◆今日の一言
No.450(07/6/27)
『「幸せ」とは「仕合わせ」だ』
本をお買い上げ下さった皆様、本当にありがとうございます。続々と書評も寄せて
頂き、心から感謝しています。就活アンケートを送って下さった方も、お忙しい中
、ありがとうございます。
また、本をお送りしてまだお支払いになっていない方は、お早めにお願いしますね 。
それから、なかなかお渡しができない方は、日時を言っていただければお持ちするか郵送するかするので、どうぞお知らせ下さい。
記念すべき初版本の在庫は残り数十冊なので、追加でサイン本を希望される方は、
http://maiplacehp.web.fc2.com/book-2.html
からお申込下さい。
さて今日は、ここ数日、ずっと考えているテーマについて書いてみたいと思っています。
本メルマガはこれまで、一号で簡潔するエッセイを扱ってきましたが、最近は学生さんに、「次は何を書くんですか?」と聞かれることも多いので、今日はちょっと趣を変えて書いてみたいと思います。
それは、「愛、夢、幸せは人生の目標になるのか?」というテーマです。
Love、Dream、Happinessと英語で言えばかっこいい人生の目標は、果たして目標とする価値や意義があるのか、ということです。
自分でメモをつなぎ合わせた原稿があるので、今日は小見出しを付けて配信したいと思います。
今日は「僕」ではなく「私」でいきます。さて、どんな結論になるのやら…。
■人と仕事の最高の関わり方を求めて
自宅に八年間テレビがなく、子供の頃から芸能人にも全く興味がなく、ドラマすら一度も見たことがない…。
しかも、家庭では昔からクラシックやシャンソンが流れ、書斎には明治、大正時代や昭和初期の本がずらり…。
そんな時代錯誤の情報環境を保ったまま、蔵書六千冊の作家兼経営者になってしまった私にとって、日々接する現代の若者たちは、今の日本人が何を考えて生きているかを教えてくれる、有り難い先生でもあります。
FUN顧問の役割を務める傍ら、私は、このサークルを日本で最も①経済教育、②職業教育、③歴史教育の教材が充実した学びの場にすべく、これまで多くの文献 を購入、精読し、「人と仕事の最高の関わり方」を考えてきました。
FUNゼミはそんな私の研究発表の場でもあり、毎週の講義はそういう意味でも
非常にやりがいがあります。
人と仕事の関わり方に興味を持ち、私自身も転職や独立起業を経験して、
はや十年近くたちました。
この間、私は職業教育を自らのライフワークとしていく決意を少しずつ固め、「仕事という営み」に関係があり、私の興味を引く本であれば、古い作品であれ惜しまず購入し、
テーマを決めて読みふけってきました。
ある本は古代エジプトの分業制度を描き、ある本は中世ドイツの徒弟制度について語り、
またある本は、植民地となった東南アジアでの大規模農業について書いてありました。
そんな外国の事例も参考にしつつ、バリバリの資本主義の本を読んだ時もあれば、
今では時代遅れの共産主義の文献も読み漁り、雑多な知識体系が生まれ始めたのが、
私が会社を設立した二十六歳の頃でした。
また、わが国の文献では特に江戸時代について書かれた本を多く読み、
そのような知識の集積の一成果として、最近特に興味を惹かれるテーマが心に浮かんできました。
■戦後になって初めて登場した価値
それは、今では誰もが人生の目標、それも職業を通じて実現すべき価値ある目標として描いている「愛、夢、幸せ」などの要素が、歴史上、全くといっていいほど人生の目標や仕事のインセンティブ(動機、誘因)として登場しないことです。
それでは、昔の日本人は、何を目指し、何のために働いていたのか?気になるところです。
もちろん、江戸時代の人々にインセンティブがなかったわけではなく、職業を通じて成仏するという新概念を打ち出した鈴木正三の「農事即仏行」の思想や、商業の利益を理論的に正当化した石田梅岩の思想は、形を変えて現代にも名残を留めています。
彼らの思想は時代を超えて明治期の実業家に受け継がれ、戦後を代表する大実業家もこぞって石田梅岩の『都鄙問答』などを読んだのは、よく知られています。
『都鄙問答』のエッセンスを現代に甦らせようと書かれた「清廉の経営」(由井常彦・日本経済新聞社)は、去年のFUN Business Cafe(FUNの早朝読書会)でも読んだので、参加された方は覚えているでしょう。
ちなみに昨日、石田梅岩の一番弟子である手島堵庵(とあん)の著作を要約した「手島堵庵心学集」を読んでみたのですが、江戸時代の家庭教育や職業教育がいかに優れていたか、まざまざと見せ付けられました。
戦前に発行され、旧字体で古文、しかも「候文」で書いてありますが、
その言わんとするところは現代にも当てはまりすぎるくらい当てはまります。
創業者の伝記をいくらか読んだことがある人は、青年期に大志を抱き、巨大な成功を収めるも、慢心や失敗で思想的なよりどころを求めた実業家たちが、晩年、皆、驚くほど同じようなことを言っていることにびっくりしたはずです。
彼らの気付きは単純でした。
「仕事とは、自分のためではなく、人のために行う営みである」。
たったそれだけです。
正三や梅岩、堵庵の唱えた道理は、自己の利得や幸福の追求というより、
宗教的幸福や社会参加を積極的に肯定する理論と見た方が適切で、社会や家族、先祖との 関わりの自覚から自己の存在を肯定するという、静かで内省的な満足をもたらす価値基準です。
したがって、自己を前面に押し出す現代人の「愛、夢、幸せ」とは根本的に捉え方が異なると考えられます。
江戸時代の職業観は、もちろんそれを全員が心得ていたわけではないものの、
「他者への奉仕の中に自分を発見する」という考え方だと言えます。
私は不思議に思いました。
というのも、現代の日本では、例えば学生の中では「やりたいこと」があるかどうかが職業設計の大きな基準とされ、大人は「やりたいことをやって生きられればそれが一番幸せだ」と言うからです。
また、経営者も「人生は夢を叶えるためにある」と言い、夢や幸せは誰もその当否を疑うことすらない、人間が追求しうる最高価値とされているからです。
現代人にとって、仕事とはまずもって「自分がやりたいかどうか」によって把握 、理解、選択される事柄で、自分を幸せにするために行う持続的な行為だとされています。
これらの流行語は、つまり、仕事も人生も、「自分が満たされるため」の手段だと言っているようです。
有名な「マズローの欲求五段階説」でも、「自己実現」は人間の最高位の欲求とされており、人は衣食足りて収入も安定すると、社会や他者からの承認による自己の欲求充足や重要感を味わいたがる、とされているのはご存知の通りです。
しかし、欧米人が皆、自己実現を目指して生きているというのは、早合点か我々の希望的観測に過ぎず、マズローの理論が「自己実現」を最高位に位置づけたからと、
自己実現を最高価値だと見なすのもせっかちだと思います。
我々は高尚な理論を前にすると、その耳が痛いところは差し引いて、
都合のいい部分だけを輸入することもよくあります。
「欲求五段階説」についても、私達は「陰と陽」のうち、「陽=自己実現」だけを都合よく翻訳し、輸入したのではないでしょうか。
「公」を意識しすぎた戦時中の反省で、「公」とはともかく悪いものであり、
「個」や「自我」を全面に押し出すことが善だと錯覚したのではないでしょうか。
世界史を主導してきた欧米諸国のリーダーは、やはり高潔な人格の持ち主でもあり、
「自分、自分」と自己を前面に押し出すような人は、西洋でも決して歓迎されず、成功もしないはずです。
比較文化論とは、違いを探す以上に、共通点を探す点にも重点を置くべきだと思います。
同じお金を使って社会に必要な物資やサービスを提供する「仕事」が、
東洋と西洋で本質的にそれほど異なる理由があるでしょうか。
以下、ちょっと東西を比べて考えてみましょう。
欧米で爆発的なベストセラーとなったD・カーネギーの「How to win friends and influence people」は、わが国でも「人を動かす」というタイトルで大人気ですが、この説くところは、『論語』と全く同じです。
このカーネギーの導きで全米最高の保険セールスマンとなったフランク・べトガ ーの自伝的営業指南書である『私はどうして販売外交に成功したか』(ダイヤモンド社/絶版)は、職業教育の最高のテキストの一冊ですが、ここに説かれている職業倫理もまた、
「自分の利得を優先せず、人を思え」というものです。
目を転じて、わが国で伝説的な保険セールスマンとして今も崇められる故・原一平さんの著書である『外野ひとすじ』(保険毎日新聞社/絶版)は、FUNで営業職に就職する学生にはいつも勧めている本でもありますが、この本でもフランク・べトガーやカーネギーと全く同じことを説いています。
彼らの訳書はまだ、日本に存在していなかった時期にもかかわらず。
大成功を収めた人は、大成功を通じて最高の自己実現を達成したかのように思われがちですが、いざ当事者の声に耳を傾けてみると、驚くほど「自我」の要素が抑えられ、
信じられないほどの克己心と思いやりで職業上の成功を得たことは、これらの名著からも明らかです。
つまり、我々が「自己実現」と呼ぶところの結果は即、他者からの承認と直結し、
高度な社会貢献の評価(外部から)と自覚(内部から)によって確立するものです。
成功が、仮に「何かを得ること、達成すること」を意味するなら、それは自分から得ることはできず、すぐれて「与えたこと」の成果であるのは明白です。成功とは与えた成果なのです。
ちなみに、学生さんに本をプレゼントするとき、チャーチルの「人は得ることによって生活を作り、与えることによって人生を作る」という言葉を時々サインに添 えて書いているのは、仕事の本質をいつも覚えておいてほしいからです。
それを「自己実現」と翻訳したからには、「自己」を実現するようにしか聞こえませんが、そもそも、他者と切り離した自己など存在しません。
つまり、言葉が「自己実現」だからといって、私たちは自己だけを実現できるわけではないのです。それはあたかも、道路がなければ自転車が進まないのと同じです。
マズローがどのような人だったかは詳しく知りませんが、彼の本意を汲み取るためにも、最高位の欲求は「社会貢献と承認を通じての自己実現」と訳した方がよかったのではないか、と私は考えています。
高度成長期に、「自己実現とは、他者の夢の実現の総和である」という徳目が普及していれば、どれだけわが国の職業教育や学校教育に良い影響があったことでしょうか。
欧米コンプレックスのためか、あるいは我欲を肯定したい欲求からかは分かりませんが、「人間の最高目標は自己実現、すなわち夢の達成だ」と誤訳したことにより、
どれだけ「成功」の説明が煩雑になり、実現が難しくなったことでしょう。
多くの社会人や若者は、「仕事における成功」を「我欲への執着」、「自己の利得の優先」と勘違いし、成功できなかった腹いせに成功者や金持ちを恨むという悪循環を起こしているのは、周知の事実です。
自己は「実現するもの」ではなく、「実現させてもらうもの」であり、
それは他者の自己実現を応援することによって受け取る様々な報酬の成果です。
それを、「自力で自分の夢を達成するのが自己実現だ」と誤解するようになったから、
似通った自己啓発書が書店に溢れかえるようになったのではないでしょうか。
私は依存や甘えもまた、「将来の恩返し」というインセンティブに転化させられるなら、積極的な関わりの一環だと考えています。
ストイックになるのは結構ですが、そうならなくていいところでストイックになり、
奉仕すべきところで奉仕を欠いているのなら、それは、社会生活が苦しくなって当然でしょう。なんだか私達は、仕事や社会と向き合う前に、壮大な矛盾を犯しているようでもあります。
アメリカ人なら誰もが知り、アメリカ人が学ぶ英語の基本文法の根幹を成すほど普及している「貧しきリチャードの暦」は、日本では「フランクリン自伝」(岩波文庫)として発刊されています。
また、欧米人の職業倫理に多大な影響を及ぼした「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(マックス・ウェーバー/岩波文庫)は、ルターの宗教改革がもたらした職業観の抜本的改革がいかに産業革命を推進させたか、詳しく説明しています。
「フランクリン自伝」と「プロテスタンティズム~」はともに欧米人の職業観を知る良いテキストであり、自己実現の教材としても適当で、就活の参考書としてもオススメですが、これらの本でも一貫して説かれているのは、「他者への思いやり」、「没我の奉仕」、「宗教的自己完成」といった徳目です。
欧米人は必ずしも自己実現を最高位の目標としているわけではありません。
また、洋の東西を問わず、強欲な人や自己中心的な人がいるのは当たり前のことで、
文化的な特徴はあるかもしれませんが、それが本質的な差ということもありません。
西洋の本で、完成された個人は、社会奉仕を通じて自己の喜びを達成するという、
高い職業倫理が切々と説かれているのを知れば、マスコミが振りまいた「欧米は個人主義、日本は集団主義」という一面的解釈から脱することができ、もう少し、人間を素直に見られるようになるのではないでしょうか。
前述の「私はどうして販売外交に成功したか」は、FUNでは特に人気がある名著であり、ブックオフで見つけた人は、その日に徹夜して読むほど感動的な作品です。
その著者・べトガーが終生「師」と仰ぎ、生涯にわたってその徳目を反復し続けた相手こそ、「貧しきリチャードの暦」の著者であり、政治家、科学者、実業家でもあった
ベンジャミン・フランクリンであったことを考えると、欧米人の職業観にも「他者への奉仕」という一貫した思想が流れていることがはっきりと窺えます。
■日本における「幸せ」の変遷
さて、視点を変えて日本を見てみましょう。
人は誰でも自分の人生を思いのままに経営することを望み、幸せとは
「自分が思い描いたことをどれだけ思い通りに成し遂げたか」で決まるものである。
現代人の職業観の根底に流れる思想は、こういったところでしょう。
その誘因が「夢」と言われ、結果が「幸せ」と言われているわけです。
「だが、そんなに大事(とされている)な夢や幸せが、たった七、八十年をさかのぼってみれば、人生設計の基準とすらされていないのは、いかにその間に敗戦による精神的ショックがあったとはいえ、あまりにおかしいのではないか…」。
私はそのような興味を持ち、明治期や江戸時代の人々が持っていた職業観をさらに詳しく調べてみました。
といっても、江戸時代の職業観について詳しく書かれた本があるわけでもないので、
私が読んだのは、商業思想史や江戸の経済システム、農業、手工業などの本や、
私塾を開いた学者や各時代の思想家の本などです。
そのような本に散見された「働くこと」とは、まず何より「成人の務め」であり、
家族への恩返しであり、義務でした。それはあまりに素朴で、素直で、高潔なものでした。
フランクリンやマックス・ウェーバー、フランク・べトガー、カーネギーと全く同じことが、わが国ではそれよりもっと早く説かれていたわけです。
こう書くと、「江戸時代は鎖国だし、士農工商の身分制度があった。職業選択の自由もなかったし、そもそも、自由や権利という概念がない時代の職業観と現代日本の職業観を比べるのはおかしい」と思われるかもしれません。
ここで再度考えたいのですが、自己実現は社会奉仕より高等な目標なのでしょうか。
それに、二つはそもそも、対立する要素なのでしょうか。
職業は社会を形作る根底の営みであり、職業なくして健全な社会や経済を築くのは不可能です。つまり、職業は第一義的に、社会問題の解決、つまり「奉仕」の性質をもって成り立っています。
自己実現以前に、理想とする社会を個々の持ち場で実現させるための営みが職業なのです。
そして、「実現された自己」とは、自分が望む自己を自力で達成することではなく、
自分が大切だと思う共同体に承認され、感謝されることによって認識される要素です。
あるいは、「自分は社会に良い影響を及ぼしている」という確信や、
「生かされている」という感謝に従って働く過程そのものが、不断の自己実現だったとも言えます。
過程や手段として位置付けられたと見てもよく、では、何の手段なのかというと、「社会奉仕の手段」です。
職業とは、そういう社会と自分との関わり方そのものであり、現代のように自己実現の手段であるよりは、職業そのものが実現された自己だったとも考えられます。
よって、当時の若者の悩みは、「どういう自己実現をするか」ではなく、
「社会貢献と自己実現をどう一致させるか」ではなかったかと、私は今のところ、考えています。
全体がそうだと言うつもりはもちろんありませんが、現代人が「仕事を通じて理想の自分になる」と考えるなら、江戸時代の人々は一段レベルが高く、「理想の自分になることで、人々のお役に立つ」と考えており、このような意識の差を分ける要因が「公の存在」や「相手の存在」であることは、誰しも見当が付くことでしょう。
当時の人々にいかに「公」の意識が根付いていたかは、石田梅岩の「都鄙問答」と同じく、「手島堵庵心学集」からも鮮明に伝わってきました。
現代の私たちは、「奉仕」とか「義務」と聞くと、途端に「押し付け」、「退屈」という顔をしますが、そもそも、奉仕対象たる国家や社会への愛情がないから奉仕が無駄に思えるのであって、奉仕自体の素晴らしさは時代が変わっても何ら変わることはありません。
奉仕対象、つまり問題解決を通じて応援する相手を想定しない就職活動は、活動ですらありません。
私は毎年、自分の条件の充足しか考えず、小手先の対策を繰り返す学生に向って
「就活ごっこをしないよう、注意しよう」と呼びかけていますが、要するに、
「チェーンが外れたまま自転車をこがないようにしよう」と言っているわけです。
若者には、「見知らぬ人のために自分の人生の貴重な時間を使うのは嫌だ」と考える人も多くいますが、本当に無駄なのは誰からも求められず、認められず、自分だけの欲求に従って「自分しか嬉しくない時間」を過ごすことです。
自分しか嬉しくない時間とは、自分の問題しか解決していない時間と言い換えてもよく、つまり、「誰の役にも立っていない時間」です。
要するに「自分の幸せ」が至上目標である人生は、最も不幸な人生とも言えるわけです。自己実現は大事ですが、自己しか実現できないような人生は、とりもなおさず「失敗」だと言ってよいでしょう。
職業の一次的存在理由である「奉仕の側面」を忘れれば、仕事はこうして、
片手落ちとなった単なる「自己実現手段」に格下げされ、当然、やりがいの判定は全て自分の実感に頼るほかなくなります。
人の喜びの中に自己の存在意義を見出すか、それとも、自分の喜びの増大だけを求め、
自己の利得を優先して生きるか。
「損」なのは、自分の幸せを優先する生き方であるのは明白です。
古い本で「幸せ」と書いてある稀な例もありますが、それは「幸せ」ではなく「仕合わせ」と表記されてあり、そこには他者やあるいは何らかの出来事といった、自分以外の何かの存在が前提されています。
英語の「happen」の訳語として登場した「仕合わせる(起こる)」が、
「幸せである」と訳された「happy」と同根の由来を持っているのも、興味深い事実です。
私は言語学者ではありませんが、ぷち外国語マニアなので、「仕合わせる」という訳が好きだし、人生における「幸せ」も、この考え方でなければ得られないと考えています。
堵庵の「心学集」には、人生で起こることは皆縁によるもので、
それゆえ、「とと様」、「かか様」への感謝を片時も忘れてはならず、「じじ様」、「ばば様」にはより一層の尊敬をもって仕え、「おおじじ様」、「おおばば様」を供養する気持ちを忘れた人間は犬畜生にも劣る、と繰り返し説かれています。
「天国に一人でいること。私にとってこれ以上の苦痛はないだろう」とはゲーテの言葉ですが、こういう発想を考えてみても、人は一人で「仕合わせる」ことはできず、幸せとは常に誰かと、何かと「仕合わせる」ことだと考えられます。
その「誰」や「何」を考え、その実現のために自分を完成させる手段が職業で、
その関わり方を考え始める活動こそ、理想的かつ現実的な就職活動だと言えるでしょう。
職業とはつまり「人との仕合わせ方」の表現形式であり、その相互の化学反応が「幸せ」だというわけです。
■仕事とは「他人のやりたいこと」だ
以上、仕事の本質を考えれば、仕事の最高の目標と報酬は「関わる人々の幸せ」です。
というより、相手の喜びを想定しない営みは仕事ではありません。
私達は、経営者、公務員、サラリーマンと活躍の場は違っても、みな、
幸せな社会の実現に奉仕しているのであって、自己実現のためだけに生きているのではないし、生きられるものでもありません。
私達は、いかに響きが良くても、他人や相手の存在を忘れて、愛、夢、幸せというような、実体のない抽象概念に奉仕することはできないのです。
むしろ、そういう概念は、奉仕対象を設定せず、自分の能力にも自信がなく、
人から与えられた借り物の流行語に身を任せて「思考したふり」をしている人が口にする場合が多く、とらえどころがないだけに始め方も終わり方も分からず、
いつも不安と迷いが消えなくなるだけなのではないでしょうか。
夢や幸せという意味不明な言葉を信仰対象として生きるよりも、
身近な人の笑顔を描いて頑張っても良さそうなものですが、実力がない人ほど素朴な徳目を嫌い、外見だけきらびやかで実質が伴わないビジョンを描きたがるものです。
そういう、掲げておけばどうにでも解釈できて、如何様にでも現実を正当化できる便利な尺度は、いずれ自分を孤独、挫折、不幸に追い込むだけです。
奉仕の精神で捉えれば、仕事とは「自分がやりたいこと」ではなく「他人がやりたいこと」であり、重要な指標は「自分が楽しめること」ではなく「相手を楽しませること」です。
こう考えることにより、相手の喜びによって自己の貢献を確認する、つまり、
「利他を通じて利己を成す」という彼我一体の満足に到達することができます。
平和以上に価値あるものが存在しない国では平和が最高価値になり、
命をかけて守るものがない国では命が最高価値になるように、私達は平和や命が一番大切だと分かったような顔をして言っていますが、それはそう言っておかねば自己の言動を正当化できない人種が多いためであり、多くは「ためにする言論」です。
では、仕事はどうか。 こちらもやはり、自分の夢以上に価値ある目標が存在しない時、「夢」や「やりたいこと」といった下位の指標が人生の最高価値となるのです。
なりたい自分を描くことは否定しませんが、ただそれだけを目指して生きるならただの子供であり、社会人なら、自己の職業が及ぼす貢献に誇りを持てるような職業観を持って生きるべきだ、というのが私の現在の意見です。
「自分の夢に執着し続けてきたのに、就活で挫折した」という若者もいますが、それは当たり前です。そんな利己主義者にカネを払って仕事を任せるお人好しな経営者はいません。
もちろん、「やりたいこと」、「夢」、「幸せ」という言葉自体が全面的に悪いのではなく、問題はその言葉の使い方や位置づけ方にあるのは、言うまでもありません。
同じような言葉を使っていても、それを仕事の本質を弁えた上で使っているか、
それとも自己を肥大させる虚飾装置として使っているか、それが大事だということです。
仕事の本質を弁えないなら、「夢」と名づけた「夢に似たもの」を追うことになり、
将来どこかで、「あぁ、チェーンが外れていたなんて」と気づくことにもなりかねません。
そういう人たちを、今では「ニート」とか「フリーター」と呼んでいます。
就職で迷いが取れるのは、自分の出した条件が満たされるときではなく、
関わる人々を喜ばせることへの希望を信じられたときでしょう。
自分を忘れ、お客様や仲間のために尽くして働いている人は、年齢によらず、いい顔をしていると感じます。
「神をすら忘れたところに、本当の神がいました」とはエックハルトの言葉ですが、
仕事に本気で没頭してみれば、「やりたいことをすら忘れたところに、本当にやりたいことがありました」
という気付きも成り立つのではないでしょうか。
江戸時代の文献に幸せや夢という言葉は登場せず、それに類する言い回しもほとんど見かけませんが、当時の人々は先祖への感謝や親孝行、子育てなど、人としての全ての営みを「仕事」と考えていたのではないか、と推測しています。
つまり、家庭も会社と同等かそれ以上に重要な社会の構成要素で、経済効果だけを基準に「企業、家計、政府」と区分し、経済的貢献を行っていない家計を除外する現代の経済学者より、「鎖国」とされた江戸時代の学者の方が、はるかに大きく本質的なスケールで人間社会を観察していたことになります。
「社会」とは、現代では「経済主体の結合体」を意味するかのように矮小化されてしまいましたが、本当は文化や伝統、政治、教育など全てを含んだ営みの集合体であることが、江戸時代の文献から分かるのは、なんと皮肉なことでしょうか。
現代人は教育のおかげで利己主義的になり、卑屈になり、知的退化を起こしてしまったのではないか。そんな実感があります。
この点、現代日本に多く存在する、「主婦」を社会進出と見なさず、主婦を見て「女性の社会進出を!」
などと支離滅裂な発言をして恥じない人々にも、ぜひ、江戸時代の「進んだ家庭教育」を見習ってほしいものだと感じます。
「カネを生んでいるかどうか」だけを仕事の定義とするのは不遜な捉え方で、
「ジェンダーフリー」などと唱える人たちは、原始人並みの知性しかないのではないか、
とさえ感じます。いや、原始人も狩猟では仲間を思っていましたから、原始人以下かもしれません。
我々は「カネ」にだけこだわらず、職業の及ぼす社会的な波及効果、職業がもたらす喜びや成長、職業が実現する豊かな社会など、見えない関わりを見抜く勉強に力を入れるべきではないでしょうか。
単純化はしませんが、昔の日本人にとっての職業とは、個人の願望実現という要素を二次的な位置に押し留め、まずは家族や地域、社会、国家への務めを果たすという厳粛な営みとして捉えられていたのではないでしょうか。
それはすぐれて「神聖な営み」だったのではないでしょうか。
世界が認め、尊敬する日本人の職業倫理や職人技術のほとんどは、その源流を鎌倉時代や江戸時代に求めることができます。
戦後はハイテクや精密機械工業は発展したものの、
日本人の働き方が人間としての幸せや理想的な社会の実現に寄与しているという声は聞きません。
つまり、自己実現を最高の目標と見なし始めた戦後から、日本人は仕事で尊敬さ
れることが少なくなったとも考えられます。
自己実現のとらえ方を間違ったばかりに、我々は自己さえ実現できなくなったのなら、
なんと皮肉な「意識の誤訳」と言うべきでしょうか。
輸入概念の誤訳という「味覚障害」を犯し、都合のいい言葉で人生を装飾するようになって、我々は実は、不幸になったのではないか。仕事を通じて実現する幸せの本質とは何なのか…。
これから色々と考えていきたいテーマです。
今回は私の仮説について書きました。質問や意見も多々あると思うので、また、
この続きを考えていきます。
今日もお読みいただき、ありがとうございます。
ただ今、教育・学校部門216位、就職・アルバイト部門138位です。
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