◆今日の一言
No.424(07/4/12)
『私立大の授業料は、銀座の駐車場代より高い』
本メルマガのバックナンバーはブログでも掲載していますが、その訪問数が、一日に500~600人とのこと。読者数は900人くらいですから、半分以上の人が毎日見てくれていることになります。
ランキングやプロデュースに詳しいQ大のO津君が色々と企画してくれているようで、毎日少しずつランクも上がっており、有り難い限りです。
今また、バックナンバーを見た学生さんからの質問も増えてきており、海外勤務といい、起業といい、そして中退といい、僕のキャリアはそんなにおかしいのかと思います。
さて、海外勤務に次いで質問が多いのは、「大学中退」です。
高校はほとんど寝ていて独学で勉強し、中学に至っては卒業できないくらい出席日数が少なかったので、別に高卒でも中卒でも小卒でもいいんですが、僕の学歴は中退です。
「中退して困りませんでしたか?」と聞かれますが、別にこれといって困ることはありませんでした。腹が立つことならいくらかありましたが、今ではどうでもいいことです。
なぜ大学を辞めたのかというと、これはもう、純粋に経済的な理由です。わが家には幼い頃から父がおらず、小さい頃から家業を手伝ってきたこと、貯金に励んできたことは以前書きました。
僕は中学くらいから、とにかく早く働きたいと思って、偉人の伝記や歴史の本、経済の本などを読んできました。
弟と一緒に、いつも「早く働いてお母さんに楽をさせよう」と誓い合ってきたのですが、たまたま高校での成績がずっと学年トップで、おばあちゃんが「貯金を崩してあげるから、大学に行きなさい」と言ってくれたのです。
条件は…
①1年前期以外の学費、生活費は全て自分で稼ぐこと
②仕送りはできないので、福岡の大学に通うこと
③二日市から自転車で通うこと
でした。
この条件を満たせて、しかもやりたい勉強ができるのは、西南大の経済学部ということで、そこに行くことにしました。
二日市から西新まで、片道16キロの1時間半。そこで見た大学生活とは…。
最初は、サークル勧誘で、次にオリエンテーションで、それから授業で、周囲の学生のあまりの意識の低さに驚きました。
僕は、①松本引越センター、②太宰府天満宮の餅屋、③塾講師のバイトを掛け持ちして、過労で働けない母の生活費や後期の授業料を貯金しました。
はっきり言って、毎日30キロ近く自転車で往復しながら、「休講」などと書いてあった時は、教授をぶん殴ろうかと思ったくらいです。(当時はネットや携帯などはありませんでした)
高校時代から好きだったCNNの創業者、テッド・ターナーの伝記や司馬遼太郎さんの作品を話題として切り出しても、周りの学生は「今しか遊べんよ」、「それより、かわいい子見つけんと」ばかり…。
僕は正直、「死ね、このバカども」と思ってました。友達ができないのがあまりに悔しく、予習しても無視され、レベルの低い学生たちに合わせる教授にも納得できませんでした。
おばあちゃんがせっかく貯金を崩して大学に行かせてくれたのに、その貴重なお金で買ってもらった授業を「楽しい」と報告できない…。
あまりに申し訳なく、おばあちゃんに「大学は楽しいよ」と言えるだけのことをしようと、大学付属の教会に潜り込んで英語や中国語を学び、韓国語やフランス語、ドイツ語を独学で学び始めました。
通学の往復3時間がもったいないと、ウォークマンに60分テープを入れ、A面に「中国語、ロシア語、ドイツ語」をそれぞれ10分ずつ、B面に「スペイン語、アラビア語、韓国語」をそれぞれ10分ずつ録音したり、CNNやFENの英語放送を録音して、聴きながら通学したりしました。
高校時代から付き合っていた恋人とは、絶対に別れることはないと思っていたんですが、夏休みに入ってもバイトで会うことができず、遂に別れました。
頭の中にはいつも請求書の日付と金額が記憶され、「弟が働き始めるまで、あと半年の辛抱だ」と耐え続けました。
しかし、秋におばあちゃんが突然の他界…。
母は気落ちし、さらに体調を崩しました。僕は軽音楽部を辞め、塾講師と夜の警備員のアルバイトを始めました。
予習や準備をしながら、肉体労働を行い、それでも授業は休まずに出て、やっとのことで後期の授業料「45万円」を貯金しました。
福岡銀行の二日市支店に行くため、JRの駅の近くを歩きながら、横断歩道付近で行きかう人たちがみんな、失礼ですが「泥棒」みたいに見えました。
「誰かが、この大金を狙っているんじゃないか?」、「盗まれないだろうか?」…。
そういう思いに駆られながら、生まれて初めて数十万円のお金をカバンに潜ませて横断歩道を渡り、銀行に行って、授業料を振り込みました。苦労と忍耐の成果は、数日後、授業料として引き落とされていました。
前期試験の結果は、ほぼA。当たり前です。予習や復習を欠かさなかった自分が単位を落とすわけがない。Aどころか、特Aでもいいくらいの自信があったので、嬉しくもなんともありませんでした。
それから始まった後期の授業。
教授は相変わらず遅刻するわ、学生はやる気ないわ、討論は白けるわ…。
ほんと、こんなところにいたらアホなウイルスに感染するのじゃないか、と思ったほどでした。
しかも、僕は相変わらず、次は2年前期の授業料のためにバイトと予習・復習の毎日。
ある日、あまり頭に来たので、授業料を計算してみることにしました。
①年間授業料=約90万円
②大学は春休み、夏休み、2回の試験で「半年」は休み
③つまり、「90万円÷6ヶ月」で、1ヶ月の授業料は「15万円」
④「15万円÷4週間」で、1週間の授業料は「37,500円」
⑤当時は「週10コマ」だったので、「37,500円÷10=3,750円」
「90分=約4,000円」。
…頭に血が上って逆上しそうでした。
「4,000÷9」だと、「10分=約440円」です。「60分」なら「2,640円」。
「1時間=2,500円」のカラオケボックスがあったら、どの学生も「ふざけるな!高すぎ!絶対行かん!」と言うでしょう。
ところが、それより高い授業で眠ったりサボったりしているのは、なんという無駄かと感じました。人間、親にカネを出してもらうと、ここまでバカになるものかとつくづく感じたものです。
福岡で一番地価が高い天神界隈のコインパークでも、「15分=100円」です。
大学1年の春休みに新宿に行きましたが、そこでも「10分=200円」。日本一地価の高い銀座「鳩居堂」周辺なら、「10分=300円」。
つまり、日本の私立大学の教室で過ごす時間は、日本一固定資産税が高い土地の賃料よりも、さらに高額なお金がかかる「極上VIPルーム」に相当するわけです。
そこが、カラオケのVIPルームかラブホテルならまだしも、「惰眠」や「暇潰し」のために過ごされている空間だとしたら、これは国家的損失ではないかと感じました。
ということで、秋になり、授業を「10分」遅刻した教授の研究室に出向き、「僕は予習しているんだから、時間通りに来てほしい」、「予習していないアホな学生は全員留年させればいい」、「頑張っている学生に合わせない理由を教えてほしい」と質問しました。
西洋史学を教えていた某教授の答えは…「大学はそういうところだよ」。この時は、研究室を破壊してやろうかとさえ思いました、ほんと。
うちの叔母は某大学で薬学を教えており、授業態度が悪かった学生十数人を、内定が決まっていたのに単位を与えず、留年させたことがあります。
しかも、何度も。
当然、就職も取り消し。就活もやり直し。
親から嘆願の手紙やいやがらせの電話があっても…
「単位をあげたいのはやまやまですが、○○君は頭が悪すぎて、こんな状態で薬剤師になると殺人犯になります」
「あなたは、人の親として恥ずかしくないのですか?それともお子さんは、まだおむつをはめてるんですか?」と知らぬ顔でした。
その時、叔母は「バカな学生に単位を与えるのは教育者として犯罪行為だ」と言っていましたが、本当にそうだと感じました。
2年生になってすぐ、僕は大学を辞めると決めました。学生の身分を保つためには、授業料を払う必要がある。しかし、その授業料を稼ぐアルバイトで、とても満足な勉強ができる状態ではない。
しかも、その授業の内容はレベルが低く、独学でもAが取れるくらいの内容だ。だったら、わざわざ大金を払ってまで行く必要があるのか…?
立命館も受かったし、青山も中央もA判定だったし、受験勉強程度の勉強は独学で楽勝だ。いざとなったら、いつでもあの程度の勉強はできる。ならば、満を持して勉強できる時まで、やっぱり働いた方がいい…。
睡眠時間を削りながら毎日通学とアルバイトを繰り返し、ついに「中退する」という決意を伝えた時、母が「大学とかに行かせてごめん」と言いました。
「大学とか」…。
謝るのは僕の方なのに、なぜ母が苦しい思いをしているのか。やっぱり、自分は親孝行を優先しよう。心から大切だと思うことに時間を使って、将来後悔することは、絶対にない…。
そして、2年の秋に中退しました。別に、「大学が大嫌いだから、とにかく辞めればいいことがある」とか、「大学に比べればどこでもいい」と無責任に考えたのではなく、ちゃんと次の行き先を決めての中退です。
ほどなく決まった就職先は「マレーシア」。語学力と経済知識で堂々と合格した、初の仕事でした。
海外勤務での生活適応努力や、出版社でのトップ営業までの道のりは、受験勉強や大学1年の時の生活とは比べ物にならないくらい大変でしたが、それでも精神的に深い部分で同意して過ごす時間は楽しいものでした。
中退したので、どこの会社でもかなり年の離れた最年少社員となり、雑用ばかりさせられたりもしました。
「へぇ~、大学出てないんだ」と軽く見られたこともありました。
ちゃんと勉強して知っていることでさえ、「君は大学を出ていないから、後できちんと説明しよう」と、いちいち「特別待遇」に回されたこともありました。
「中退=不適応人間」というのが、一般的なイメージだったようです。結果が出せないうちは、このような態度にかなり悔しい思いもしましたが、「実績で黙らせてやる」と歯を食いしばって勉強しました。
「絶対に、30歳で社長になってみせる」。
21、22歳くらいの頃は、「30歳」という未来が果てしなく遠くも感じました。でも、時間がたつのも忘れるくらい頑張ってやろうと思って働き、勉強するうちに、26歳で自立することができました。
今振り返って思うのは、「決断して数日後くらいに、あれでよかった」というような決断をしなくてよかった、ということです。
数年後に一つの決意を振り返り、「あれが大きなターニングポイントだった」と思えるような大きな決断が良い、という感想です。
僕にとっては、大学中退は、身の程と社会の厳しさを教えてくれた良いきっかけになった、というまでのことです。そのようなきっかけは人によって種類も違うでしょう。僕の場合は、大学だったということです。
今では当時のように大学を恨むこともなく、僕は27歳の時から学生サークルをなぜか応援するようになりました。
理想とは違う大学生活に悩む学生さん、第一志望に落ちて意気消沈していた学生さん、昔の僕のように経済的に余裕がない状態で通う学生さん、飲み会や遊びに嫌気が差して、生活の変化を求めて訪れる学生さん…。
僕が学生時代、もっと心の余裕があれば、こんな人たちと友達になりたかった、と思うような不思議な印象を感じることもあります。
読者の皆さんの中に、理由の如何を問わず、中退を考えている方がおられたら、
①「中退しさえすればいい」ではなく、「何をやるか」を決めて辞めること
②25歳くらいまでは、学歴であれこれ言われることもあること
③成功したら「中退なのにやるね」と軽視され、失敗したら「やっぱり中退だ」とバカにされることもあること
④本気で頑張れば、大卒の95%は敵じゃないこと
をしっかりと勘案して判断されるとよいと思います。
中退して良いことが起こるかどうかは人によります。
僕はただ、「もっといいことを起こすぞ」と思って歯を食いしばってやってきただけです。
中退してしばらくは「大学で勉強したいなあ」と思うこともありましたが、いつからか、早く会社を作りたいという思いが心を支配し、それからは、「大学を作りたい」と思うようになりました。
僕が作りたい大学は「中退大学」です。
①学費は4年間、一切無料で、学生は卒業禁止。
②4年以内に起業しなければ、ペナルティとして学費を払う。
③見事中退して起業した場合は、株式の10%を大学が保有する。
④中退後、5年を経た卒業生は大学で「講師」を担当する。
⑤特例措置として大学院も併設するが、必ず中退すること。
⑥在学生は、卒業生の会社でインターンを行うこと。
⑦食堂、図書館、売店は併設せず、学生による飲食事業、図書館事業、流通事業で全ての設備・機材・消耗品を調達する。
という大学です。
なかなか面白いアイデアだと思いませんか?「中退大学」では名前がかっこ悪いですが、こういう大学があってもいいと思います。
文部科学省が認可するかしないか?そんなのはクソ食らえです。
日本各地で活躍する人たちが認める教育内容を整備し、ダブルスクールのような位置付けでやってもいいではありませんか。大事なのは実質です。履歴書と学歴はカザリにはなってもカネになりません。
中退しても大卒以上に何倍も稼げることは、身をもって実感しまくりました。そういうノウハウを教える「実践哲学の学校」があってもいいと思います。
日本の少子化の一つの原因は「教育費の高さ」にあると言われており、その大半は大学の学費が占めます。これを90%以上カットできれば、日本中でたくさん赤ちゃんも生まれるでしょう。
中退した人は発想が非常識な人が多いですから、行儀の良いサラリーマンや公務員は大卒の方々にやってもらって、中退人間たちは世の常識を打ち破るビジネスを起こすのが良いと思います。
中退したいという方はいつでも相談に乗りますから、お気軽にご連絡下さいね。
在学して卒業まで頑張るという学生さんも、お父さん、お母さんに感謝して、今の時間をしっかり「将来への投資」に充てましょう。そうすれば、きっと将来元を取りますよ。
以上、「中退」に関する考察でした。
今日もお読みいただき、ありがとうございます。
ただ今、教育・学校部門35位、就職・アルバイト部門21位です。
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