裕福な家庭に育ち、家業の建設業を継ぐことを期待されていたが、異母兄のレーサーのジョゼ・ドレムの影響を受けてモータースポーツの世界へ。
フランスの石油企業エルフのバックアップを受けてフォーミュラ・ルノーに参戦、フランス選手権、ヨーロッパ選手権を制覇する。
1977年にはヨーロッパF2選手権にステップアップ、スポット参戦したモナコF3でも優勝を飾る。
1978年にはルノーからル・マン24時間レースに出場、ジャン-ピエール・ヤソーとのコンビで優勝を果たした。
また、日本でのJAF鈴鹿GPや富士GCにスポット参戦した経験をもつ。
1978年
PP 0回 優勝 0回 FL 0回 獲得ポイント 7P ランキング 15位
ティレルからF1にデビュー、2戦目のブラジルGPで6位初入賞。
完走率ではチームメイトを上回るコンスタントな走りを見せた。
1979年
PP 0回 優勝 0回 FL 0回 獲得ポイント 14P ランキング 10位
青いロータス79と呼ばれた009を駆り、第6戦ベルギーGPでは3位初表彰台を記録する。
1980年
PP 2回 優勝 1回 FL 2回 獲得ポイント 32P ランキング 5位
フランスのリジェに移籍。
第5戦ベルギーGPで初優勝、第6戦モナコGPで初PP、第8戦イギリスGPで初FLを記録した。
1981年
PP 0回 優勝 0回 FL 1回 獲得ポイント 9P ランキング 13位
名門フェラーリへの移籍を果たすが、ターボエンジン導入初年度とあって苦戦が続いた。
1982年
PP 2回 優勝 2回 FL 2回 獲得ポイント 39P ランキング 2位
第4戦サンマリノGP、英国系チームがレースをボイコットし、14台でスタートが切られた。
フェラーリは、ジル・ビルヌーヴとピローニが1-2体制でリードを築き、ピットからは「SLOW(燃費に注意を払い、無用な戦いを避けるように)」のサインが出された。
しかし、ピローニはこれに従わずビルヌーヴを抜き優勝してしまう。
この出来事をきっかけにビルヌーヴはピローニを拒絶、二人の関係は修復不能なまでに悪化した。
そして、迎えた第5戦ベルギーGP予選2日目。
ピローニのタイムを破るべくピットアウトしたビルヌーヴが戻ってくることはなかった。
第8戦カナダGP、ポールポジションを獲得したがエンジンをストールさせスタート時に失敗。
多くのマシンは、手を挙げて合図するピローニのマシンを避けて通過していったが23番手からスタートしたリカルド・パレッティが追突、救助作業中にマシンが炎上する大事故となり、パレッティが死亡。
追突の衝撃でほぼ即死状態だったといわれている。
第12戦ドイツGP、ピローニは、ポイントリーダーとしてタイトル獲得へ邁進中。
豪雨の中で行われた土曜日のフリー走行でアラン・プロストのルノーに追突、ビルヌーヴと同様の事故で両足複雑骨折の重傷を負って残りのレースを欠場することになる。
事故後、リハビリを重ねたピローニは、1986年にリジェやAGSのテスト走行を行えるまでに回復したがF1復帰は叶わなかった。
F1ドライバーとしての道を絶たれたあと、海のF1といわれるパワーボートに活動の場を移した。
1987年、パワーボートの世界選手権に出場し、レギュラーシートを狙えるほどの活躍を見せていたが8月23日のサウサンプトン沖ワイト島近郊で行われたレース中に転覆事故を起こし、同乗していたクルー2名と共に他界した。
ピローニの死後に双子の子供が誕生、母親のカトリーヌ・グーは「ジル」と「ディディエ」、2人のファーストネームをつけた。
ピローニがカナダGPでポールポジションを獲った時
「本来ならここにいるべき男がいない」と涙を見せたそうです。
もしかしたらピローニは関係修復を願っていたのかもしれませんね。
さて、天国で再会した二人は、どんな言葉を交わしたんでしょうか?
歴戦のドライバーたちと今でもレースやってるかもしれませんね。
2013年08月23日第1版