気が付かないうちに、更新することなく随分と長い時間が経っていました。「まぁまた明日書けばいいや」を繰り返していると、いつのまにか日付の上では早3月ですからね。歳をとると年月が過ぎるのが2次関数的に早くなるというのは本当のようです。

無論ココを閉鎖してしまおうと思ったことはありません。自分の本音を残せる大切な場ですからね。こんな貴重なものをみすみす捨てるような馬鹿なことはしませんです。


つい先日のことなんですが、ネット上で「芸能リポーターは絶滅する」というニュースを読みました。

ニュースというかただの感想文というか、ほんの暇つぶし程度に読んだだけでなんともないんですがね。ちょっぴり「井上公造も大変だな」と思った程度です。

しかしそのニュースを使って日記を、要するにブログを書いている人が約200人ぐらいいたんですが、その内容に僕は口あんぐりしてしまいました。

ちょっとどんな事が書いてあったのか。日記の冒頭部分をいくらか抜粋してみますと――。


 「汚い面下げてノウノウと電波垂れ流す鬼畜」
 「人間の屑。存在価値なし」
 「進んで自らを下賤に貶めた輩」
 「他人のゴシップで飯を食う寄生虫」
 「ハイエナ」
 「他人のふんどしだけで相撲するだけの金魚の糞」
 「下品。卑劣。下衆。野蛮。下手物。糞蠅。脳タリン。吐瀉物以下。スペースデブリ」


こういった書き方でしか他人を批評できない人間の方が、「汚い面下げて」「他人のふんどしで相撲」している「卑劣」な「鬼畜」「スペースデブリ」だと感じてしまう僕は、やはり反体制の人間なのでしょうか。


個人的な感想ですが、多くの人の『感情』というものがひどく単純化してきている様に感じられ、はっきり言って現代日本が「気色の悪い世界」になってしまっていると思います。

例えば「~~という問題についてどう思うか?」という質問があった場合、「当然の行為だ。批判する人間は死ねばいい」か「許されない行為だ。これをした人間は死ねばいい」の2種類の回答が世間のマジョリティを占めていると思うのです。

無論前提として善悪の判断がある。それは当然です。しかしその後の「結論」の段階になると、善だろうが悪だろうが「死ねばいい」という風に猛烈な罵声を浴びせる人が実に多いこと。

善悪の段階では物凄くお上品な「きれいごと」を語っているというのに、最後には「寄生虫」とかですからね。


件の芸能リポーターという職業は、一般的なイメージが良いものとはいえません。この間石原真理子と玉置浩二が復縁・結婚したというニュースが流れた時には、2人の実家を直撃したり近所のスーパーでどうでもいいことまでをも聞き込んだりしてました。

2人のどちらかの大ファンでない限り、これを見て「どーでもいーことやってんなー」と思うことは普通です。全くおかしな感情ではない。

だからと言って「下らない事やっている。存在価値はない。だから死ね」というのはおかしな感情ではないでしょうか。

自分の主観で「興味の有無」を判断し、「無い」と判定されたもの全てにそのように思っているのでしょうが、極めて短絡的且つ幼稚な感情です。


こういった考えを持つ人は「テレビなんか見ないし」なんてことをよく言います。「下らないし、下品だし。見るだけ時間の無駄だよ」なんてことを、「野蛮」かつ「吐瀉物以下」な言葉と共に掲載しています。

見ないなら、いいじゃないか。選択の自由があるのだから一生見なければいい話であって、わざわざそんな下らない自己主張をする必要なんて一切ないんだから。絶対見なきゃいけないものでもないでしょう? テレビなんて。


あ~「下品」と馬鹿にされる例かもしれませんが、書くことにしましょう。世の中色んな性癖があります。

例えば「獣姦が一番興奮する」って人もいるでしょうし、「スカトロじゃないとヌけない」なんて方もいらっしゃるでしょう。

僕にしてみれば「獣姦」も「スカトロ」もありえない趣味なので、「下品。見たくない。仮に見ても見るだけ時間の無駄」だと考えます。なので、僕はそういった類のものは見ません。

でも、存在の否定は全くしません。

何故ならば「それが好き」だという人が必ず世の中に存在するわけだし、それで飯を食って生きている人も必ず存在するわけですよ。上記2点の存在否定とは、上記2点が好きな人の、上記2点で飯食ってる人の存在否定に他なりません。僕は人の存在否定はしたくない人なので、物の存在否定はしません。


なんだか上手くまとめられなくなってきましたが、言いたい事は何となく言えたので満足です。

とりあえず言いたい事をもう一度書いておく事にします。

ひとつの事象への解答が必ず二元論によって導き出され、どちらの答えもそれぞれの存在を全否定しあう世の中。気色悪いですね。

きれいごとばかりを並び立て、そのくせ文字にするのも憚られるようなことばかり言う人。気色悪いですね。

もうちょっと頭の中を整理しなおして、こういうテーマについてはまた今度。


【本日のBGM:クレイジーケンバンド『タイガー&ドラゴン』】

友人のTさんから、こんなオナブロを「自分のブログにリンクを貼って良いか」聞かれました。無論来るものは拒まずの精神ですからOKしたんですが、気が付いたら別のブログにもリンクが貼ってありました。

元はといえば「建前無用の一本勝負」をコンセプトに書き始めた日記・雑記ですが、こうして読者がいるという事を考えると今後の更新内容も考えなければいけないかもしれません。

余り人に嫌われる事は書かないようにしようかな。いや、寧ろ嫌われてナンボのつもりで何でも書いていこうかな。

現在、真剣に思念中であります。


さて今週、いやもう先週のことになりますか、我が愛すべき原チャリ「スズキ レッツⅡ」がご逝去されました。享年5万5千キロ。早すぎる別れに戸惑いを隠しきれません。

死因は急性エンジン不全。今思えばオイル関連の手入れが充分ではなかった事が、彼の寿命を縮める一因であったかもしれません。

いくら今年で自賠責期限が切れるからと言って、その期限ピッタリに逝かなくてもいいものを……。無念です。


何が無念かって「ちょっとした金儲け」が出来なくなった事がです。

僕自身、実のことを言えば大学卒業と同時に元々原付は廃車にするつもりでいました。就職すれば乗る機会は確実に減少しますし、維持費もそれなりにかかりますしね。

しかし勤務先の後輩S君が「原付が欲しくてたまらない」なんて言うもんですから、「コイツはシメシメ」と廃車を取りやめ、4~5万ぐらいでの転売を画策していたその矢先に……今回の訃報です。

「修理して新車同然の物を売ってあげよう」なんてコスいことも考えましたが、見積もり段階で修理費は最大で10万円。

この金額にS君の購買意欲もすっかりうせ、原チャリ転売計画は儚くも目の前から消えうせてしまいました。

3月にこの5万円をあてにして練った計画も多数ありましたけれども、見事ご破産と相成りました。


《本日の教訓》 「取らぬ狸の皮算用」
メガネは自分で稼いだお金で新調することにします。それよりもまずはチャリンコを買わねば。


【本日のBGM:Queen "Bicycle Race"】

先日、渋谷で若いチャンネーとお食事会をする機会がありました。

無論現在どフリーな僕さまチャンとしては、これを契機に是非前向きなお付き合いに「なったお! そうなったお!」と期待してたんですが、結果は全くそんなことにはならず。

むしろ電車での帰り際に大反省会が開かれる有様。「あぁ? 仕方ないね…」と独り呟く寂しい結果と相成りました。


数多くの問題が発生し、不完全燃焼感にムンムンとなっていた僕とKさんは、電車を途中下車し駅前にあった某居酒屋へ行くことに決めました。

そこで始めは「何がいけなかったのか」という反省の話題で持ちきりだったのですが、気が付けば話は勤務先の今後に。

お食事会でのモヤモヤ感と心地よいリキュールの高揚感によってでしょうか、時が経つのも忘れて長い間話込んでしまいました。


色々考えさせられる話が多く出、意義深いタイマン酒であったわけですが、上手く纏められないので以下暫くそのメモに。


――メモ――

教育とは何か? 勉強とは何か?
勉強…将来の目的達成のために必要な「最低限度の手段」
 ↓
進学(難関校受験)…将来の目的達成を容易にしうる、「道程の一過程」
 ◎あくまで通過地点であり、ここをゴールにして人生を費やしてはいけない。

そもそも:私学(塾)の原点⇒究極のVolunteer精神(この子をどうにか、その「手段」を用いれる様にしてあげたい)
しかし:義務教育(教育機会の平等)…これこそ国によるVolunteer精神がなければならないが、ない。
 ⇒例えば英語のカリキュラムにしてみても、「教えやすい」順に教えているだけで、「慈愛の精神」がない。
 ◎こういった現状の中、はたして塾は、講師はどういった存在であるべきか?

勉強・進学:あくまでも手段であり、一過程。塾および講師:その手段を教授し、過程を通過できるように助力すべき存在。
いかに効率よく「過程」を「通過」させるかが勝負? ←大手進学塾の論理
「過程」を「通過」できない、Volunteer精神を受けずに育ってきた子供達…「手段」を手に入れる意欲が低い。
 事実:授業ノート、宿題の完成度、自習意欲の旺盛さなどにおける完全たる「差」
いかに「手段」を手に入れる意欲を増進させ、「通過」の本流にのせるか? ←個別指導のとるべき論理

――メモ終り――


多少話していた内容とは違う可能性が高いですが、そこはお酒の力で出た議論ということでご愛嬌です。

ホント、なんで「たかが」アルバイト講師なのにこんなに熱くなっちゃうんだろうか。

もう直ぐ職場を去るということが、まるで身近な存在の誰かが死んでしまうかのように感じてしまう現実。

よく本とかで「大切なものは失ってからわかる」とか言いますが、それは違うようですね。「失うかもしれないと思ったときに、それは大切かどうかわかる」んだと思います。

姉と同じくらい年の離れた人(Kさん)と、熱く深く語り合えることの幸せ。そして大学4年間、素晴らしい職場に恵まれた事の幸せ。素晴らしい上司や(一部を除いて)素晴らしい同僚と働けた事の幸せ。

僕は毎日、それをかみ締めながら暮らしています。


【本日のBGM:梓みちよ『二人でお酒を』】

眠れません。なぜならば日中外に出ることなく、家の中でごろごろ過ごしただけの一日だったからです。

理由ぐらい分かっていますが、如何せん給料前の金欠状態では自然とこうなる日が増えてしまいます。

そんな日にはニコニコ動画かオナニーかってことで、今こうしてセルフプレイを始めたところです。


日付上ではおとといになりますか、4日に町田で学科の友人HとI、そして日本史専攻のNの4人で飯を食ってきました。

卒業論文も無事終り、それぞれの進路も確定したという事でしたので、「お互いの前途を祝して」といった感じで。

付属高校からそのままエスカレーター式に進学した僕にとっては、大学で初めて知り合った「純然たる外部生」である3人。彼らと知り合えたことが、無駄に過ごす事の多かった大学生活における、数少ない収穫だったと言えるでしょう。

そんな僕にとって大切な存在です。


Hがあまり自由に使える予算が少ないということで、原町田のブックオフへ向かう道の途中にあったしゃぶしゃぶの食べ放題の店に行きました。

食べ盛りの学生にとって、2000円で好きなだけ食えるというのはありがたい存在です。無論、僕にとってはこの上なく。

大量の豚肉を鍋に放り込みながら、Hに彼女が出来た話を聞いたり、Nの指導教授の器の小ささに驚いたり、他愛もない話を楽しみました。

個人的にはHの彼女をまだ紹介されていない事が癪なんですが……。それは追々の楽しみにとっておくことにします。


その後店を出て飲み直そうと思ったんですが、やはりHに一杯引っ掛けるような金銭的猶予はなく。やむを得ず近場の喫茶店でコーヒーを飲みながらダラダラと喋ることになりました。

話は自然と目前に迫った卒業式、そしてその後の進路と移り変わっていきました。


Hはそのまま院に進んで英文学専攻を続けながら、作家としての独り立ちを狙いゆくゆくは「群青」掲載を狙っているとか。

Iは院の日文日本語教育学専攻へ。将来的には中国人の彼女と共に大陸へ渡って、現地で日本語学校を経営したいとのこと。

Nは他大学(私の家の近所)の院の日本史専攻へと進み、研究職として一生を貫く事を高々と宣言。

そして僕はといえば……。しがないサラリーマン生活が待っています。

「まぁ営業で地道にコツコツ頑張りますよ!」 そういった後僕はついぞ言葉が出てこなくなりました。


そりゃあ確かに家の事情とかもあり、院への進学や非正規での出版の仕事というのも考えなかったわけでは有りませんが、大きな夢に向かい前進しようとする友人達の前で歯がゆい気持ちになってしまいました。

「物を書く仕事」に従事し、日毎クリエイティブな才能に触発されながら自分を高めていくという高邁な精神は、残念ながら今年の4月以降には待ってそうにありません。

自身の就職先の企業に不満はありませんし同期ともまぁ何とかやっていけるとは思うんですが、一方で「こんなんは俺の居場所ではない」と中2病っぽい妄想にも憑りつかれたりするわけでして。

なんだかまぁ、我ながら不安定な感情に支配されています。無論、表に出してイタイ言動をしようとも思わないんですが。


Hがぽつりと、うまみの余りないブレンドを飲み干すと僕に言いました。

「あなたなんか貪欲に何でも吸収するし、自分みたいに内向的な人間じゃないんだから、絶対成功するよ。寧ろそういう世界を経験したほうが、将来役立つかもしれないじゃない」

サラリーマン生活に対する憂鬱な心情を察したのでしょうか、普段人を誉めることのないHからの突然の言葉でした。

柄でもないですが、少しウルッときました。口下手なヤツからこういう事言われると、人はどうしてこうも弱いのでしょうか。

そしてなんだか心がサァーっと澄んでいくのが感じられました。「そういう世界を経験~」なんて、そんなことは僕にとってわかりきった模範回答ですが、人に改めて指摘されると至極の金言のように思われました。


人生という、サラリーマン生活という荒波の中で「しゃぶしゃぶ」されて、余計な脂のない「ワンランク上」の自分になってやろう。

臭い事ばかり言ってますが、これからの決意を新たにした夜でした。

ちなみに、食べ放題は「豚しゃぶ」でした。僕にピッタリですかそうですか。


【本日のBGM:Otis Redding "Sitting On The Dock Of The Bay"】

最近歌謡曲にはまってしまいました。

昔からカラオケ好きな母親の影響で聴いてはいたんですが、昨年の「桑田佳祐AAA'08 ひとり紅白歌合戦」を観てからその世界にどっぷり。

いまやギガビートの半分近くが歌謡曲のオムニバスCDで埋まってますからね。GSとか最高です。


ただ同級生とカラオケ行ってもこういう歌を余り唄えないのも事実でありまして。

どうも彼らの中には「古い=悪い」という図式が成り立っているようなんです。いけませんね。実にいけない傾向です。


例えば以前実際にあったことなんですが、酒を飲んだ席で大瀧詠一の『君は天然色』を唄ったんです。

ノリも結構いいし、個人的にはあのナイアガラ・メロディの流れるようなラインが好きなんですけれどね。

メジャーな曲だから皆知ってると思ったんですが、周囲のリアクションは完全にキョトーン。

そればかりか大瀧メロディを「昭和っぽい古い歌だね」と評され、それを唄った僕は完全に「40代中間管理職」のレッテルを貼られてしまいました。

おかげさまでその日の合同コンパニオンはその後散々。新しい出会いもなくスーッと家路に着きました。


しかしその1ヵ月後フジテレビ「僕らの音楽」の中で、レミオロメンがあの『君は天然色』をカバー。

するとこの間唄った僕を「ダサーい古ーい」中傷したヤツが、「あれメッチャいい歌だね」だってさ。

バッカじゃねえの?

要するにヤツの脳内では「古い=悪い」という図式の上、更に「自分が知らない歌⇒ダサい」というようなベクトルも向かっているわけですね。

それも自分が好きなアーティストが歌っていれば「自分が知ってる歌⇒イケてる」と変換されるわけで、急にべた褒めと相成るわけと。

なんとも単純・単細胞な思考でしょうか。自分のフィルターでしか物事を評価できないんですね、わかります。

以前にも高橋真理子の『for you...』が流れてくるのを聴いて、「こんな古い歌知らねーよwww」と馬鹿にする輩のいました。

余りに狭い価値観に、一気にソイツに対する親愛の情が冷めていくのを感じたことを今でもはっきりと覚えています。


とにかく、「古い=悪い」という価値観はどうにかして打破したい。良いものは良いし、悪いものは悪い。それはいつの時代とて同じはず。

「昭和歌謡曲には今のJ-POPにはない、男女の物語と深い情が隠されている」とは我が持論です。

最近のとりあえず「セツナイ」とか「キミに逢いたい」とか「泣きたいよ」とか、薄っぺらい情感のない日本語を駆使しまくる曲が大っ嫌いな僕にとって、今のCDセールストップテンなんて見るに値しません。

何よ? 「アンサーソング」とか「○○ feat. ××」とかって。とりあえず自分1人で琴線に響きわたるような曲を作ってみろっての。

仲間内でユニット作って曲作ってなんて、結局大学のサークルレベルの公開オナニーでしかありませんからね。

小室ファミリーとかそんなんが持て囃され始めた時から、J-POPっていうのは生まれて、歌謡曲は枯れ始めてしまったんではないでしょうかね。


あ、あと言葉に魂のこもってない、日本人お坊ちゃま達による「なーんちゃってBlack Music」も大っ嫌いです。

所詮形だけしか入ってないヤツばっかりなんですよね。ソイツ等にBillie HolidayやRobert Johnsonの歌声の裏にある、そこはかとない悲しみなんてわかんないんだろうな。


【本日のBGM:大瀧詠一『さらばシベリア鉄道』】