■「内定への一言」バックナンバー編
「姿ハ似セ難ク、意ハ似セ易シ」(本居宣長)
ここ3年間、僕がもっぱら、3~4月の夜にやっていることと言えば、「エントリーシートの校正」。だいたい、毎日2~3社分のエントリーシートが携帯メールで送信され、少し添削して返信するという、「夜間データセンター」の仕事です。
同じ学生さんでも、昼に書いた文章と夜に書いた文章では、言葉の響きや配列が異なるのが面白く、「これは、一人でかなり悩んだな」と思ったりもしてしまいます。
僕は以前記者だったし、子供の頃から文章を書くのは好きで、小学校の読書感想文でも「原稿用紙が足りません!」と言っていたため、書くことは一切、苦痛に感じません。
しかし、記者になって発見した、書く以上に楽しい作業こそ、「校正」でした。
校正とは、例えば僕が以前やっていた「企業取材」であれば、社長さんや担当者の方の思いや情報を、より忠実に意図や印象が再現されるよう、適切な言葉に置き換えて、理想の言葉の組み合わせを求める「言葉の格闘」です。
経済誌の記者は、熱いハートに裏付けられた「主観」と、発刊日の反響を冷静に予測して、熟読・保存・伝達される記事を作るための「客観」とのギリギリのバランスに挑戦できる仕事で、僕は早朝まで校正をするのが、とても好きでした。
記者になる前の22歳までに英語、韓国語、マレー語、インドネシア語を習得していたため、翻訳にも自信があったのですが、実はこの「日本語をより適切な日本語に翻訳する作業」である校正の方が、何倍も難しく、自分の国語力の限界を試されると知りました。
でも、文頭から文末までを何十回も読み返して、その会社しか持ち得ない個性を表現しながら、記事を貫く一貫性を大切にしつつ、一つ一つ、苦心して繰り出した愛すべき語句たちを配列し、完成の時を迎えると…。
「よしっ!」と会心の笑みがこぼれます。
それを会社に持っていくと、大抵の場合、社長さんから「君、よく僕が言いたいことを、ここまで再現してくれたね」と褒めていただき、中には「会社案内」のパンフレットを僕の文章に変えるため、数十万円をかけて印刷し直してくれた会社もありました。古き良き思い出です。
それが、まさか5年後に、学生さんのサークルでエントリーシートの校正を行うという形で再度関わるとは、不思議な縁です。
そして、その80%は女子大生であるため、僕は「添削=メイク」のような印象を持っています。いつも届いた文章を読んで、「もっと美人になれるのに」と感じるからです。
その学生さんの人柄、相手に与える印象、口癖、過去の仕草、印象に残っている姿、物事への取り組み方、好きだと言っていた本や言葉…そんなものを思い出しながら、一つ一つの言葉の裏にある気持ちを汲み取り、「多分、ここはうまく思いつかずに、疲れて流したんだろうな」とか、「前半に比べて明らかに語彙の質が低下しているから、企業研究に自信がないんだろう」などと予想しながら、その人らしい語句と入れ替えていきます。
中には「この学生さんは、本を読み始めても、最後まで読んだ経験は少ないだろうな」とか、「これは、会社説明会でメモしたことを、そのまま書き写しただけだろうな」と感じる文章もあります。
そして大抵、その予測は当たります。そこから学生さんの悩みや要望を聞けば、課題と解決策が瞬時に想像でき、昔の記者時代に戻ったような気持ちで、その学生さんになりきったつもりで、校正を行っていくわけです。
過去、630社を取材して記事を書き、校正に打ち込む夜を過ごした時、一度や二度は、「面倒くさいな」と思ったことがあります。
でも、習慣とは不思議なもので、続ければ続けるほど、物事はどんどん簡単になり、また、「最初に思い付いた語句が、後から考えてもベストだった」という、「想像と最適解の一致率」が高まっていきました。
そんな、僕にとっては一人で最高の成果を求めて集中できる「至福のひととき」である校正が好きになったのは、学生時代に出会った、ある言葉がきっかけでした。
それは、以前のメルマガで紹介した「考えるヒント」(小林秀雄・文春文庫)所収の「言葉」という名エッセイの冒頭を飾る、本居宣長の有名な言葉です。
それは…「姿ハ似セ難ク、意ハ似セ易シ」という一言。
氏は、以下のように書いています。
~本居宣長に、「姿ハ似セ難ク、意ハ似セ易シ」という言葉がある。ここで姿というのは、言葉の姿のことで、言葉は真似しがたいが意味は真似しやすいというのである。普通の意見とは逆のようで、普通なら、口真似はやさしいが、心は知り難いというところだろう。~
不思議な一節です。
普通なら、例えば、芸能人の髪型を真似している人を見たら、「外見は真似できるけど、中身はマネできない」と言い、歌手と同じファッションをしている人がいたら、「ファッションは同じでも、気持ちはマネできない」と言いそうなものです。
しかし、おそらく日本史上、最も深い部分で「言葉」を極めた学者である本居宣長は、「姿は真似しにくいが、意味は似せやすい」と言っているのです。重ねて、不思議な一節です。
その意味するところは、以下の通り。
例えば、優れた作家と一般人の感じ方には、それほど差がありません。一般的に「悲しい」と感じることを体験すれば悲しむし、「嬉しい」とされる体験をすれば喜びます。
ポップスの7~8割は「恋愛の歌」ですが、恋人との別れは、作家も一般人も辛いもの。だから、体験が同様なら、「意味はよく似通う」ということです。
しかし、その気持ちを託す「言葉(姿)」は、全く違います。
では、その違いはどこで生まれるのか?それは、悲しみや嬉しさ、辛さを「どう言葉に託していくか」というプロセスです。
「感動」という素材をどういう言葉で規定し、表現していくか、ここに詩人や作家と凡人の違いが表れる、と宣長は言っているわけです。
つまり、「同じような悲しみや喜びを味わっていたとしても、ひとたび言葉にしようと思えば、姿は全く違うものになる。
それっぽい気持ちになっているからといって、分かったようなふりをしてはいけない」という意味でもあります。このような要約を敷衍して、小林さんが「言葉は恐ろしい。そして、恐ろしいと知るには熟考を要する」と書いているのは、いつ読んでも「名言だなぁ」と感じます。
小林さんはこの後、万葉集や古事記を例に、宣長の思想を解説しているのですが、興味がある方は、ぜひ読んでみてはどうでしょうか。
就職活動では、熱い社長さんの話を聞いて感動し、その気持ちを何かの言葉に結晶化させ、自分の内にとどめたい、と思うこともよくあるでしょう。
しかし…言葉の訓練を積んだことがなければ、出てくる言葉は「すごい」とか、「いい」でしかありません。学生時代に色々な経験をしていて、そのこだわりや違いを説明したくても…「楽しかった」としか言えません。おかしい、確かに自分は、感動したのに…。
これが、「姿ハ似セ難ク」という意味です。
「まずは、そうとしか言いようがないほど感動した」という点では問題ありませんが、同じ話を聞いていた「言葉が豊富な人」の評価を聞けば、「そうそう、そういう感じ!」と共感できても、自分では何ら、適切な語彙が思い付かないことに愕然とします。
「気持ち」は似ていても、出てくる言葉は、似ない。意味的には近くても、その語彙には、幼児と博士ほどの開きがあります。
まさに、「意ハ似セ易シ」。だから、すぐに単純な言葉に置き換えて、分かったつもりにならないことが重要だ、というのがエッセイの趣旨です。
校正とは、人の文章を直すだけの作業ではありません。自分の中に眠る言葉と出会い、己を忘れて、人のために言葉を捧げる地道な奉仕でもあります。
そして、人のために無心に頑張っている時にこそ、最も理想的な「自分らしさ」が表現されているのではないでしょうか。
だから、自分の作業でばかり忙しくならずに、時には友達のエントリーシートや面接に付き合って、自分の心に浮かぶ「言葉」と向かい合ってみてはどうでしょうか。きっと、自分の方が「なるほど!」と思うような感動に出会えますよ。
今日もお読みいただき、ありがとうございます。
ただ今、教育・学校部門41位、就職・アルバイト部門22位です。
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