■「内定への一言」バックナンバー編


「人は予想しなかった必然を誤算と呼ぶ」




最近、ブックオフで三十冊ほど本をまとめ買いしたせいか、帰宅してからは黙々と読書に耽る日々が続いています。そんな中で久しぶりに読み返した「誤算の論理」(児島襄・文春文庫)からは、かつて読んだ時とは違った気付きや視点が得られました。


本書は、帝国陸軍における西郷隆盛の影響や、自動車王フォードナチス支援、パットン将軍の死、チャーチルの決断とその結果など、歴史の本流から見れば「脇役的イベント」かもしれませんが、人間を考えるうえでは貴重な示唆に富む「誤算」を十編ばかり集め、軍事史研究家である著者の意見を述べている名作です。



人間の偉大さとはかなさを感じる数々の問題提起に、各章「なるほど」と思わされますが、今日は別に、歴史を壮大に論じようと思っているわけではありません。ただ、人が「誤算」と呼ぶ結果は、冷静になれば事前に察しが付くこともあるのだ、ということや、学生や仕事と関係ある「誤算」とは何かということを考えてみたいと思います。


以下は既に、夏の講演で使った例え話ですが



皆さんは、水泳の経験がありますよね?「クロール」とか「息継ぎ」と聞けば、それが何の意味か、どういう動作を意味するのかは、得意不得意を問わず、誰でも分かるでしょう。


現代は「水泳」とか「スイミング」と呼ばれる運動は、古来からわが国では「水練」と呼ばれ、国民が少年少女の頃から習い、武士や軍人も学んだ「必修科目」でもありました。では、なぜ日本国民全員が「水泳」を知っているのでしょうか?


それは簡単です。日本は海に囲まれた島国で、山林が七割を超え、川が多い国だからです。このような地理的条件を持つ国では、好むと好まざるに拘わらず、国民はいつも「水とうまく付き合うこと」を求められ、「非常識で、予想外の姿をした水(洪水や遭難、海難事故など)」の処し方を学ぶことが、国民の課題となります。


そう言えば、日本には「畳の上の水練」ということわざもあります。つまり、日本では誰しも「水の事故」に遭う可能性があるわけで、それに対する訓練を義務教育の中で行うことは、政府の責任範囲に入るわけです。


もし、堤防の決壊や洪水が起こり、それほど深くない水で国民が死亡した場合は、対処法を講じなかった政府が責任を問われるかもしれません。



というふうに、回りくどい話になりましたが、我々日本国民は、母国の地理的条件を知る以前の年齢から水との接し方を学ぶことで、「水の誤算」が起こりにくい人生を過ごせているわけです。


もちろん、建設技術の向上やインフラの発展も安全の土台です。泳ぎ方を忘れたおばちゃんも、泳ぎが得意でなかったおじちゃんも、「息を吸い込めば体が浮く」くらいのことは体験的常識として知っているので、自分の身長以下の水であれば、事故は起こりにくいでしょう。




では、反対にモンゴルはどうでしょうか?モンゴルの人々は、「水の誤算」に対応できるのでしょうか。それは当然、できません。というか、「水の誤算」は、かの国では起こらないことになっています。それは、海がないからです。起こらない事件を想定した訓練を義務教育で行う必要性はなく、モンゴルで「水泳」が存在するとすれば、それは「趣味」でしょう。



しかし、代わりにモンゴルで義務教育並みに必要とされるのは、乗馬や天文学です。モンゴルには海はない代わりに、北海道の何十倍もある広大な草原があります。そんな国では、馬は車と同じくらい大切な存在でしょう。


また、広大な草原で道に迷った時(道があるのか?)は、星の位置から自分の位置や目的地の方向を割り出す知識が求められます。こういう努力を通じ、モンゴルの人々は「草原の誤算」が起こらないように準備しているんですね。


日本では「紳士の趣味」的な乗馬も、モンゴルでは「国民の当たり前」というのが、実に面白い対比です。



従って、「誤算」とは、「日本の草原」や「モンゴルの海」のようなものだとは言えないでしょうか。ということで、草原や海を「実社会」に置き換えて考えてみましょう。



僕は今年で社会人生活が十年目、会社を作って四年目で、やっとこさ社会の仕組みが分かり始め、「ぺ~ぺ~の二十代」をあと三十八日で去ろうとしているところです。そんな僕が、海外勤務や翻訳業務、編集業務、独立起業の十年を通じ、「実社会」という草原や海で一番多く目撃した「事故」は、お金、人間関係、コミュニケーション、仕事に関するものでした。僕自身も、何度も遭遇しました。


友達の愚痴、上司のイライラ、恋人同士のケンカ、熟年離婚、引きこもり、不登校、非行、フリーター、ニート、年金問題、借金問題、退職金問題、夫婦喧嘩、就職難、窃盗、強盗並べるほど暗くなるこれらの現象は、今も社会のあちこちで起こっている「事故」です。



はっきり言って、「洪水」や「海難事故」よりも確実に多く広く起こり、一人当たりが遭遇する確率も高い事故です。でも、海に囲まれて川が多いわが国でさえ、洪水や船の転覆はニュースになるのに、借金苦による自殺やケンカはニュースになりません。そういうことはあまりに多すぎて、皆が「そういうこともある」としか考えていないからでしょうか。


しかし、なぜ「事故」になるのでしょう。同じことが起きても平気な人がいる一方で、どうして相も変わらず、毎年同じようなパターンの事故ばかりに遭う(起こす)人がいるのでしょうか。


答えとしては、起こることは大差ないが、それが「事故にならない人」と「事故にしてしまう人」の二種類の人がいるからだ、としか言いようがありません。必要な対策を講じなかった人は、たとえその人がどこぞの有名大学卒業であれ、「海で溺れたモンゴル人」か「草原で迷った日本人」と同じ状態に陥るわけですから、行き着く結果はみじめです。



かくして、今日も明日も、来週も来月も、「実社会の泳ぎ方」を学ばなかった人は、お金や人間関係、コミュニケーション、仕事の「洪水」に遭遇し、あえなく敗退するか、場合によっては致命的な打撃を受けます。これはもう、分かりきったことです。その人が運が悪いのでも、運命がいじわるなのでもありません。


生きていく上で絶対に必要な「お金、人間関係、コミュニケーション、仕事」に対する対策を取らなかった人には、周期的に同じ「悪運」が襲い掛かるだけのことです。内定が決まったくらいでは、どうにも解決できない「この世の掟」で、変わろうとしない人には、何度も同じ質の誤算が訪れるんですね。



就活でも仕事でも、本人だけは悪運を「誤算」と呼びます。でも、お金や人間関係の仕組みが分かる人から見れば、それは明らかに「必然」でしかありません。起こるべくして起こっているだけのことです。


その人は、「日本は海に囲まれている」という近未来の事実を見ずに、「乗馬や天文学」を勉強したのですから、当然です。あるいは、「今から行くモンゴルは草原に囲まれている」と知っていたのに、何も対策を打たなかったのです。


こういうことを多くの人は「誤算」と呼んで、嘆き、悲しみ、恨み、いつしか無抵抗になって慣れていきますが、「果たしてそれでいいのか?」と思ったのが起業前でした。「起こる」と分かっている事故なら、防ぐ手立てはないのか?あるいは、「起こらない」ようにすることはできないのか?


猛スピードで車を飛ばしている人に、「この先は急カーブがあるよ」と言っても、それを信じない人はスピードを緩めません。それ以上飲めばアルコール中毒に陥る、という水準を知っている人が、明らかに危険な状態で酒を飲んでいる人に「それ以上飲むと本当に危ないぞ」と言っても、それを信じない人は、酒をやめません。こういう人が数分後にどうなるかは、知っている人にだけ明らかです。



僕が初めて学生に接した時は、まさに学生が、これらの「スピード狂」や「大酒飲み」のように見えました。彼らはこのまま行けば、内定くらいは取れるでしょうが、所詮内定したところで、いずれ「こんなはずじゃなかった」と誤算に愚痴をこぼすサラリーマン、OLになっていくのは、競馬の予想よりも簡単でした。


こういう言い方をするのは失礼かもしれませんが、お金や人間関係、コミュニケーション、仕事に対する必要な訓練を受けていない学生は、内定したところで「洪水の前の赤子同然」ですから、僕はどうせFUNの顧問を引き受けるなら、「お金、対人関係、語学、会計、パソコンに強い学生を育てよう」と思ったわけです。



僕一人、二年半でどれだけの結果が出せたかは、各人の判断に任せるしかありませんが、多くの学生が就活や大学生活で「誤算」として片付けてしまうハプニングが、FUNの学生にはワクワクするイベントになりつつあることを思えば、僕の「水泳」や「乗馬」の訓練も、ムダではなかったなと思います。


秋の「スピーチ塾」が終わり、これからどんなことを勉強していこうかを考えながら、今日はちょっと、こういうことを考えてみました。

■「内定への一言」バックナンバー編


「目標は決まるものではなく、決めるもの



将来を語るのに、「決まる」や「見つかる」といった自動詞を使うのは奇妙だとは思いませんか?あたかも最初から、この世のどこかに自分だけを待ってくれているような「夢」が存在し、幾多の試練を乗り越えて、それが見つかる…。そんな三流ドラマのような展開は、実際には起こりません。


そもそも、自分の選択を考えるのに「決まる」や「見つかる」という言葉を用いるのは、最初から思考に制約を課すようなものです。


例えば・・・


Aさん  どの車を買うか、決まった

Bさん  いいや、まだ決まってない


や…


Aさん  どの部活に入るか、決まった

Bさん  まだ決まらない


というような会話は、学生でもよく耳にするような種類のものでしょうが、これは「車」や「部活」が主語になっていますよね。別に文法の話をしているのではないんですが、僕は韓国語やマレー語の文法を相当勉強したので、用語や語順、シンタックスが意識に徐々に影響するのは、少しは身に覚えがあります。


上記の会話が、こうではどうでしょうか。


Aさん  どの車を買うか、決めた

Bさん  いいや、まだ決めてない


Aさん  どの部活に入るか、決めた

Bさん  まだ決めてない


随分印象が違うはずです。それは、主導権が自分と夢(対象)のどちらにあるか、全く違うから。


つまり、「夢が決まる」のではなく、「あなたが決める」のです。それに気付かず、知らず知らずのうちに周囲に影響されて、「決まらない人たち」の意識に洗脳されていませんか?心からの同意を持って将来に進みたければ、「決めた人」の話を聞き、自らの歩みを決めましょう。決めてもいつでも修正できます。


「後戻りできないんじゃ・・・」と心配する必要は、全くありません。そんなことより、心配すべきは、「優柔不断で、全てをできない理由にし、いつまでたっても進まないこと」です

■「内定への一言」バックナンバー編


「成功者、凡人、失敗者の全てが、結果を振り返って言う。

時間がなかったと。」




時間は主観的な要素(資源)で、あると感じればあるし、ないと思えば欠乏を感じるものですが、客観的な有無はさておき、「まだ間に合う」と思わなければ行動は生まれません。



大事なのは、あるかないかではなく、「あると思っているかどうか」です。


今、何かの期限に追われている人、追いかけているものがある人は、「自分は夢に間に合っている!」と心から思うことで、行動に対する最も効果的な動機付けができます。人は、「自分は間に合っていない(目の前の現実に「合格」していない)」と思った瞬間から、努力を放棄し、ただ終わることだけを企図した行動に走ります。



例えば、誰もが体験したことがある、こんな光景を思い出してみて下さい。


「間もなく、1番乗り場から、中洲川端行き電車が、発車します」と地下鉄の駅でアナウンスが流れています。アナウンス通り、電車は間もなく、出発しようとしています。ドアも当然、閉まろうとしているかもしれません。


しかし、その電車をまだ見ていない、たった今切符を買ったばかりの人が、階段を降りながら猛スピードで走っていくのは、なぜでしょうか?


答えは一つ。彼は、「間に合う!」と思っているのです



自分に「時間がある」と思えば必死の努力ができ、間に合うことも多くなります。遅れることもあるでしょう。しかし、必死の努力で味わった失敗は、次に生きる教訓となります。「あ~あ、もうダメだ」と階段に向かうことなく、何本も電車を見過ごすような態度なら、間に合うものも間に合わなくなり、アナウンスが流れても走らず歩かず、のんびりと遅れ続ける人生を送るだけです。そのうち、アナウンスはあなたにだけ、聞こえなくなるでしょう。



「時間がない」と思えば、そういう根拠を次々と思い起こし、「以上の理由で、あなたは手遅れです」と証明してくれるのが、人間の心です。


反対に、「ある」と思えば、そういう根拠を列挙し、「よって、あなたにはチャンスがあります」と証明してくれるのも、人間の心です。成功するのはいつも、「時間がある人」ではなく、「時間がない人」ではもちろんなく、「時間があると思った人」だけ。



やろうと思ってもなかなか集中できない人、今さら頑張って意味があるのか、と思っている人は、「間に合っていない自分」を正当化して気疲れしてませんか?


そう思っているのは、大抵、世界で自分一人だけですよ。嘘だと思ったら、周りの人に手当たり次第に聞いてみて下さいね