◆今日の一言
No.430(07/4/23)
『モノが豊かになったことと、心が貧しくなったことは、関係がない』





デビュー作『イマドキの若いモンは 会社の宝だ!』を脱稿し、最近は二作目の『初心者のための 激辛!韓国語塾』と三作目の『時代錯誤の「就職ごっこ」』の執筆に取り組んでいます。


執筆に当たり、今まで作ってきたレジュメや資料、メモを整理し、論点をまとめながら、関連図書を読みふけり、ここ2日はメルマガをお休みしていました。


『時代錯誤の「就職ごっこ」』は、FUNで毎年人気の「マネー塾」を大幅に加筆・修正して、若者の就職事情の観察も含めて綴る作品です。



若者の職業観の阻害要因となっている社会主義的価値観について、週末もまた文献を購入して読み漁り、「お金は悪い」という偏見がいかにして日本社会に根付いたのか、日本人の書いた本を読んでみました。


何事も先入観や憶測で断じたくはないので、賛同も批判も正確な資料を読んでから、という姿勢を保ちたいと思っています。


そんな理由から週末に読んだのは、「社会主義真髄」(岩波文庫)です。大逆事件で逮捕・処刑された幸徳秋水の著作で、資本家や経営者に対する怨嗟に満ちた過激な表現に、ページを開くごとに驚きを隠せませんでした。



さて、現代の日本人を含め、戦後の日本人の精神的衰弱ぶりを表すのに、よく用いられる言葉があります。


「モノが豊かになって、心が貧しくなった」と。


気に留めずに聞き流せば、さももっともらしく聞こえる言葉です。


しかし、よく考えれば何の関係もない二つの事実を勝手に結びつけただけの、支離滅裂、意味不明な言葉です。



「モノが豊かになった」とは、戦前の社会や戦時中、あるいは敗戦直後の極度の物資欠乏時代と比較した戦後の経済社会を描写した言葉でしょう。


なるほど。


物資の充実度から言えば、戦前と戦後では全く別の国になってしまったといえるほど、全てが溢れ、満ち足りすぎた社会になったのは間違いありません。



「心が貧しくなった」とは、昔は全ての物資に希少性があったため、誰もが一つ一つの機械や道具を大事にし、ちょっと壊れたくらいで捨てたりせず、何度も修理し、古くなっても文句を言わずに使ったものだ、という時代の精神を失ったと言っているのでしょう。


国民の精神が貧弱になる現象は、拝金、拝物を善とする資本主義社会の代償だ…と言わんばかりの意見です。


しかし、「モノが溢れて、心は貧しく」というのは、やはりどう考えても成り立たない理屈です。



試みに考えてみたいのですが、ならば、モノが欠乏していた方が、人の心は豊かさを保ちやすくなるのでしょうか。


物資や給料が不足していたほうが、人々は資源を分かち合い、自分の身の程に満足し、多くを求めようともせず、今あるものを大切に使おうとするのでしょうか。


どう考えても、そんなことはありえないでしょう。



百道浜にある福岡市総合図書館の2階の奥には、「新聞の縮刷版」が置いてあり、明治時代からの新聞をそのままの文字、レイアウトで閲覧することができます。


時代考証や事実確認のため、僕は昔からよく利用するコーナーです。


そこで終戦直後の新聞を読んでみれば、米を強奪しようとしてある家族を殺害したり、自転車を盗もうと販売店の店主を殺害したり、現代の不良が青ざめるほど凶悪な少年強盗団の犯行が行われたりと、殺伐とした世相の一面を窺うことができます。



戦後、食糧や物資が溢れたため、ありがたみを感じにくくなったことはあるにしても、現代の我々が「そんなモノのために、人を殺し、傷つけるのか?」と驚くほど悲劇的な事件が、終戦直後は今よりもっと頻繁に起こっていたことは、縮刷版を見る限り、間違いのない事実だと分かります。


「モノが豊かになればありがたみを失いやすくなるが、モノが欠乏している方が、人々の心は荒んでくる」。


こう考えた方が、人間心理や社会情勢をより現実的に把握できるとはいえないでしょうか。



僕はマレーシアで働いた経験がありますが、そこでは日本では数百円で買えるようなモノを、学校に行けない子供たちが盗んでいました。


東南アジアは「盗難アジア」と揶揄されるほどでした。


しかし、旅行でこの地を訪れた日本人は、お決まりのように「生活は辛くても、子供たちの目は輝いていた」という感想をもらします。まったく、アホな所感というほかありません。



それは自分が「客」だからで、僕の場合は、一緒に働き、生活してみれば、外国人と暮らすのが日本人にとっていかにストレスを伴うか、予想を超えるものがありました。


相手がカネを払ってくれる「客」なら、それが日本人であろうとアフリカ人であろうとインド人であろうと、大事にするに決まっているではありませんか。


また、売る側がタイ人であろうとフィリピン人であろうとインドネシア人であろうと、笑顔で売るに決まっているではありませんか。


観光や留学といったリスクの伴わない動機で訪れた国で買い物をし、観光地を訪れて、「○○国の人は、みな言い人だった」と述懐するのは、まったく意味不明の感想です。



僕の場合でいえば、小さいとはいえ日本の建材商社相手に売り込み、他を押しのけてでも契約を結ぼうとする中国系、インド系、マレー系の争いはすさまじいもので、お互いに民族差別とも言えるような罵詈雑言を浴びせあい、「やれやれ」と思うこともありました。


「インド人は自分勝手な理屈を並べ立て、人の話を聞かない」。
「中国人は傲慢で相手を尊重せず、カネのことしか考えていない」。
「マレー人は怠け者で約束を守らず、仕事では当てにできない」。


各民族は異民族に対してそのような評価を下していましたが、それぞれ一理あるかもしれないなと、営業を受けながら感じたものです。



また、「日本人はお人よしで信用できるが、消極的で話が退屈だ」といった評判も、同時に理解できるものだと感じました。


マレー人と同じ家で一年暮らした感想としては、優しさや異文化の面白さを経験できたのとは別に、彼らの怠慢ぶり、約束のルーズさ、金銭感覚の貧しさには、何度驚いたことか分かりません。


「モノが貧しければ、心も堕落する」。それが海外勤務を終えての素直な実感でした。





孟子が「恒産なくして恒心なし」(安定した経済力が伴わないと安定した精神は保てない)と言ったように、やはり、モノが欠乏すると人々の心は安定を失い、心理的にも荒廃しやすくなって犯罪が起きやすくなるというのは、時代や民族を問わない事実だと考えられます。


それは、マレー人が劣っているからではなく、フィリピン人が無教育の民族だからでもありません。


ある経済状態におかれれば、どの民族でもそうなる可能性を秘めている、というだけのことです。



こう考えてくると、「心が貧しくなる」という結果を導くのに、「モノが豊かになる」という原因だけは、どうしても当てはまらないと思えてきます。


それを「モノが豊かになって、心は貧しくなった」と言い、考えて、全く疑おうとしない現代日本人の頭脳構造というのは、一体どういう理屈に基づいているのか、ますます興味が湧いてきます。


多くを持ち、欲しかったものを手に入れやすくなったことで、対象に対する希少性や残存価値を認めにくくなるのは、個人の資質の反映に過ぎず、モノを大切にする人は時代背景や経済力に関わらずそうする、と考えた方が適切とはいえないでしょうか。



昔の人がモノを大切にしたのは、それが一つしかなかったからです。


確かに、江戸や明治の教育の影響があって、モノを大事にしようという動機付けが僕たちの時代よりも強かったことはあるでしょう。


しかし、一つしかないモノを大切にするのは、人間の意思の表れと言う以前に、物的強制の成果だとも考えられます。



一つしかないなら、それを失わないような工夫、長持ちするような工夫は誰もが考えることでしょう。


例えば、イマドキの女子高生だって、一つしか持てず割合高価な「携帯電話」にシールを貼ったり、飾りをつけたりして、いかにそれを大事にしているかを表現しています。


電池がなくなれば、すぐに機種ごと買い換えるのではなく、まず電池パックだけを取り替えたり、修理に出したり、色々な工夫をするものです。



しかし、あと20~30年もすれば、携帯電話もまた「ありふれすぎたモノ」になり、もしかしたら「使い捨て」になっているかもしれません。


今の女子高生たちも、その頃は確実に「おばさん」になっており、携帯電話を湯水のごとく使いまくる未来の女子高生、女子大生を見て、「あたしらの頃はね、ケータイにシールを貼ったり、修理したりして大事したもんだよ!」と文句の一つも言うかもしれません。


紙、鉛筆、食糧、テレビ、カメラ、携帯電話…。時代の象徴は移り変わっても、そこに働く経済原理は変わりません。



廉価で大量生産が可能になれば、人々はそれに応じた使い方を勝手に考えるもので、高いモノ、貴重なモノを無駄にする人は、現代でも少ないものです。


モノの使い方には「所有」と「利用(消耗)」の二種類があり、表面的な使い方が変わったからといって、別にそれは「大切にしていない」ということではありません。


「所有せねば享受できなかった効用が、経費を払うだけで享受できるようになる」。


これこそ「資源節約」の成果であり、よくよく会計的構造を考えてみれば、「モノを無駄にしている」と思える現象の方が、かえって実質的には「モノを大切にしている」であることも多いものです。



鉄でしか作れなかったモノが、プラスチックで作れるようになる。

大量のエネルギーを要していた過程が、省エネで実現できるようになる。


1万円かかっていたものが、100円で買えるようになる。

5時間かかっていたことが、1時間で済むようになる。

大変だった作業が、楽で簡素になる。



こういった現象は、別に「モノを大切にしない」という心の表れではありません。


むしろ、大事なものだからこそ人々がこぞって求めるようになり、資源や工程が節約されて価格が下がり、廉価で普及し、購入も利用も楽で簡単になった、と考えた方が合理的です。


手に入れにくかったモノが、生産性向上や所得工場で手に入れやすくなる。それが「経済成長」です。


そんなに「心の豊かさ」が欲しいなら、じゃあ、物資欠乏、教育不均衡、所得低下の時代に逆戻りしたいかと言われて、素直に「はい」と答える人は、まずいないでしょう。



見かけは確かに「大事にしていない」と見え、お年寄りの方は「粗末にしている」と感じるかもしれませんが、物資の経済的な優先度、価値は時代に応じて変化するものです。


とりあえずは、「携帯電話欲しさに、販売員を殺害」、「パソコン欲しさに、少年強盗団が暗躍」、「iPodを奪おうとして家電販売店を破壊」などという事件が起こらないことは、喜ぶべきではないでしょうか。


むろん、まだ修理すれば長く使えるものをすぐに捨ててしまうのはもったいないことで、これに応じた教育は別途必要です。しかし、大事にしないからといって、それをすぐさま「モノが豊かになったからだ」という原因に帰すのは、短絡的な解釈と言うほかありません。



モノが不足している時の心の貧しさと、モノが溢れている時の心の貧しさを同列で論じるのは、前提から考えて無理な行為です。


どちらもそれ相応の問題を抱えていますが、単純に「モノ」のせいにするのではなく、経済合理性や教育について考えるほうが適切で、世間で言い馴らされている意見をそのまま受け入れるのは、現実を見誤ることにもつながりかねません。


長く同じようなことを聞いていると、考えもせずに「そうだ」と思わされ、思考がマヒしたまま賛同してしまうものですが、時には立ち止まって、自分の頭でしっかりと考えてみるのも大切ですね。



就活でも、自分の頭でよく考えることもせずに、世間で言い古されていることを自分の意見であるかのように話す学生もいますが、「自分の言葉」で語りたいなら、日頃からよく考える習慣を付けるのが大事です。


学生の意見はほとんどが群集心理の焼き直しで、「個性的」といってもただ奇抜、新奇なだけ、という場合も多いようですから、本当の個性が欲しければ孤独に耐え、じっくり考える習慣を育てましょう。


「誰でも大学に行けるようになって、学生は愚かになった」などと言われては、皆さんもたまったものではないでしょう。それを「違う!僕は○○がしたいから、大学に来たんだ」と言えればいいのです。



おじさん、おじいちゃんの世代には、我々若者世代の姿はかなり貧弱に映っているようですから、その偏見を打破するためにも、書籍やメルマガを通じて、「僕たちも頑張りますよ」という姿を伝えていきたいものです。


今日もお読みいただき、ありがとうございます。

ただ今、教育・学校部門49位、就職・アルバイト部門28位です。

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