第4回  会社は給料を払わない


■給料の流れを知らない人は、無意味な努力に熱中する


 わが国の学校教育において、歴史教育や国語教育という外貌をまとって巧妙に刷り込まれる社会主義的職業観は、若者の「給料」に対する捉え方にも影響を与えている。


会計が分かる人、中でも損益計算書が読める人であれば、給料を払ってくれるのが誰であるかは誰でも知っている。給料を払ってくれるのが「会社だ」と考える人は、社会主義者以外に存在しない。


しかし、若者の中には、いまだに給料を払ってくれるのは会社だと考え、まだ二十二、三歳でありながら、会社選びの条件を福利厚生、勤務条件、研修制度、有給休暇の日数、男女比率、離職率などに求める人も多い。


もちろん、それらも重要でないことはなく、快適な職場環境や目標追求のしやすさにはそれぞれ大きな影響を与える要素ではある.。

だが、もし、給料を払ってくれるのが会社であると考えるなら、給与査定や昇進の基準は「上司にいかに気に入られるか」、「いかに短期間でメッキを塗って自己の動機を偽装するか」、「いかに社内のストレスに耐え、ボーナス支給時まで生き残るか」などとなり、およそ仕事の前提である「問題解決を通じた社会貢献による自己実現」とはかけ離れた場所で、無意味な努力に時間と労力を傾注する社員が増殖しかねない。


その努力の方向と性質は、日々わが国のドラマで繰り広げられる人間模様と近く、また、どこかの共産主義国の独裁政党に入った新入党員のものと似ている。


学生の就職活動においても、短期間で心にもない志望動機を覚えこみ、表面的な礼儀とスピーチを覚えこんで、手際よく「できる若者」を偽装する就職技術に長けている者がチヤホヤされがちであるが、経営者、ならびに人事担当者の方々におかれては、このような若者を採用することは、社内にわざわざリスクを購入して育てることにもなりかねないので、「若き共産細胞」の侵入を食い止められるよう願うばかりである。


 貸借対照表において、あるいは法人設立登記において、会社に純然たる自己資金、つまり「会社が払ってくれる」という性質のお金が存在するのは、創業時の会社が用意した資本金によって支払いを行う時だけである。それ以降のお金は、資本金を運用して発生する資産と負債に分化していく。


どの会社も、まずは自社が担当分野と定めた事業領域、つまり「業界」において顧客の問題解決を行い、その売上によって対価を得る。つまり、給料を払ってくれるのは「お客」である。


そして、お客と良好な関係を築き、関係を発展させていけば、さらに良質な在庫を形成することができ、売上と利益が増えるにつれて固定資産も充実する。

そうして、安定的な運用状態を実現すれば、取引先も掛売りや手形取引の話を聞いてくれるようになるし、銀行は短期負債や長期負債の借入れ申込みの話も聞くし、投資家も出資を検討する。つまり、負債や株式による資本調達が可能になり、これによって従業員の新規雇い入れや更なる設備投資、研究開発も可能になる。


このように、仕事において、会社が従業員に給料を支払うことはない。会社はただ、売上や借り入れ、出資を通じて顧客や金融機関、株主から預かった代金を給料日という期日に分配するだけであって、支払っているのではない。


会社が売っているものは視覚的には無数にあるが、本質的には三つしかない。商品とは「過去からの努力」の蓄積・表現結果、借り入れとは「現在の信用」の販売結果、出資とは「未来の可能性」の提案結果であり、結局は過去、現在、未来という三つの商品を物品化、サービス化、書類化(証券化)して販売しているだけである。


 しかし、社会主義者、つまり唯物論者は給与の支払いをどう見るか。


 彼らにとって、「カネ」とは紙幣とコインである。彼らにとって、給料というカネは、給料日に袋に入れて手渡される現金か、あるいは預金口座に払い込まれる数字である。


戦後、「給料が銀行振込になってから、おやじの威厳がなくなった」と言われた時期もあったが、本当にそうなのか。振込は防犯の必要上生じた手続きかもしれないが、本当に威厳がなくなったのは、職業への誇りを失い、サラリーマンが官僚化したからではないのか。

つまり、社会主義的労働倫理が役所はもちろん、民間企業にも浸透したからではないのか。


会計を理解しない人々にとっては、「給料を払ってくれるのは、会社」なのである。そう思っている限り、上司や会社にいかなる不満があろうと、胃薬を飲みながらこらえるしかない。


もちろん、会社に愛着や親しみを感じるのは良いことだ。そこに務め、働くことで収入を得、生計を立てているのだから、会社に恩義を感じて忠誠を尽くすのは素晴らしいことである。


私は自社の事業に誇りを持ち、長く働きたいと真面目に尽くす人々を心から尊敬するし、そのような職業上の良心が、戦後の荒廃期からわが国をこのような状態まで押し上げてくれたことに、深い敬意を抱いている。


だが、「給料を払ってくれるから、会社を愛する」という考え方だけでは不十分だとも考える。のみならず、給与や物的報酬によってしか社員の動機付けができない会社は、後々手痛いしっぺ返しを食らう。


「給料はお客様が払ってくれるのだ。会社はそれを預かり、貢献に応じて分配するに過ぎない。

そのつもりで、我々も心を一つにし、社会問題を解決して、悩みを喜びに変えよう」という教育を行っておかないと、経営陣と労働者が向き合うことになり、「顧客の問題」、「社会貢献」という同じ方向を向いて団結することが難しくなってしまう。

つまり、ここにも社会主義的価値観が付け入る隙が生まれてしまう。


就職試験においても、「こいつ、勘がいいな」、「なかなか飲み込みがいい若者だ」と感じるのは、会社との向き合い方に長けている若者よりも、会社と同じ方向を向いていると感じさせてくれる若者ではなかろうか。


「一緒に働きたい」という気持ちにさせてくれるのは、自社の問題解決行為に対し、会計的、思想的に同意しているかどうかによる。


学生は就職に際し、いかに会社に気に入ってもらうか、いかに自分を印象良く見せるかばかりを練習したがるが、そういう光景を見ても、若者はやはり大人をよく観察しているのだと感じる。


日々、本心を押し殺して周囲や上司の顔色を窺っている大人も多いからだ。嫌われれば査定に響くと恐れている社会人も多いからだ。


そういう大人の様子を見て、就職や仕事は、「ムカつかない程度の妥協の技術」と思っている若者は多い。大学の就職説明会でも、事業の会計的構造、志望企業の収益構造や喜びのポイントなどはほとんど考慮されない。


就職のマニュアル本は無数に存在するが、それらも個々の選考のテクニックを説くものばかりで、仕事の本質的な感動にはほとんど触れていない。書店に行ってみれば、若者が職業の問題をいかに一時的、表面的にしか考えていないか、よく分かるだろう。


マニュアルでは本質的な不安は解消されず、一時的対策は「入社後の大量退職」を引き起こす時限爆弾になるだけだ。



■義務教育によって頭脳に注入される社会主義的労働倫理


レーニンは「労働組合は、共産主義の学校である」と言った。社会のあらゆる場所に分裂を作り出し、それを煽動してブルジョア政府権力を打倒することを目指した共産主義は、男女、収入、地域、在日外国人など、破壊が図れる全ての分野に階級意識と分裂を招く嫉妬、憎悪を植え付けてきた。


こうした思想が、国民が最も深く関わっている雇用の分野から生まれたのは当然と言うべきで、ほどなく資本家と労働者の調和を破壊し、分裂を図るための組織である労働組合が発明された。


レーニンの「共産主義における『左翼』小児病」(国民文庫)には、組合に浸透して動機を偽装する技術や、どの団体とどういう前提で妥協できるか、すべきかを詳細に説明しており、私は本書で共産主義者の徹底した戦略と闘争心に改めて驚いたものだ。


また、岸信介首相も一読後に言葉を失ったという「大東亜戦争とスターリンの謀略(原題・戦争と共産主義)」(三田村武夫・自由選書)にも、尾崎秀実(ほつみ)をはじめとする共産主義者の鉄の規律について詳しく書かれており、私は、彼らはなんと勉強熱心で、計画的で、用意周到で、視野が広いのかと、初めて読んだ時はその内容が信じられないほど驚いたものだ。


今では柔軟な組合もあるが、発足当初は、組合とはこのように「資本家を打倒する」という目的を持つ組織であった。


組合とはつまり、「給料を払うのは会社だ」という大前提によって成り立つ組織であり、場合によっては、「給料を奪い取っているのは資本家で、我々はそれを奪うのではなく、取り戻すだけだ」と言うことさえある。まさに、マルクスの剰余価値説以外では説明しようがない発想だ。


わが国でよく議論される「会社は誰のものか」というテーマに対しても、ステークホルダー(利害関係者)という当たり前の概念は考慮されず、「従業員のものである」と言わなければ拝金主義者だと責められそうな空気が、二十一世紀の現代においても支配的である。


今でさえ、誰もが他人の顔色を気にしてお金に対する所信を述べないと、たちまち不安になるのを考えると、「働いている労働者が一番偉い」とする共産主義思想の浸透がいかに強力かを物語る事例だ。


中小企業の経営者団体の集まりでも、人格的な高潔さを表明したい場合は、「私はいかにお金にこだわっていないか」を枕詞のように語らなければならないことがある。「空気の研究」(山本七平・文春文庫)で指摘されたような無言の圧迫は、企業社会でもしばしば経験することだ。


しかし、一番偉いのは、言うまでもなく顧客である。会社は経営者の意思や従業員の努力以上に、顧客の承認と支持によって存続しているのだ。


「でも、会社や商品を作るのは創業者だ」などという屁理屈は無意味である。作っただけで存続する会社はないからだ。そんなことは、公務員以外には当たり前の事実だ。


株主がビジネスチャンスだと感じても、銀行が財務の安全性を確認しても、顧客が認めない会社は存続できない。そして、このルールはどの会社にも当てはまる。


そういう社会では、株主は経営者に感謝し、経営者も株主に感謝し、従業員はお客様と経営者に感謝し、経営者は従業員とお客様に感謝し、お客様は気に入った会社を購買を通じて応援すればよいだけのことである。


大体、「偉い」など、自分で言う言葉ではない。相手を偉くし、感謝するのがビジネスである。したがって、「会社は誰のものか」という議論など、最初から意味がない。「信じて応援してくれるお客様のもの」でよいではないか。


初心を忘れて分裂した議論は、その場限りではその問題が最重要課題であるように思えるが、社長も社員も「会社はお客のために存在する」という大前提を忘れているだけだ。


中学か高校の公民、政治経済の授業でも、「労働三権」なる法律が労働者の働く権利を保障しているのだ、と学んだことだろう。団結権、団体交渉権、団体争議権の三つがそれである。


憲法は労働者が不当な待遇に甘んじることを認めず、労働者は適正な給与を会社に請求してよく、そのために団結して争うことも場合によっては合法である、という「合法的恐喝術」が労働三権である。


「給料を払ってくれるのは会社だ」という思想なしには生まれないこの法律を、「稼ぎ方」を教えることはせずに、わざわざ義務教育で教えるのが、わが国の教育だ。


他にも、学生に聞いたことだが、今では「環境アセスメント」や「リコール(解職請求)」といった言葉も習うそうである。これでは、公民の教科書はまるで市民運動のマニュアルだ。


戦前、資本主義に不慣れな資本家や性格の悪い資本家が労働者を酷使した反省などもあるだろうし、そういう意味では労働者の権利を法律で保障することや、そうしていることを学校で教えることももちろん必要だが、必要以上に経営者や資本家を罵倒し、それを軍国主義や侵略戦争という問題にまで拡大して刷り込み、お金を蔑視する必要がどこにあるのか。

教員の政治的活動、思想的介入だと言われても弁解できまい。


不当労働条件の見直しや明らかに不公平な待遇については、労使双方で相談、協調して解決を図ることが適切だが、労働者の働く権利や働き甲斐とは、法律で保障しただけで充実するものだろうか。


法整備も重要だが、それほど「働く人を大切にする」と言うなら、なぜ伝統的で合理的な、働くことが楽しくなるような職業教育を行わないのか。


なぜ、働き甲斐とその成果を向上させるビジネス発想や会計を軽んじるのか。

なぜ、江戸時代以降の歴史の授業で、産業や経済の功労者を教えず、政治的に活躍した人物しか教えないのか。

なぜ、一揆を教えて石門心学を教えないのか。

なぜ、寛政、享保、天保の「金権腐敗是正改革」ばかり教えて、お金を善用する考え方を教えないのか。


権利だけを教え、それに頼れば安泰であるかのように教えるのは、明らかに片手落ちではないのか。自分の生活や仕事がいつ、どう良くなるのかが自分で分からず、設計できないような理念など教え込んで、一体どれほど価値があるのか。


国民を経済的無知、会計的未開のまま放置しておけば、確かに税金はたくさん取れて役人には非常に都合がいいだろうが、そのうち、日本経済全体が衰退したら、誰がどう責任を取るつもりなのだろうか。社会主義ほど労働者を虐待する思想があるだろうか。


仕事そのものの本質を教えずして、権利だけを教え込んでも、その権利は都合よく解釈されるだけだろう。公民の教科書を教えるくらいなら、私が福岡で学生たちと一緒に読んでいる「論語と算盤」(渋沢栄一・国書刊行会)や「人生と財産」でも読んだ方がどれだけましか分からない。


また、「青年の思索のために」、「都鄙問答」(石田梅岩・岩波文庫)も素晴らしい。「都鄙問答」が難しいのであれば、「清廉の経営」(由井常彦・日本経済新聞社)が良い。


江戸時代や明治期、戦前の人々がいかに仕事をまじめに、かつ合理的に考えていたかは、最近のベストセラーよりも、古い名作を読んだ方が理解できる場合も多く、これらの本を読んだ学生たちは、大学の就職説明会では飽き足らず、出席しなくなる。

そして、わが国の平均的知力が、戦前と比べて明らかに劣化していることを知る。


■「教育」という名の調教


「給料を払ってくれるのはお客だ」という単純な事実を教えれば、子供たちは自分たちの興味に従って社会や仕事を観察し、そこから導き出した将来像を進学先の選び方に当てはめて、受験勉強や大学での勉強に今以上の意欲を持つのではないだろうか。


初任給に数倍の差をつけ、学業とその成果の格差を認めれば、子供たちも熱心に学ぶのではないだろうか。高校、大学を偏差値で分けるなら、会社も差別待遇を用意した方がバランスが取れるのではないだろうか。


社会主義者は格差を作ることが「差別」で、埋めることが「平等」だと主張するが、長所の芽を潰し、短所を本人が努力する前に埋めてあげるような教育ほどの差別があるだろうか。


苦労によって人生の味わいを知り、失敗によって人の情けの有り難さを知る機会も与えず、中途半端な努力で仕上がった人生の試作品に対して、その本質から目を背けさせ、「あなたは正しい。悪いのは社会だ」と言って相手の努力を挫折させてしまうほどの虐待があるだろうか。


社会主義者ほど、その本質において差別を好み、格差を作り出し、人間性を尊重しない人々はいないというのが事実ではないだろうか。


豊かな将来の可能性を教えず、自分が実現できる職業上の選択肢を教えず、ただそれが義務だからと試験勉強や受験勉強を押し付け、偏差値の高い大学に入れば将来も保証されるのだと画一的に繰り返しても、そういう作業は教育の名を借りた拷問か調教でしかない。


また、生きるモデルや学ぶ手応えの存在しない教室は、監獄でしかない。偏差値の高さは確かに優秀さの証拠だろうが、偏差値しか将来の選択肢がないという事実は、無能さの証拠である。


中江藤樹は「それ学は、人に下ることを学ぶものなり」と言った。


自分が人より客観的に高い教育を受けたからと他人を見下し、自分は学ぶことは学び終えたのだと知的傲慢に陥り、過去によって将来を保証してもらおうとする態度のどこに「勉強」の姿があるのか。


本当の勉強とは、学べば学ぶほど分からないことが増え、若い人を尊重する気持ちが起こり、自然に人に対して頭が下がるようになるものなのだと、江戸時代の賢者は学問の結果からそのあり方を定義している。


藤樹の言葉だけが学問本来のあり方ではないだろうが、これほど現代人に猛省を要求する言葉も少ないと思うので、未熟な私も日々この言葉を鏡とし、学生たちとともに、「後輩のためにより良い教育環境を作ろうじゃないか」と日々の小さな勉強に励んでいるところだ。


社会に出たくない、働きたくない、人のために努力するのは損であるという結論に帰着する教育なら、何をどう教えても有害無益であることを、我々もそろそろ本気で反省すべきではなかろうか。


挫折や逆境に際して、教えを乞うべき先人を一人も心の中に持たず、安易に「うまくいかないのは、社会のせい」と考える社会人生活に突入していく子供たちを見るのは忍びないことだ。


社会とは、自分が働きかけてきた世間の集大成に他ならず、その社会が悪いと言うことは、自分が悪いと言うのと変わらない。


「社会が悪い」と責任を転嫁する社会主義者の甘言は、進学や就職という人生の岐路において耳障りの良い言葉で入り込んでくるので、注意することが必要だ。



■社会主義的価値観が引き起こす集団自殺


以上のように、根本的な人間尊重や職業に対する情熱、興味を無視していくら法律について教えても、本末転倒もいいところである。なぜ、税金を使った義務教育の現場においてまで、わが国の教員が旧ソ連の広告代理店となって、共産主義的労働倫理の注入に手を貸さねばならないのか。


これは、義務教育という名の洗脳教育だ。


今の学生が、学生運動にかぶれたかつての青年たちのような過激な主張をすることはまずないが、しかし、ソフトであれ、「給料を払ってくれるのは会社だ」と考えると、後々無用のストレスや苦労を抱え込むことになるので、私は日頃、学生たちに次のような話をして、給料の仕組みを知ってもらうことにしている。それは、「犬とダニ」の話である。



ダニは犬に寄生し、犬の血を吸って生きている。犬はそうしたダニを養うため、ダニが背中にくっついている間も、自分でエサを探し、体を維持しているのだが、ある日、体が大きくなったダニが、「おい、犬。最近、血が少なくなってきたぞ。もっと吸わせろ」と言ってきた。


犬としては、最近はエサも満足に取れず、自分の体力を維持するだけでも大変なので、「気持ちは分かるが、ちょっと待ってほしい」と断った。


しかし、犬の体はダニより格段に大きく、どう見ても血が足りないとは思えない。犬の答えを疑ったダニは、「じゃあ、いつからもっと吸わせてくれるのか?」と聞いてみたが、犬は「まず体力の衰えを克服してからだ」としか答えない。


ダニは不審に思い、犬が寝ている間に会議を開いて、「犬は血を隠しているに違いない」という結論に達した。翌日ダニたちは、犬に対して組合を結成して闘争を挑み、よってたかって大量の血を吸い、血を取り戻した。


犬は苦痛にもがき苦しみながら「待ってくれ…」と憐れみを乞うも、ダニたちは聞き入れようともせず、「我らの敵、資本家犬を打倒したぞ!血は我々のものだ!」と雄叫びを上げ、血に染まった口で笑いあった。

犬は大量の血を失い、その場に倒れこんだ数分後、息を引き取った。ダニたちは喝采し、犬が死んだのを笑顔で見届けた。


しかし、犬が死んだということは、血を供給する主体が消滅したということだと気付いたダニたちは、「おい、犬!目を覚ませ!」と叫んでみたが、時既に遅く、犬の体は冷たくなっていた。


ダニたちは犬という生活基盤を自ら破壊し、血を得られなくなる恐怖から仲間を殺して血を奪い合い、最後は犬の後を追うように死滅していった。共産主義に洗脳されたダニという未開人は、最後まで矛盾に気付かず、自分の頭脳に搾取されて滅びたのであった。


 これだけの単純な話である。


要するに「給料を払ってくれるのは会社だ」と考えている人間は、この「ダニ」と同じく、矛盾に気付かず、行動の方向性がずれていく可能性があるということだ。


人間をダニに例えるのは失礼だが、大自然の中には無知な人間に物事の本質を教えてくれる現象が無数に存在するので、実質において近いという性質から、私はあえて、ダニという嫌われやすい虫をモデルに「赤信号、みんなで渡ればみんな死ぬ」というシンプルな事実を説明している。


公務員が国家に寄生し、サラリーマンが会社に寄生して生きるのは何ら悪いことではない。人間そのものも、地球の寄生虫のようなものだから、どこに寄生しようが、社会や自然の恩恵の前にひれ伏し、謙虚に生きるのが賢明である。


犬が自分のエサをつかまえてこそ初めて生計が成り立つように、会社も他者の問題を解決しないことには、一次的な収益を得ることはできないのだから、もしダニが賢明であれば、ダニはダニなりに、犬の背中に乗っかって、「前方にエサ発見」、「右十メートル地点にエサ発見」などと言い、犬が疲れている間はマッサージをするなり、犬の行動特性やエサの出没パターンを分析して、より効率的な探し方、捕まえ方を提案し、犬と調和して働くようにすべきだろう。


「血は確かに犬が作ったものだが、その血は本来、犬ではなかった他の生き物から預かった有り難い資源である」という常識をわきまえているダニであれば、みすみす主人である犬を殺すような真似はしないはずだ。



■「入社」しても「仕事」をしていない人もいる


このように、会計が分からないダニは、固定資産が棚卸資産を生み、棚卸資産が当座資産を生み、当座資産で流動負債を返済するというキャッシュフローが読めないため、いつでも目の前の現象に即物的、感情的に反応して、テロリストや反逆者になる可能性を持っている。


つまり、公然とサボタージュを行う社員や、いきなり退職する社員になってしまう可能性を持っているということだ。


それはちょうど、旧社会保険庁の役人と考えると分かりやすいだろう。あの、史上稀に見る国家的パロディは、共産主義的価値観に洗脳された役人がダニと化した良い見本である。


安部政権の任期中に発覚したため、安部内閣の責任とされたが、根本的には職業倫理の問題である。同時期には中国の不良食品輸出問題やロシアのミサイル基地設置問題なども起こっていたが、ひとたび年金の問題が取り上げられると、参院選の争点は年金一色になってしまった。


三十一歳の私には、年金の重みを年配の方々ほどの切実さを持って考える素地があるわけではないが、それにしても、家の外で山火事が起こりつつある時に、家の中で忽然と姿を消したヘソクリの所在を巡って、自民党と民主党という両親が「おまえがなくしたんだろ!」、「いいえ、あなたが悪いんです!」と言い合っているようで、わが国の政治の限界を見た思いだった。


それと同時に、たった一つの議題で極端に左右にぶれるわが国の国民性も、全く変わっていないことを思い知った。


「愚民の上に悪政府あり」と福沢諭吉が指摘したように、政府を批判するのは我々の頭脳のレベルを批判することと同じなので、我々日本国民もより一層勉強に力を入れなければならないが、それにしても、ダニと化した国民を抱える国の政治家ほど大変な仕事はないだろうと、候補者の顔を見ながら思ったものであった。


 会計が分からない社員は、売上の増大なくして賃上げを求めてくる。


そうしてバイト代や給料を引き上げても、結局は上昇分が販売価格に転嫁されるか、仕入れ価格が引き下げられて取引先に損失を与えるかのどちらかとなり、顧客にはインフレを、仕入先にはデフレをもたらすことで目先の帳尻を合わせるほかなくなり、長期的に見て損失が大きくなる。


これを要するに、社員が経済や会計の仕組みを理解していないとは、まともな教育が行えないということであり、仕事ができないということでもある。


「入社して一応名刺は持っているが、仕事は何もしていない」。


これほどのリスクがあるだろうか。


どうせもうすぐ潰れるだろうから名前は覚えていないが、どこかの政党が、この夏の参議院選挙で、「最低賃金を千円に」などと言っていた。あれなども有権者を馬鹿にした話である。


しかし、有権者にも会計的未開人は多い。若き日、頭脳に刷り込まれた労働三権的な価値観をもって給料や年金をとらえられては、政治家や経営者はたまったものではない。


わが国はいつでも社会主義の脅威と隣り合わせである。社会に出ることが嫌になる学校教育とは、一体何なのか。働きたくないという結論に到達する職業教育とは、一体何なのか。


学校に実践的な会計を教える基盤がなく、その能力を持つ教員がほとんどいない以上、企業人がそれを教え、仕事とは何であるかを教えていく必要があろう。



■会計教育は最高の福利厚生


 以上見てきたように、「給料を払ってくれるのは、会社である」という前提で会社や仕事を捉えると、社員はその方向で会社の機嫌を取り、余計な努力ばかりに知恵を使うようになる。


つまり、社員は権力への隷従性を高め、奴隷的、官僚的になる。その方向でいくら工夫しても、根本となる前提は既に矛盾を起こしているのだから、努力は収益とは関係ない場合が多い。


いっぽう、「給料を払ってくれるのは、お客である」という前提を共有しておけば、社員はいかに若くても、あるいは経験が少なくても、その方向で組織のあり方や商品開発、営業、業務改善の工夫を行うようになる。


「給料を払ってくれるのは、会社だ」と考える社員が思いつくアイデアは、会社にとって何の役にも立たないが、「お客だ」と考える社員が思いつくアイデアは、すぐに使えるものではないにしても、検討してみる価値はあり、あとは経験やセンスの問題だという場合も多い。


未熟であれ、その方向で努力を重ねていけば、アイデアの命中精度は高まり、仕事の能率は目に見えて向上していくだろう。


要するに、会計をわきまえて働くと疲れにくくなるし、疲れに意味を見出せるようになる。また、異なった職種間に見えないつながりを発見することができるようになり、業務を相対的、長期的、循環的に観察しながら、自ら学習を重ねていくことができる。

そして、コミュニケーションの質とスピードが同時に向上する。


社会主義的社員の悩みは常にコストを生み、資本主義的社員の悩みは商品や収益につながる、と考えてよい。両者はともに「悩んでいる」と言うが、その悩みの性質や方向は全く別のものである。


社会主義的頭脳構造と会計が分かれば、社員の愚痴を社内のビジネスチャンスに変えることも可能である。企業における「人材の成長」とは、同一の作業を遂行するに当たり、投下資源を減らして、回収資源を増やせるようになることを言う。


口先だけで分かったようなことを言うようになったり、権威に服従して物分かりが良くなったりすることを言うのではない。


研修とは、このような前提での成長をもたらした時のみ研修といえるのであって、ただ業務を中断して勉強すれば良いのではない。仕事自体が研修だと思えるような楽しい勉強こそ、目指す社員教育のあり方ではないだろうか。


根本となる前提を同じ方向で分かち合えているかどうかは、それを無視して行われるいかなる場当たり的、一時的な対策より有益である。


もし、社員の動機付けやセールス研修、福利厚生制度といった様々な対策が、「給料の出所」の共有を忘れたところで行われているなら、それらは全て無意味な付け焼刃に過ぎない。社員が自分の頭で考え始めることはないからだ。


真に有益な研修とは、一度で本質を悟り、二度目からは更新を兼ねた復習ができる研修である。仕事の本質に触れ、自ら学び続ける研修である。人を育てるリーダーを育てる研修である。


仕事のやりがいと人生の生き甲斐を生み出す会計教育こそは、社宅や社員旅行、各種手当てに先立つ最高の福利厚生だろう。

今日もお読みいただき、ありがとうございます。

ただ今、教育・学校部門360位、就職・アルバイト部門268位です。

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