203 原民喜「夏の花」【2006/08/05 媒体:日本経済新聞 夕刊,12面 】
雨の降る朝、広島の世界平和記念聖堂で、元新聞記者の海老根勲さん(64)と待ち合わせた。原爆文学の研究サークル「広島花幻忌の会」の事務局長として、研究会や文学散歩などを運営している。
「広島の人が原民喜も『夏の花』も知らない。これではいかんと思って、新聞社を早期退職し、サークルを始めました。会員は約二百人。花幻忌は民喜の忌日です」
民喜のおいの原時彦さん(74)がやってきた。「昔、この聖堂の辺りは原家の土地でした」。古地図で民喜が被爆した家や避難ルートを丁寧に教えてくれる。そして、古い手帳を取り出した。写真で見たことのある民喜の「原爆被災時のノート」だった。
「8月6日8時半頃 突如空襲 一瞬ニシテ 全市街崩壊 便所ニ居テ頭上ニサクレツスル音アリテ頭ヲ打ツ」
民喜は被爆し野宿した二日間、携行した手帳に惨状を記した。壊滅した街、水を求める人々、男女の区別も分からない死骸。
「夏の花」はこの手帳から生まれた。
昼食後、海老根さんたちと民喜の避難ルートを歩いた。聖堂の脇に残る旧幟町教会の被爆した門柱。京橋川河畔の被爆ヤナギ。名勝・縮景園に残る原爆の傷跡。民喜たちが野宿した広島東照宮。
「文彦が死んでいたのは、そこの道ばたです」。広い通りを歩きながら、時彦さんがぽつりと言った。自らは学童疎開していたので、小学校一年生の弟の最期の姿を見ていないが、「夏の花」には克明に記されている。
「真黒くなった顔に、白い歯が微(かす)かに見え、投出した両手の指は固く、内側に握り締め、爪(つめ)が喰込(くいこ)んでいた」。「次兄(文彦の父)は文彦の爪を剥(は)ぎ、バンドを形見にとり、名札をつけて、そこを立去った」
「文彦が死んでいたのは、そこの道ばたです」。広い通りを歩きながら、時彦さんがぽつりと言った。自らは学童疎開していたので、小学校一年生の弟の最期の姿を見ていないが、「夏の花」には克明に記されている。
「真黒くなった顔に、白い歯が微(かす)かに見え、投出した両手の指は固く、内側に握り締め、爪(つめ)が喰込(くいこ)んでいた」。「次兄(文彦の父)は文彦の爪を剥(は)ぎ、バンドを形見にとり、名札をつけて、そこを立去った」
同じ日の夜、海老根さんに紹介されたポーランド人のウルシュラ・スティチェックさん(46)に会った。彼女が昨年完成した博士論文の題は「人間存在の不安――収容所文学と原爆文学」だという。
「どちらの国も戦争の悲惨さを知ってます。原民喜には『夏の花』以外にも良い作品があります。ポーランド語に訳したいです」。お好み焼きをほお張りながら話す。
人々の平和への願いを強く感じた一日だった。
(編集委員 牧内岩夫)
はら・たみき(一九〇五―一九五一)広島市生まれ。慶応義塾大学卒業後、「三田文学」に叙情的な短編を寄稿。四五年八月六日、疎開先の広島で被爆し、「このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟(つぶや)いた」(「夏の花」)。被爆時の惨状を記した短編「夏の花」を書き上げるが、GHQ(連合国軍総司令部)の検閲を考慮し、四七年になって発表した。
翌年、第一回水上滝太郎賞を受賞。「壊滅の序曲」「廃墟から」を加えた「夏の花三部作」は原爆文学の原点とされる。ほかに、「鎮魂歌」「原爆小景」「永遠のみどり」「心願の国」など。五一年三月十三日、中央線の吉祥寺・西荻窪間で鉄道自殺した。
(作品の引用は新潮文庫)
水を、水を、水を下さい、
……ああ、……お母さん
翌年、第一回水上滝太郎賞を受賞。「壊滅の序曲」「廃墟から」を加えた「夏の花三部作」は原爆文学の原点とされる。ほかに、「鎮魂歌」「原爆小景」「永遠のみどり」「心願の国」など。五一年三月十三日、中央線の吉祥寺・西荻窪間で鉄道自殺した。
(作品の引用は新潮文庫)
水を、水を、水を下さい、
……ああ、……お母さん