先日劇場版 涼宮ハルヒの消失の感想記事を書きましたが、その後原作消失を読み直してみたらちょっと感想が変わったので新規に投稿。

劇場版アニメを見たときは、本当に素直に原作を、余すところ無く描いているなぁ、と思いましたが、原作を読み直すと、やっぱりアニメにはアニメ独自の演出が加えられていますね。
多分、原作を直前に読み直してから、映画を見に行ったらまた違った感想になっていたでしょう。
何かと言えば、長門の描き方。
まあ、映画を見ているときも「いやあ、京アニ萌え殺す気満々だなぁ」と思ってニヤニヤしながら見てたのですが、やっぱり、後から思うとかなり過剰なアレンジですよね、あれ。
喋っている台詞なんかがそんなに違うわけでは無いのですが、原作とアニメでは受ける印象がずいぶん違います。
原作では、もっと、内気な普通の女の子、として書かれています。クラスに一人はいそうな、ね。
普通、である事が重要な感じで、徹底してます。
一方、アニメの方では、もう過剰に萌えキャラクター、言い方を変えれば主人公に片思いしている大人しい方のヒロイン、として記号化されている、と思います。
記号化されている、という言い方は、あの長門と京アニに対して失礼だと思いますが。
では、なぜそんな長門を、劇場版消失を見て、「見たかった消失を見たかった形でアニメ化してくれた!」と感動したのでしょうか?
それは多分、やはりそう感じるように仕組まれていたのだと思います。
今回の劇場版、果たしてまっさらの新規作品として鑑賞した人はどれくらいいるでしょうか?
恐らく、ほとんどの方が、原作小説を読み、TVアニメシリーズを見て、涼宮ハルヒの憂鬱が好きになって、そして原作小説を読んでいた人間なら、消失のアニメ化に大きな期待を抱いていた、そんな感じだと思います。
そんな中で、「消失」という作品に、特にその中心人物であり、作品のキーを握る、長門とキョン、そしてその二人の関係というものに対する思い入れが醸成されていったのだと思います。
「消失の長門はこうに違いない」
「消失の長門はこうであって欲しい」
醸成されていったそんな期待、想い。
それは「思い出を美化する」ような方向へと、働いていったのではないでしょうか。
その、なんというか、謂わばフィルターのかかった消失長門像と、今回の映画の消失長門像が一致していたからこそ、あれだけ「萌えるように」演出された長門が、ファンにとっても好意的に受け入れられたのではないでしょうか。
そう思うと、この劇場版涼宮ハルヒの消失の制作陣は、本当に凄い。
原作を丁寧になぞりながら、あくまでそのままにキャラクターを起こしたのではなく、原作×アニメ効果+信者の思い=という数式を解いて、あの長門のキャラクターを演出したわけですから。
だから、その数式に当てはまらないファン、例えば熱心な原作ファンや、それほど長門に思い入れはない、ってファンは、劇場版アニメ消失に違和感を感じているかも知れません。
それでも、やはり、
「ああ、『長門は俺の嫁』ってバカな信者が多いから、消失っていう長門メインのコンテンツを使って、長門萌キャラにして映画にしたら、めちゃくちゃ売れんじゃね?」
的に作られた作品では無いと思うのです。
そう言い切るには、作品としての完成度が、高い。
私は別に京アニ信者ではないのですが、そう思ってしまいます。(どう完成度が高いのかは、前の記事に書いたので割愛)
観客の求めるもののうち、最大数の願望を満たしてくれた、娯楽作品としてはやはりかなりレベルの高いものなのだな、というのが、映画を見て、原作を読み直して、ちょっといろいろ考えた上での結論です。
あれ、原作読み直したら、手放しで褒めちぎった前回の記事が、ちょっと違うな、と思って、無条件の賞賛を撤回するつもりで今日の記事を書いていたのに、結局劇場版消失絶賛してるような。ふしぎ!

劇場版アニメを見たときは、本当に素直に原作を、余すところ無く描いているなぁ、と思いましたが、原作を読み直すと、やっぱりアニメにはアニメ独自の演出が加えられていますね。
多分、原作を直前に読み直してから、映画を見に行ったらまた違った感想になっていたでしょう。
何かと言えば、長門の描き方。
まあ、映画を見ているときも「いやあ、京アニ萌え殺す気満々だなぁ」と思ってニヤニヤしながら見てたのですが、やっぱり、後から思うとかなり過剰なアレンジですよね、あれ。
喋っている台詞なんかがそんなに違うわけでは無いのですが、原作とアニメでは受ける印象がずいぶん違います。
原作では、もっと、内気な普通の女の子、として書かれています。クラスに一人はいそうな、ね。
普通、である事が重要な感じで、徹底してます。
一方、アニメの方では、もう過剰に萌えキャラクター、言い方を変えれば主人公に片思いしている大人しい方のヒロイン、として記号化されている、と思います。
記号化されている、という言い方は、あの長門と京アニに対して失礼だと思いますが。
では、なぜそんな長門を、劇場版消失を見て、「見たかった消失を見たかった形でアニメ化してくれた!」と感動したのでしょうか?
それは多分、やはりそう感じるように仕組まれていたのだと思います。
今回の劇場版、果たしてまっさらの新規作品として鑑賞した人はどれくらいいるでしょうか?
恐らく、ほとんどの方が、原作小説を読み、TVアニメシリーズを見て、涼宮ハルヒの憂鬱が好きになって、そして原作小説を読んでいた人間なら、消失のアニメ化に大きな期待を抱いていた、そんな感じだと思います。
そんな中で、「消失」という作品に、特にその中心人物であり、作品のキーを握る、長門とキョン、そしてその二人の関係というものに対する思い入れが醸成されていったのだと思います。
「消失の長門はこうに違いない」
「消失の長門はこうであって欲しい」
醸成されていったそんな期待、想い。
それは「思い出を美化する」ような方向へと、働いていったのではないでしょうか。
その、なんというか、謂わばフィルターのかかった消失長門像と、今回の映画の消失長門像が一致していたからこそ、あれだけ「萌えるように」演出された長門が、ファンにとっても好意的に受け入れられたのではないでしょうか。
そう思うと、この劇場版涼宮ハルヒの消失の制作陣は、本当に凄い。
原作を丁寧になぞりながら、あくまでそのままにキャラクターを起こしたのではなく、原作×アニメ効果+信者の思い=という数式を解いて、あの長門のキャラクターを演出したわけですから。
だから、その数式に当てはまらないファン、例えば熱心な原作ファンや、それほど長門に思い入れはない、ってファンは、劇場版アニメ消失に違和感を感じているかも知れません。
それでも、やはり、
「ああ、『長門は俺の嫁』ってバカな信者が多いから、消失っていう長門メインのコンテンツを使って、長門萌キャラにして映画にしたら、めちゃくちゃ売れんじゃね?」
的に作られた作品では無いと思うのです。
そう言い切るには、作品としての完成度が、高い。
私は別に京アニ信者ではないのですが、そう思ってしまいます。(どう完成度が高いのかは、前の記事に書いたので割愛)
観客の求めるもののうち、最大数の願望を満たしてくれた、娯楽作品としてはやはりかなりレベルの高いものなのだな、というのが、映画を見て、原作を読み直して、ちょっといろいろ考えた上での結論です。
あれ、原作読み直したら、手放しで褒めちぎった前回の記事が、ちょっと違うな、と思って、無条件の賞賛を撤回するつもりで今日の記事を書いていたのに、結局劇場版消失絶賛してるような。ふしぎ!