミスとピーター・トークが共有する思い出はびっくりするようなものだ。
 
TVとポップ・ミュージックの融合がこれ程の成功を収めたのは、モンキーズが初めてだった。No.1ヒット・ソングと2年間毎週放送された人気番組は、時代を超えたドタバタコメディと不朽の名曲によって再放送の定番となる。ネスミスとトークが音楽面でぶつかる一方、ドレンツとジョーンズはぶつかることはなかった。「僕たちは仕事のやり方が違ったんだ」とドレンツ。だが金銭面では、彼らの周波数は揃わなかった。ジョーンズは、モンキーズが若くて売れていた時の事業が期待外れだった事で負債を抱え、あっという間に使い果たした。スターの子供であるドレンツは、ショービズの血筋と金融資産を所有していた、投資に詳しい母親のお陰である。
 
架空のTVバンドが現実のバンドになった後も、モンキーズとそのブランドを気にかけてくれるマネージャーはひとりもいなかった。ビートルズにはアップルがあったとドレンツは指摘する。「僕たちは継続して活動できる仕組みがなかったんだ」。
 
そんな訳で、バンド・メンバーはソロとしてのキャリアを積み、時折一緒に活動したので、兄弟間の競争は行き交った。

 

「ビジネスがアートにどう影響するのか、一般的には理解されていない」と、ジョーンズの20年来の友人・協力者、ジョニー・J・ブレアは語る。彼は昨年夏のモンキーズのバンドにギターで参加している。「外面的には、デイビーとミッキーは全然違う。しかし、内面的には、ふたりは精神的な絆で結ばれていた。彼らはお互いの技術でつながっていた。それが彼らの活動を支えていた。彼らがステージに上がるだけで、その全てがショーになった」。5月の今日、ドレンツのショーはそんな生まれながらのエンターテイナーだったデイビーに捧げられる。「デイビーはよく冷蔵庫のジョークを言っていて、20分位やっていたよ」。
 

今日、ミッキーは途中で歌えなくなってしまったニューヨークでのデイビーのメモリアル・ライブ以来初めて "Daydream Believer" を歌う。曲の中盤、ステージのスクリーンに振り向くまで彼は持ちこたえていた。そこにはファンが46年間愛し続けた、サイケデリックな虹色の背景の前で歌って踊る、若くて可愛らしいデイビー・ジョーンズの姿があった。ミッキーの歌声は止まった。「僕は彼を失った」。

 

「全ての音楽と狂乱のあと…」

 

今月、ミッキー・ドレンツは長期間の "Happy Together" ツアーに出る。共演はタートルズ、ゲイリー・パケット&ユニオン・ギャップ、グラス・ルーツ、バッキンガムズ。しかし、去年夏のモンキーズ45周年記念ツアーを上回るのは難しいだろう。「ローリング・ストーン」誌でさえ、「伝説的なポップ・バンドが贈る、期待以上の卓越したショー」と評したほど、かなりのヒット公演だったからだ。2時間以上に渡って、モンキーズは、ヒット曲からB面の曲、更には1996年に彼ら自身が書いたアルバム "Justus" の曲まで披露した。このアルバムには、ミッキーとデイビーがセレブリティ・テニス・トーナメントから帰宅する途中、死ぬほど長い4時間ものドライブの間に、二人で作った曲が収められている。ギターも伴奏もなく、あるのは素晴らしい声だけ、という状況で、二人は長年の関係を歌ったアップテンポの曲 "You and I" を作った。歌詞を聞くと、男女のラブ・ソングだと思うだろう。しかし、「これは僕たちのことなんだ」とドレンツは言う。二人の兄弟と、彼らが揃った時に生まれる魔法についてのラブ・ソングなのだ。

 

♪全ての音楽と狂乱のあと、全ての遅い夜の空想のあと、

僕たちはやり遂げるとわかっていた。

僕たちのジャマになるものなんて、何もなかった。

何故って、それは君と僕だから。約束は破られない。

君と僕と魔法の思い出。

どうあろうと、他のひとには決して分からない。

僕たちがどうやっていたか。

僕たちはいつもどうやるか分かっていた。

何故なら、それは君と僕だから。君と僕だから…。♪