第3回 「働かざる者」とは誰か
■「働く」とは何か
日本人なら誰もが知る「働かざる者、食うべからず」という言葉が、社会主義国ソ連の建国者・レーニンの言葉であることはよく知られている。
正しくは、「働こうとしない者は、食べることさえしてはいけない」という聖パウロの言葉を引用したものであるということだが、このフレーズが日本社会に根付いたのは、ソ連の影響抜きには考えられないので、ここではレーニンの言葉として扱うことにする。宗教を否定する共産主義者が、なぜキリスト教の言葉を引用したかは問題としない。
レーニンはこの言葉によって労働者を煽動し、資本家を打倒せよと呼びかけたのだが、ここからマルクス、レーニン、および彼らの言葉を引用して意思表示の材料としてきた人々が、「働く」という行為を何だと考えていたか、あるいはどういう行為だと印象付けようとしたかがよく分かる。
他にも、「血と汗と涙」、「体が資本」、「人は能力に応じて働き、必要に応じて与えられる」などといった、共産主義的価値観やプロレタリア文学の思想を引き継ぐ言葉は枚挙に暇がないが、ここでは「働かざる者」について考える。
一体、「働く」とは何か。
働くとは、仕事を行うことであり、仕事とは「問題解決」を通じた社会貢献によって自己表現を行う継続的な営みである。
工事現場で汗水たらして動き回ること、オフィスで朝から夜までパソコンと向き合うこと、セールスマンとして毎日各地を飛び回り、商品説明や顧客フォローに明け暮れることなども、みなこの前提によって引き出される行為であって、視覚的に確認しやすい外見上の作業ではなく、本質的な目的や効用から判定すれば、仕事とはみな、このように組織的、継続的、発展的な問題解決行為であることが分かる。
そして、このような仕事を提供する主体が「企業」であり、企業を切り盛りする行為を「経営」と呼んでいる。
企業は、社会のある分野の問題解決に際して、「自分なら従来のものより有益な商材を提供できる」と判断した起業家が発起人となって結成した団体である。
企業は、提供すべき商品によって売上を確保するまでは、事業規模や開発期間に応じた予算を用意して、それによって従業員への支払いや経費の捻出を図り、俗にその元手を「資本金」と呼んでいる。
この資本金を、売上が立つまでうまく運用し、継続的な投資と回収、つまり経営を繰り返して事業が軌道に乗れば、めでたく売上によって存続することができるが、そこに行き着く前に倒産する企業も多い。私なども、二十六歳という世間知らずの年齢で起業したため、一年で四回も倒産スレスレの事態に遭遇した。
ところで、音楽が音を使って感動を表現する「音の芸術」、スポーツが肉体と精神の高いレベルの調和によって人間の可能性を表現する「体の芸術」、美術が色や線、空間を使って感動を表現する「色と空間の芸術」であるように、経営とは人材、物、資金、時間、情報という経営資源を用いて、それらが保有する可能性を表現する「可能性の芸術」である。
経営資源はそれぞれ一定の制約を受け、社内外で交換、増加、減少を繰り返しながら生成発展し、そのうち、自社の判断で自由に処分でき、換金価値のある財産を「資産」、一方、他者の資本を調達したり、他社に支払いを持ってもらっていたりする状態の義務財産を「負債」と呼ぶことは、商業高校に通う高校生でも知っている。
経営資源に制約があるということは、例えば人材の不足は設備の効率的な稼動によって、時間の不足は質の良い労働によって、相互に代替や補完を図る必要が生まれるということだ。
数学が苦手な生徒が、試験を前にして時間の制約から数学を諦め、英語によって代替、補完を図るのと同じことである。経営にも「人、物、金、情報、時間」という五教科に相当する資源があるから、その調和を図るために長所を生かすのは自然なことである。
資源は無限ではないことから、制約という条件をクリアするため、自由な発想が生まれる。企業は常に回収以下の投資によって、その時々の経営課題を解決しなければならない。
そして、投資と回収の差額、つまり「利益」を補強分野に投じ、経営力を強化していかなければならない。経営における資源配分は、最高や最大を基準とするのではなく、いつも最適、つまり「回収以下」を前提として行う必要が生じる。
普通の人にとっての「安い」とは、自分が知る平均的な相場より安いとか、割引されていて通常より安いという相対的な負担の低さを表すが、経営者にとっての「安い」とは、「投資以上の回収を生む」という基準による。
つまり、「お金を使ったら、お金が増えた」、「お金を使っても減らなかった」という買い物だけを「安い」と呼べる。だから、無駄遣いとは、価格の大きな物を買うことではなく、投資を回収しない資源を買うことである。
金持ちの「安い」と貧乏人の「安い」は、表面上は同じ言葉を使ってはいるが、その意味は全く異なる。
■「毎日一生懸命」は時として「怠け者」の証拠
さて、これを「働く」という行為に当てはめるとどうなるか。
経営を細分化すれば、各分野での個人の働きによって成り立っているのだから、経営と仕事が持つ価値基準は同じはずである。ならば、経営における投資と回収の関係から、「働くとは、同じ働き方をしなくてよい工夫を行うことだ」とは言えないだろうか。
時間や労力などの投下資源を減らして、同時に成果を増大させる営みを要約すれば、逆説的ではあるが、「働くとは、働かなくていいようにすることだ」ということになる。
この言葉だけでは、働くほど「不真面目」になるように感じるかもしれないが、そうではない。実は、節約と創造によってスピードと能率を上げることこそ最も「真面目」なのだ。
やや堅苦しく言えば、フランスの経済学者・セイが言った「起業家とは、生産性の低い状態にある資源を、生産性の高い場所に移動させる者のことだ」という言葉と同じ意味であり、要するに、生産性の低い自分を創造的に解雇していく営みが仕事の本質である。
例えば、営業における新規開拓なら、毎日テレアポや飛び込みに三時間をかけ、毎日五件の見込み客としか会えないのであれば、それは「まじめ」とはいえない。
企画において、資料収集や企画書作成にいつも一週間かかり、成果がそれほど変わらないのであれば、それもまじめとはいえない。
仕事以前に、受験勉強においても、毎日五時間勉強して、単語テストの成績が上がらないのであれば、それもまじめとはいえない。
しかし、会計的視点が欠如した人は、単なる人情をもって、これらの行為を「まじめ」と呼ぶ。その基準はきわめて精神主義的、抽象的だ。
投下時間の長さや練習、準備の過酷さをもって「まじめであるかどうか」を判定する素地は、中学、高校の部活動や受験勉強によって、社会人になるまでにもれなく教育されるようになっており、時として、スムーズに成果を上げる人よりも、結果は出なくてもまじめに頑張った子供の方が「いい子」だと褒められたりする。
このような褒め方も場合によっては必要だが、それも程度問題だ。あまりに結果を無視して褒め過ぎると、子供の思考が停止してしまうこともある。
最初は何をやっても要領が掴めず、資源を浪費してしまうことも多い。だが、疲れていることや長時間努力していることをもって、それだけで「自分は間違っていない」と考えるのは短絡的な発想である。
こういう「まじめさ」に従って働いている人に、「君は毎日一生懸命だから、給料を下げよう」とでも言えば、「何だと!毎日一生懸命働いている真面目なオレの給料を下げるとは、許せない!」と答えるのがオチだ。
理由は、こうした人々は、毎日汗水たらして、嫌なことにも耐えて一生懸命動いていることをもって、「働く」と見なしているからだ。
世に「頑張っているのに、なぜ給料が上がらないのか」と嘆く人は多い。しかしその答えは、「(下手に)頑張っているから、給料が上がらない」という場合も多い。
過度の苦労と疲労は自己正当化の原因になりやすい。それは、人々がよく、聞かれもしないのに睡眠時間の少なさや残業時間の多さを他人に語り、誇りたがることからもよく分かる。
そうした発言は、自分が希少性のある試練に耐え、人並み外れた苦労に直面していることをアピールして、無意識のうちに相手からの賛同や同情、評価を期待している場合が多い。
そこで「へえ、君って要領悪いんだね」とでも言えば、相手は逆上するだろう。しかし、大事なのは「何時間しか寝ていないか」ではなく、「起きている時間に何をやったか」である。
人は、辛いことをやっている時には、それが間違っているとは思いたくないものだ。また、見かけが必死な人に、面と向かって「それは間違っている」と言うのも、確かに難しい。せめて動機だけでも尊重して、「君の意欲は素晴らしい」とでも言ってやらなければ申し訳ないとは、誰もが感じることだろう。
しかし、それは怠慢よりはましだろうが、苦労と疲労は、価値ある困難な目標に向かっていることから生まれるのと同じく、「要領の悪さや実力不足から生まれることもある」と謙虚に受け止めた方がよい。
苦労も疲労もともに価値がある。しかし、本当の価値はその過程における学習と視野の広がりにある。ただ苦労していることだけをもって正しいとするのは、唯物的な発想だ。
経営や仕事においては、発展の基準は周囲の人々との調和と生産性の向上に置くのが適切ではないだろうか。主観的な辛さだけを基準にしたら、組織にはケンカが絶えなくなるだろう。
我々は、良心的であることと、理論的に正しいことは、必ずしも一致しないという事実を知る必要がある。
働くとは、思考放棄の作業ではなく、まじめとは、後先考えずに誠意を尽くすことではない。もちろん、熱意や継続、誠意の重要性は何をもってしても後回しにすべきではなく、それはそれで職業観を形成する大切な要素だが、会計的視点の欠如は無駄なストレスを生む。
のみならず、会計的視点が存在しない働き方、つまり財務諸表に対する無知は、仕事における成長を自覚できず、説明できず、いたずらに退屈さや不満をかき立てる要因ともなるのである。
「働く」とは、昨日は一時間かかった作業を、今日は質を下げずに五十五分で済ませる、ということだ。「まじめ」とは、昨日も今日も一時間かけることではなく、試行錯誤の結果として節約、創造した「五分」のことをいう。
ただ時間を減らすのは手抜きでしかないが、質を上げて時間を減らすのは、奨励すべき創造的怠慢である。
そうして希少性のある資源を節約し、新たな活動の余地を創造してこそ、初めて労力や時間の「利益」が生じるのであって、闇雲に動き回る働き方は、いかに表情が必死で汗を流していても、やはり「不真面目」である。
それは体が動いているだけで、頭は動いていないということでもある。
印象的な真面目さと実質的な真面目さの間には、時としてこうしたギャップが生じる。だが、マルクス直伝の「労働価値説」を信奉するわが国の多くの社会人は、投下時間や投下努力に価値があると信じて疑わない。
映画の宣伝でも、「構想五年」、「制作費一○○億」とでも聞けば、それだけで「じゃあ、絶対にいい作品だ」と考える人も多い。
ちなみに、公務員にも、共産主義的労働倫理の信奉者は多いのではないだろうか。でなければ、あれほど期限を引き延ばし、予算を使い切るような時代錯誤の発想ができるはずがない。難関と言われる公務員試験に、財務諸表のテストはないのだろうか。
わが国で最も頭が良いはずの人たちで構成される政府が、世界に冠たる借金を築き上げたことも、わが国のエリートが社会主義的価値観を信奉している何よりの証拠だ。
ここ数年で、すっかりわが国最大の課題として定着した「少子高齢化」の問題についても、確かに出生率が少ないことは大きな問題だが、その解決策として、マンパワー、つまり頭数ばかり揃えて補おうとする発想は、社会主義的とは言えないだろうか。
通常、経営資源が制約を受けると、生産性が向上するものである。人手が少なくなる問題は、経営ではなく政治で解決すべき問題ではあるが、一人一人の生産性を上げることは、政治や学校教育の力では難しい。経済教育や会計教育こそ、少子高齢化に対する、目立たないが有効な改善策ではないだろうか。
わが国はつい最近まで、国立大学を中心にマルクス経済学ばかり教えていて、ここまでの経済成長を達成したのだから、ここで「経済考古学」を教養課程に移してまともな経済学を学べば、まだまだ発展の余地はいくらでもあるはずだ。
■会計的無知は「体験万能」の唯物主義を呼び覚ます
およそ、仕事における本当の価値は節約時間や節約努力にあり、未だかつて、余計時間がかかるようになった、余計お金がかかるようになった、という新商品にお目にかかったことはない。
トヨタが「馬車」を作っても誰も買わないだろうし、松下電器が「川専用洗濯器具」を作っても誰も買わないだろう。そういう性質は問題解決、つまり資源の最適化には何ら貢献せず、生産性の低下や問題の複雑化しか生まないからだ。
価値、つまり収益は、いつも節約と創造から生まれる。
だが、時間がかからないこと、あるいはクールな表情で手際よく済ませることは、会計的視点が欠如した人々からは、往々にして「怠慢」、「手抜き」と見なされる。
会計的未開状態にある人、つまり、唯物的な指標に従って現象を認識する人は、時給や月給、あるいは残業代という投下時間や所要時間によって収入を測る思考基盤を持っているので、こうして矛盾した発想で苦しむのだろう。
したがって、会計が分かる人の仕事はスピードが上がり、完成度も高くなって、かつ、資源配分も最適化されて収益も上がるが、会計が分からない人は、熱意や努力を感傷的に解釈して単調に仕事に当てはめがちなので、能率も成果も上がらず、時間と労力を食う。そして、不振を環境や景気のせいにする。
会計という経営や仕事のルールが分からない人が、儲かっている人を疑い、嫌い、嫉妬し、「金持ちは悪いことをしている」という共産主義的価値観になびいていくのは、いたって自然なことである。
わが国には、要領は悪くても性格は良い人が多い。そうした人々が、頑張っても給料がそれほど上がらない現実の責任を転嫁して、「まじめな人は報われない」、「正直者はバカを見る」、「正しいのは貧者と弱者だけ」という自己正当化を図って自己満足に浸るのも、やむをえない。
会計が分からない人の頭の中には、固定資産や資本の欄が存在せず、仕事における本当の賢さが理解しにくいからだ。
だが、誰しも現実に対しては何らかの納得をしなければ生きていけない。そしてどうせなら、自分が傷付かない解釈ができれば都合がよい。そこで、可視現象や表情、投下時間で労働の価値と質を測定したがるのだ。
あるいは、金持ちやできる人の愚痴を言って願望との誤差を埋め合わせる。これなら、自分にとって都合の良い情報とだけ付き合えばよいので、手軽に自尊心を満たせる。
久しぶりに乗った体重計の針が、以前より五キロも多い数値を指しているのを見れば、本当は自分が太っただけなのに、「この体重計、壊れてる!」と反射的に感じる人も多いだろう。
ヒトラーは「人は気に入った情報しか信用しない」と言った。わが国の社会人にも、日々反射的に現実を処理し、自分の願望に合致する情報ばかり集めて、無意識のうちに自分の意見を作り上げていく人は多い。
確かに、強者や富者には正しくない人もいるだろう。しかし、だからといって弱者や貧者が正しいということにはならない。
成果が上げられない人は、往々にして最後は「人間性」という数値化できない砦に立てこもり、この一点においては自分は誰にも負けない、誰が何と言おうと自分は頑張っている、などと意地を張る。そして、ますます他人のアドバイスを受け入れなくなっていく。
このように、本質と関わらない嫉妬や反感によって組織が分裂すると、大事な課題に対して社員の団結が図りにくくなり、場合によっては深刻な対立や損失が生まれることになる。
分裂と嫉妬、憎悪は社会主義思想の種である。組織にこの思想の種が胚胎し、芽が出れば、その駆除は難しく、成長は速い。
意見の相違や失敗はどの組織にでも起こりうることであり、大事なのはそれを団結や改善のチャンスにできるかどうか、ということだ。そのためには会計的視点を全社的に共有し、部署別、世代別、業務別に相互理解と尊重を図る社風を作ることが欠かせない。
会計的真理とは所得や借金の額によって左右されるものではなく、社会的地位や苦労によって増減するものでもない。数字だからといって、それが合理的で非人間的な指標というわけではない。財務諸表は人間性の調和を数値化、図表化したものだ。
儲けていないことをもって自分は正しいと言いたがるのは、大抵の場合、ただの感傷主義か倒錯心理に過ぎないのではないだろうか。「貧困が人格の高さを証明する」と言う人は、もっと損をして今よりもっと正しい人間になるために努力すべきだ。
そういう人に、「あなたは正しい!悪いのは金持ちだ」という悪魔の誘惑をささやくのが社会主義である。人は窮地で自分を肯定してくれる人を疑うことがなかなかできない。そして、自分の哲学を持っていない人ほど、こういう時に甘言に乗せられやすい。
「あなたは正しい」。これほど恐ろしいささやきがあるだろうか。励ましの一方で、やはり短所や不足もきちんと教えてくれるのが、良い友人ではないだろうか。
■大学生でも理解できる「本当の仕事」の話
私は毎年、就職活動を控えた学生たちに、仕事における本当のまじめさと喜びについて考えてもらうため、次のような簡単な例え話を使って理想的な就職のあり方を説明している。
複雑な会計用語など一切用いる必要がなく、中学生でも分かるくらい簡単な言葉で仕事の本質を説明しているので、無用のストレスに悩む部下や同僚、あるいは新人社員、学生へのアドバイスに活用していただければ幸いである。
アリは毎日、暑い日も寒い日も、エサを見つけては巣に運ぶ作業を繰り返す。それに反して、キリギリスは怠け、後で損をしたという。
だから「アリのように、地道な努力をするのが大事ですよ」と教えるのが共産主義的教育だ。地道な努力と継続の価値は否定しないが、世の中にはアリとキリギリスしかいないのだろうか。
例えばクモはどうだろうか。クモは巣を持たないうちは、アリのように自分の努力でエサを探し、生活を成り立たせる。
しかし、クモはアリと違って創造的な怠け者であるため、「いつまでも自分でエサを探すのは嫌だ」と考える。だからクモは、アリが寝静まってからも、どこに虫が集まるか、どこなら雨風を凌げるか、どこなら巣が張りやすいかを注意深く観察し、日頃の仕事に加えて、巣の準備にも力を入れる。
生活のための仕事と財産のための仕事を並行する努力は並大抵のものではないが、クモは長期的視点を持って巣を建設し、徐々に巣が完成してからは、エサの捕獲という収入確保のための行為を巣に譲り、自分の経営資源を少しずつ「肉体」から「資産」に移転させていく。
結果的にはクモの労働、つまり「支払い」は完全に巣によって果たされるようになり、クモは「お金が増えるほど時間が空く」という生活を手に入れる。綿密なマーケティングと商品開発によって設計・建設された巣という固定資産は、日々多くの入居者を招き、クモはそのうち、アリの一日の収入以上の収穫を得るだろう。
空いた時間は次の巣の建設に充てるもよし、あるいはアリを雇って他にも適当な巣の建設場所を探させるもよし、である。
しかし、巣によって生活しているクモは、外見上は何もしていないように見えるため、アリの嫉妬や批判を受けやすい。アリは「クモはずるい」、「クモは怠け者だ」、つまり「クモは働いていない」と言うだろう。
自分とは違う考え方によって仕事をとらえ、自分とは違う収入形態を実現したクモを見て、会計を知らないアリは、ただ恨み、批判するだけである。
アリにとっては、まじめなつもりの自分がクモほど報われず、クモより苦労していることは受け入れがたい事実であるため、「クモは悪いことをしているのに違いない」、「儲けても、クモのようにはなりたくない」、「クモほど不真面目で世の中の害になる奴はいない」と考えて、不満と嫉妬に支配された日常を送るのは明らかである。
アリにとって、クモは「働かざる者」にしか見えないのである。そんな奴がのんびり食っていることは、許せないのだ。
一方、クモから見れば、毎日一生懸命で、夏も冬も休まず汗を流し、しかも毎年、同じ働き方を繰り返しているアリほど「不真面目」で「働いていない」人々はいない。
クモから見れば、アリこそは正真正銘の「働かざる者」である。しかし、会計的無能、つまり矛盾に鈍感であるアリには、クモの働き方や収入基盤の本質を見抜くことはできない。
そんなある日、強い台風と長雨で、路上のエサのほとんどが飛ばされ、流されてしまうという事態が発生し、アリ界に深刻な不況が起こった。いつもまじめに働いてきたつもりのアリは、自分たちに起こった災難が許せず、茫然自失の状態に陥った。
そんな時、レーニンというアリが登場し、アリたちが日頃抱いていたクモへの嫉妬や反感を喚起して、「おい、実はクモの野郎がエサを買い占めているらしいぞ!あの野郎は日頃ブラブラと巣の真ん中で寝ていながら、今回の台風でも被害を受けず、今ものうのうと暮らしていやがるらしい。働かざる者、食うべからず!クモを打倒して、奪われた食糧を我々プロレタリアートのもとに取り戻すのだ!」と叫んだ。
アリたちは自分たちの不満の原因がクモにあると教えられ、正しくは錯覚し、「働かざる者、食うべからず!」と口々に叫んで、クモの巣を襲撃し、クモを殺してしまった。
しかし、クモを殺した世の中はアリばかりとなり、会計的無能状態の者たちがいかに政府を作って政治の真似事をしてみても、到底うまく立ち行くものではなく、しかも、内心クモを認めていたアリたちも多くいたため、クモに変身したアリたちや、クモになりたいというアリたちの勢いを抑えきれず、アリ独裁国家は空しく崩壊してしまった。ロシア革命およびソ連とは、そういうものであった。
しかし、アリ独裁国家の東方に、資本主義経済がいまだ十分に浸透しない国があり、その国では、独裁国家が崩壊した後もレーニンの教えを守りながら、学校教育や仕事を行っているという。
親は「働かざる者、食うべからず」と教え、学校でも「汗水たらして毎日一生懸命なのが一番だ」と教え、頭脳に汗をかくことや、人の雇用を生み出す仕事は仕事と見なさない人々も多い。彼らの職業観は、純粋に可視的、つまり唯物的に視認できる「体の動かし方」や「熱心な姿勢」によるばかりで、中には働くこととお金を切り離すことが高尚だと考える人さえいる。
かの国では、どの学校を卒業しても「初任給」の額はそれほど変わらず、税金で建てられた国立大学では社会主義的価値観を注入し、終身雇用、年功序列、企業内労働組合という社会主義ギフトパックを「日本型資本主義」と呼び、腐敗官僚が跋扈したソ連や中国が羨むほど、官主主義が浸透した。
今は亡きレーニンも、まさか日本で自分の教えに忠実なアリたちが生まれるとは予想せず、さらにはレーニンの師であるマルクスも、自分が軽蔑したスラブ人の国や、人間とは認めなかったアジア人の国に自分の思想が普及するとは夢想だにしなかった。
共産主義は、未開地域と未開人の頭脳に熱病のように広がった伝染病であった。それは、お金と会計を理解しない人々の頭脳に、嫉妬という対価の代償として注入された疑似科学、ないしは幻想文学であった。
以上の内容を簡単に話すと、学生たちはアリとクモの働き方、双方の利点をすぐに理解して、「クモを目指してアリのように働きたい」と言う。その瞬間、悶々としていた将来像は晴れ始め、自らの目で、何が情報で何が情報でないかを判別できるようになる。
「働かざる者、食うべからず」は確かに真実ではある。生産者即消費者となるのが貨幣経済の特徴であるからには、社会問題の解決による報酬の獲得は、社会人の務めである。しかし、「働くとは何か」を理解しておかなければ、「働いても食えず」となりかねない。
「働く者」が食っていいなら、「仕事を作り出した人」も食っていいのは当たり前のことだ。
今、楽をしているように見える人の多くは、そうなる前に並々ならぬ努力をしているものだ。楽をしている人々を批判したいなら、せめて、真似できる能力を身に付けてからにしてはどうだろうか。世の中にはオリジナルより難しい真似もあるものだ。
マルクス、エンゲルスは「全ての価値は労働から生まれる」と言ったが、こんな理屈を信じるのは貨幣経済を体験したことがない人間だけだろう。「働く者が一番偉い」という思想は、顧客や経営者の存在を軽視している点で、結局は「働く者を一番大事にしない思想」とも言える。
そして、わが国にも今もってこのレベルで仕事を認識している若者が多い。会計的視点に根差した職業教育が、教育や仕事、産業、経済の底上げに必要だと提案するゆえんである。
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ただ今、教育・学校部門360位、就職・アルバイト部門268位です。
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