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その日は閉店の時間まで大森は飲んでいた。
大森は今ここで桜子を一人にすると康之と雄二の事で考え込んでしまうのではないかと
思ったからだった。
閉店15分前に、
「じゃぁまた来るから。」
桜子は店を出て、近所にある神社を曲がるまで大森を見送った。
翌日、雄二は開店してから1時間後に店にやって来た。
桜子は昨日、康之が来た事を言うべきか悩んだ。
大森に康之の自分勝手な行動に叱咤された事もあるので昨日来た事を話せば
その事も話さなければならない。
しばらく考えて康之が来た事を言うのを辞める事にした。
雄二はすっかり自分の席となったカウンターの左に座るとボソリと、
「こないだ康之と飲んだよ。」
桜子にそう告げた。その事は康之から聞いていたが、
「そう…。」
とだけ答えた。
「大学時代はよく3人で飲んだわね。」
「そうだな。今はあの頃が懐かしいよ。」
しばらく二人共黙っていたが、雄二の方から桜子に話しかける様に独り言を言った。
「でもあの頃には戻れないんだな。あの頃は何もかもが楽しかったけど
今はそんなにはしゃげる歳じゃない。昔を振り返って初めて大事な時間だって
思うのかもしれない。」
それは桜子も思った事だった。
ただ雄二と講義を受けているのも楽しい時間だったし、
講義がない時間に公園に行くだけでも楽しかった。
いつからだろう。そんな些細な事で楽しみを感じる事が出来なくなったのは。
きっと「大人」という社会人になってからかもしれない。
桜子は昔よく雄二と行っていた日比谷公園が懐かしくなり
一緒に行かないかと誘おうと思った。
「ねぇ…。」
その事を伝えようとした時に北村が入ってきた。
北村が来た以上その事は話せない。
雄二は桜子が何を言いかけたのかが気になったが桜子と二人っきりではないので
何も聞かなかった。
「やあ。」
「いらっしゃいませ。ちょっとお久しぶりですね。」
「うん、まぁ仕事に追われてね。やっとひと段落したんだ。だからおかみの顔を
見に来ようって思って。」
その表情はすこし疲れている様だった。
「今日はどうなさいますか?」
「全部、おかみに任せるよ。ただ飯は食べてないからちょっと食事になるのを出してくれないか。」
今日は夕方から雪が降っていたので酒は奈良萬を熱燗にした。
なかなか入手困難な日本酒だったが、叔母の美由紀が蔵元と付き合いがあったので
今や桜子の店になった代でも置く事が出来ていた。
「お食事を先になさいますか?おつまみを先にしましょうか?」
「腹に何も入ってない時に飲んだらマズいから食事を先にしてくれる?」
北村のリクエストに桜子は肉じゃがと土鍋で炊いた白米、あさりの吸い物など
夕飯らしい物を出した。
それを黙々と食べていた北村だったが、半分程食べると
「いつも思うんだけどおかみは料理上手だね。これならいつでも嫁に行けるんじゃないかな。」
以前、結婚していた事を知らない北村だからこそ言える言葉だったが
結婚当時、桜子は康之に料理を褒められた事があっただろうか…。
確かなかった様な気がする。
桜子は北村からの褒め言葉を複雑な気持ちで受け止めた。