京都府京都市出身、大学在学中にレース活動を開始。
1966年20歳でトヨタのワークスドライバーとなる。
日本グランプリや日本Can-Amなどのビッグレースに出場、トヨタ2000GTやトヨタ7などで活躍。
1970年にトヨタワークスを離脱し、アメリカでフォーミュラAに参戦。
1971年にもアメリカでTrans-Amシリーズに参戦したが、事故で重傷を負い帰国。
1972年富士グランチャンピオンレースでチャンピオンになるなど、国内レースを中心に活動するが1973年・1975年・1981年にはル・マン24時間レースにも参戦。
生沢徹や風戸裕などと並び、海外レース挑戦のパイオニア的ドライバーと評されている。
1975年イギリスGPに1968年のホンダ以来の国産F1マシン「マキF101C」で日本人として初めて「F1世界選手権」にエントリーした(1974年に高原敬武がF1に出場しているがノンタイトル戦)
予選で最下位のタイムだったもののエントリー台数が25台だったため決勝へ進出。
しかし、故障したエンジンのスペアがなく出走を断念せざるを得なかった。
その後オランダGPにもエントリーしたが予選通過はならなかった。
1981年、現役を引退。
1986年以降はレーシングチームのマネージャーとして童夢~トムスGB~アウディスポーツUKと渡り歩き、アウディR8のル・マン24時間レース制覇に貢献した。
2003年の帰国後は、童夢取締役(現:顧問)、エイム(ル・マン用エンジン開発等)顧問、日本自動車レース工業会顧問などを務めた。
2010年07月19日第1版
2012年08月11日増補改訂第2版
2016年08月18日増補改訂第3版