1987年にイギリスF3選手権でチャンピオンを獲得して1988年に国際F3000へステップアップ。
開幕戦でデビューウィンを飾るなど速さを見せ、ベネトンと1989年の契約を結んだ。
しかしその直後、ブランズハッチで足を複雑骨折する多重クラッシュに遭遇。
この骨折の影響で以後ハーバートの右足首は曲がらなくなり、アクセルワークは膝の屈伸で行うことになる。



1989年 ベネトンB188/フォード  ティレル018/フォード
PP 0回 優勝 0回 FL 0回 獲得ポイント 5P ランキング 14位
完治しない足のままベネトンからF1デビュー。
松葉杖を使わなければ歩けない状況の中、予選10位から2位争いを繰り広げデビュー戦で4位に入賞し、「ジム・クラークの再来」と言われたその才能を垣間見せた。
しかし、その後足の経過も思わしくなく成績が下降、予選落ちを喫した第6戦カナダGPを最後にシートを喪失した。


その後、J.アレジの代役でティレルから2レースに出場。



1990年 ロータス102/ランボルギーニ
PP 0回 優勝 0回 FL 0回 獲得ポイント 0P
全日本F3000や全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権に参戦。
F1には、M.ドネリーの代役としてロータスから2レースのみの出場。



1991年 ロータス102B/ジャッド
PP 0回 優勝 0回 FL 0回 獲得ポイント 0P
ロータスのシートを得たが、全日本F3000やル・マン24時間レースにも出場していたため、F1では8レースの参戦に留まった。



1992年 ロータス102D・107/フォード
PP 0回 優勝 0回 FL 0回 獲得ポイント 2P ランキング 15位
予選成績ではM.ハッキネンを上回ったが、トラブルがハーバートに偏ったためポイントでは後塵を拝する結果に。




1993年 ロータス107B/フォード
PP 0回 優勝 0回 FL 0回 獲得ポイント 11P ランキング 9位
前半戦では、M.シューマッハと3位争いを繰り広げるなど好調だったがマシン開発が進まず失速。



1994年 ロータス107C・109/無限ホンダ  リジェJS39B/ルノー  ベネトンB194/フォード
PP 0回 優勝 0回 FL 0回 獲得ポイント 0P
無限ホンダエンジンを獲得するが資金難によりマシン開発が進まずに低迷。
チームの財政状態が悪化する中、ついにシーズン終盤に管財人の管理下に置かれたことが発表された。
これに伴い、1992年から4年契約を結んでいたハーバートの契約も売られる事になる。



売却先はベネトンのマネージング・ディレクターで、この年リジェを買収してオーナーとなっていたフラビオ・ブリアトーレ。
第14戦でリジェ・ルノー、第15.16戦はベネトン・フォードとたらい回しにされたハーバートは翌年「M.シューマッハ」のチームメイトとなることが決定した。




1995年 ベネトンB195/ルノー
PP 0回 優勝 2回 FL 0回 獲得ポイント 45P ランキング 4位
第4戦スペインGPで2位初表彰台、第8戦イギリスGPでは初優勝を遂げた。
第12戦イタリアGPで2勝目をあげたがシューマッハを優先とするチームとの関係は修復不能となっており、この年限りでチームを離脱した。



1996年 ザウバーC15/フォード
PP 0回 優勝 0回 FL 0回 獲得ポイント 4P ランキング 14位
第6戦モナコGPで3位表彰台を獲得するも、入賞はこの1戦のみ。



1997年 ザウバーC16/ペトロナス
PP 0回 優勝 0回 FL 0回 獲得ポイント 15P ランキング 10位
フェラーリからエンジンの供給を受け戦闘力が向上、第11戦ハンガリーGPで3位表彰台を獲得するなど6度の入賞を記録した。



1998年 ザウバーC17/ペトロナス
PP 0回 優勝 0回 FL 0回 獲得ポイント 1P ランキング 15位
J.アレジの加入によってチームオーダーが出されるなど、モチベーションとともに成績も低下。



1999年 スチュワートSF3/フォード
PP 0回 優勝 1回 FL 0回 獲得ポイント 15P ランキング 8位
参戦3年目のスチュワートに移籍。
第14戦ヨーロッパGPでは、スチュワートにとって唯一となる勝利を挙げた。



2000年 ジャガーR1/コスワース
PP 0回 優勝 0回 FL 0回 獲得ポイント 0P
フォードがスチュワートを買収し、ジャガー・ブランドで参戦を開始。
しかし、マシンの戦闘力・信頼性とも低くくノーポイントに終わる。


2000年のシーズン終盤にF1引退を表明。
最終戦となったマレーシアGPでは、リア・サスペンション・トラブルからクラッシュを起こして足を骨折、病院へ搬送される。
「結局、僕のF-1人生は骨折に始まって骨折に終わったよ(笑)。でも、これも運命なのかな」
こうして、ジョニー・ハーバートのF-1人生は終わりを告げた。


チーム・シューマッハでの苦悩
1995年念願のトップ・チームとの契約だったが、チームはF.ブリアトーレとM.シューマッハを中心に回っていた。
「ミハエルとも最初は上手く行ってたんだ。でもシーズンが開幕して少しした頃、僕がミハエルと違うセッティングで良いタイムを出すと、彼は僕と話をしなくなった。コ リーナ(シューマッハ夫人)にも、『レベッカ(ジョニー夫人)と口をきくな』と言ったりしていた。理解出来なかったよ。」
その後、チームのブリーフィングから外され、スペア・カーや予選用タイヤの優先権も全てシューマッハのものとなった。
それでもイギリスGPで初優勝を達成したハーバート。
2位のJ.アレジと3位D.クルサードが肩車し、表彰台の下では、今は別々のチームで働くロータス時代のメカニック達と妻レベッカそして恩人P.コリンズが歓喜で迎えた。
その夜の初優勝記念パーティーはベネトンではなく、ジョーダン・チームが主催するパーティーで行われ、友人であるクルサードやヒルらと共に一晩中"JONNY B GOOD"を歌い続けたという。
そして、終盤戦のイタリアGPで2勝目を達成(初優勝した時と、同じパンツを履いていたのが勝因(笑)とコメント)、結局1995年は2勝を含む45ポイントを獲得してランキング4位となり、ハーバートは"晴れ晴れと"ベネトン・チームを去っていったのだ。


【番外編】 1991年 マツダ787Bでル・マン24時間を制覇
ジョニー・ハーバート、フォルカー・バイドラー、ベルトラン・ガショーのトリオで総合優勝を達成。
レースの終盤、ガショーのドライブの番だったが交代せず、コース状況を良く知っているハーバートが3シフト連続ドライブしてゴールした。
その後、ハーバートは脱水症状で倒れてしまい、表彰台に上ることができなかった。


トップドライバーの実力がありながらトップになれなかったドライバー。
ロータスとの長期契約が裏目に出ました。
もし、1993年にウイリアムズ、1995年にマクラーレンへの移籍が実現していたらどうなっていたんだろうか?
ハーバートの弱点は、フレンドリー過ぎる性格ゆえの駆け引きの弱さ。
でも、そんな彼を愛したファンは多かったですね。

現代のF1には、いなくなってしまった・・・
そんなドライバーかも知れません。

2010年12月20日第1版
2013年02月18日増補改訂第2版
2014年06月25日増補改訂第3版