■「内定への一言」バックナンバー編
『なぜ、日本の学生は勉強しないのか』(十八・六・ニ七)
■「こんなはずじゃなかった」のため息
「大学って、もっと本格的な勉強ができると思っていたのに、授業があまりに退屈で驚きました」。
「こんな勉強で、本当に社会で働けるのか、不安になりました」。
「高校を卒業して働き始めた友人に会うたび、自分が成長していないことが怖くなるんです」。
私が週に一度、顧問という形でお手伝いしている「企業取材サークルFUN(福岡市)」には、毎年この頃になると、新たに入部した学生たちからこのような声が寄せられる。
「あれだけ受験勉強を頑張ったんだから、ちょっとくらい息抜きして、遊んでしまってもいいか」と、実態のない「周囲」なるものの姿に安心し、コンパや遊びで昼夜逆転生活をスタートした彼らは、夏を迎える頃になって、ふと気付く。「ちょっとくらい」が、ちょっとやそっとの出来事ではなかったことに。
バイトで貯めたお金はその場限りのヒマ潰しに浪費され、現実逃避で共有した時間に充実はなく、話題はいつも、今の流行や相手の関心、はたまた過去の話題ばかり。こんな時間が続いて、若者が楽しいと思えるはずがなかろう。
いくら重ねても、何の思い出にもならないばかりか、経験にもならず、ましてや自信など得られるはずもない。
しかし、孤立を本質的に恐れる彼らは、面白くない話題に対してでさえ、時間を投じる。そして、「これじゃいかん」と思った学生が、学年や時期を問わず、見学に訪れる。
私がお手伝いしているFUNは、ある学生が三年前、「みんな、本当は熱い勉強がしたいんだろ?」と勇気を持って設立したサークルで、彼の心意気にいたく感動したため、今も顧問なる役割を引き受けているというわけだ。
学生は本来、「未来」を共有するために集まった仲間なのに、集まれば過去の共通点を探し、「授業退屈じゃない?」、「だるくない?」、「レポート、ありえんくない?」と否定的共感で連帯感を強めることがある。
友達とは言っているが、単なる顔見知りでしかない場合も多く、その共通点が「同じことを嫌だと感じる人」を条件とする場合さえある。当然、いくら一緒にいても、感動や危機感、成長の手応えなどは期待しえない。
多くの学生の連帯感を支えるものは、「同じことが好き」とか「同じ夢を持っている」といった、肯定的、積極的で、発展が予想されるような共感ではないのだ。試験が近付けば一緒にため息をつき、就職活動が近付けば一緒に嘆く。いつも一緒だが、つながりが強いともいえない。
ただ、友達も同じように不安であることには、「よかった、私一人じゃない」と安心しているようだ。ここは老人ホームではない。大学である。ただ、同世代の同じような人間ばかりが周囲にいる点では老人ホームと同じで、こういう雰囲気がいかに奇妙か、当事者たる学生たちはなかなか気付けないようだ。
このため息に対して、「これが普通なんだ」と思うか、それとも「これじゃ駄目だ」と思うかで、人生が決まるといってよいだろう。
■日本の大学は「学校」であるより「金融商品」だ
もちろん、三十歳を迎えた私も、学生時代にこのような思いを味わったことがある。年を重ねていささか社会経験も蓄えたため、その中で若者に役立つものがあればという気持ちで接しているが、今では日本の大学は「学校ではない」という思いを強くしている。
それは、中高年の「退職金」に対する執着ぶりを、何度か近くで見聞きする機会があったからだ。
前職の記者時代、私は六本松にあった某NPO法人でコメンテーターを務めていた。会の活動分野がメディアや報道であったため、NHKやRKBのマスコミ関係者、ドコモ、J-フォンといった通信業界の方々が主な参加者だった。
この集まりは、外見的には「マスコミ、通信業界」という属性でくくれたが、もう一つキーワードがあった。それは、「中高年中心」という世代的共通項である。
私には幼い頃から父がいないため、退職金の話など家で聞いたこともなかったが、察するに、この退職金なるものは、夫婦関係や子供の進学と並んで、中高年の関心事の上位を占めるらしいと気付いたのは、終了後の宴会の話題がほとんど退職金関連だったためである。
A氏 「週末に登山に行っても、月曜から出勤できるような部署に回されてしまいましたよ、ハハ…」。
長老 「まあ、それもよいではないですか。Aさんも、退職金をもらうまであと二年。もう少しの我慢ですぞ」。
A氏 「そうですね、今までの苦労を思えば、あと二年くらいは何ともありません」。
B女史 「私も主人に、退職金をもらうまでは絶対やめないで、って言ってるんですよ。最近はお酒の量も増えちゃったけど、健康食品もよく買うから、そっちでカバーできてるみたいです」。
A氏 「Bさんのところは、あと五年ですな。残りが少なくなるほど長く感じるのは、どうにも不思議です」。
長老 「二年でも五年でも、あと少しということに変わりはありません。先行き不安なこの時代、退職金が老後を決めるといってもよいのです。くれぐれもストレスをためず、無為自然の境地で生きましょう」
A氏 「まったく、その通りですな、ハハ…」。
ただ一人、二十三歳だった私は、「こりゃ、奴隷だ」と驚きを隠せなかった。参加者は私の親と同世代であるため、それなりの人生経験もあろう。そこは私が口出しできることではない。
しかし、仕事は楽しくない、楽しみは会社の外、「金のためじゃない」と言いながら退職金には執着する…という姿を見て、「これでは、若者が会社に行きたくないというわけだ」と感じたものだ。
つまりは、退職金なるものを「人質」に取られ、やりたくもない労働を、借金返済と体裁維持のため、苦労を忍んで引き受けているのである。
上司や会社に何か言いたいことがあっても、「君の退職金の査定は、どうだったかな」と言われれば、一発で「私が悪うございました」。
「日本のサラリーマンは、諸外国には見られない忠誠心を持っている」と自画自賛する評論家も多いし、事実、そのような立派な企業戦士も多いのだろう。
しかし、私が見た平均的な中高年にあったものは、「忠誠心」などという高貴な精神的基盤というよりは、むしろ退職金を人質に取られ、本人の意思とは無関係に強いられる屈従であった。
その姿ややり取りは、その後も数日間、気になった。そして、「どこかで感じたことがある気持ちだなあ」と漠然と記憶をたどっていたら、ある日「あれと同じだ!」と思い当たったのだ。
それは、大学の「卒業証書」だった。別に専攻の勉強が楽しいわけでもなく、学科の勉強に当事者意識を感じているわけでもなく、テキスト以外の本らしい本はまともに読んだこともないのに、「単位のためなら仕方ない」と言って、仕方なく勉強に励む大学生…。
出席もしておらず、毎年確実に学習内容を忘れ、学年を重ねるたびに授業数が増えて圧迫され、既に学習内容が社会でどう役立つか、というレベルを著しく下回っていながらも、彼らを大学に縛り付けるもの。それが卒業証書である。
彼らからテストをなくせば、果たして何人が勉強するだろうか。それでも勉強する人間だけが行くはずだった学校は、そうしないと勉強しない人間を受け入れ始めた時点から、学校ではなくなった。明日への熱意やチャレンジ精神に燃える若者には、いい迷惑である。
私が学生時代に見た多くの学生も、卒業証書を人質に取られ、やりたくもないレポートや授業で単位を揃えようと、スレイブな努力を強いられていた。私はそんな奴隷と一緒に勉強するのが嫌で、そのような退屈な雰囲気になじんで破壊される未来を恐れて、二十歳の夏、海外勤務を決意したのだった。
それにしても、「この親にしてこの子あり」とはよく言ったもので、親子で目指すものが「退職金」と「卒業証書」の違いはあれ、そこに働いている屈従の根本的な原理が似通っていることに、当時の私は興味を覚えた。
そこで、立ててみた仮説がある。会社でも大学でも、日本で大切とされることは、「優秀な成果を出すこと」ではない。もちろん、平均以下であれば退学や解雇という非常措置はあるが、日本社会ではもっと別の原理が働いている。
それは「満期を迎えなければ、メリットが享受できない」というシステムだ。つまり、「途中解約なら、全てがパー」ということだ。
この仕組みは、学校や会社という機能集団の構成原理と呼ぶよりは、むしろ「生命保険」などの金融商品に近い性質だ。
経済誌の記者だった私は、金融商品の持つ性質を抽出し、日本の学校に当てはめてみた。
①定期的な積み立てが必要か?
―学費という形で、毎年一定の金額を積み立てねばならない。
②期間の短縮は加入者の意思で可能になるか?
―早く卒業して学費負担を抑えたいからと、多めに単位を取って二年、三年で卒業することは認められていない。四年間、取得単位によらず、同額の学費を支払う者でなければ、組織の構成員たる資格が得られない。
③メリットは最後に享受されるか?
―高校時代より学力が著しく低下した者、社会人を追い抜くほど自己成長を成し遂げた者の区別なく、卒業証書が与えられるのは、留年しなければ同年同月である。
三つの仮説は見事に一致した。
つまり、私の頭の中では、日本の大学は「建物・先生付き四年物掛け捨て型就職保険」と位置づけられたのだった。学費は返らない。
なぜ行くかと言えば、勉強したいからではなく、出ないと「就職で不利」とされるからである。そういう根性こそ人生で不利なのだが、彼らにそういうことを考える余裕はない。
なぜなら、お隣さんも、知り合いの友達も、みんな同じことをやるからだ。要するに、学歴の格差によって将来的に発生しうるリスクをヘッジするため、四年間で高額の資金を積み立てて買う保険商品が、大学なのであった。
組織がこういう目的を持つ以上、そこに入る学生が「燃えたい、成長したい」と思っても、例外的存在と見なされる可能性もある。なにせ、退職金たる「卒業証書」の要件は、学力ではなく金なのだから。
記者として会う人々の中には、多くの保険会社の営業マンがいたことから、日本人がいかに「保険好き民族」かを聞いて、面白く思っていたが、教育も保険の性質が強い点を知って、日本の教育論争を違う視点から見る尺度を得たような気分になった。
なぜ「日本の学生は勉強しない」と言われて久しいのか。それは、本人よりは親の意思で、「修行の場」としてより、「保険商品」として購入されるからだ。おそらく、最近人気の変額保険や医療保険を引き離して、ボロ儲けの保険商品といえるだろう。
■真の保険は卒業証書ではなく学力だ
しかし、昔なら貴重だった「学士サマ」も、今のように履いて捨てるほど溢れると、その希少価値はないも同然である。なにせ、今の大学生は本も読めず、漢字も書けないのだから。五十年前の旧制高校で教えていた以下の内容を、今の大学生はその百倍もの金を払って学んでいる。
「子供のために」、「優しさこそ教育」、「知育偏重は悪だ」という教育論争の果てに、今の大学生がどういう悩みを持つようになったか、見てみるといい。子供のままにしておくのが良い教育ではなく、可能性を信じて引き出すのが本当の教育ではないだろうか。
子供として扱えば、学生は子供として振舞う。しかし、私が応援しているFUNでは、どの学年の学生も、大人として接するようにしている。私は一回り離れた学生に対してでも、敬語で話すようにしている。
大人として興味を尊重し、大人として過失を指摘し、大人として可能性を応援すると、彼らの目の輝きは、大人たちが「イマドキの若モンは…」と嘆くのとはほど遠いほど、素晴らしいものとなる。
日頃、社会から「いいね、学生のうちは」、「学生には分からないだろうけど」などと言われ、認められない不満を持ちながらも、徐々に大人に洗脳されて「学生のうちは遊ばないと損」などと言い出す学生も、大人として遇すれば、素晴らしい努力を見せる。
そして、単位にも資格にもならないサークルの勉強に、遊びより優先して取り組むようになる。土曜の朝という、大半の学生が寝ているであろう時間に、眠い目をこすりながら、数十キロも離れた実家から集まる学生たちを見てきて、私は「日本の将来は捨てたものじゃない」と、毎週感じている。
授業、アルバイト、サークル、ゼミ、旅行…学生の話題は似通っている。人と同じことをやっていて、差が付くはずがない。ならば、学生生活の成否を決するのは「一人の時にどれだけ強い人間になれるか」である。
単位や卒業証書という、人間のスケールを小さく卑屈にさせるような関心事から解放されて、社会や人間を見据え、自分のやるべきことをキャンパスの外に見据えた時、彼らは心から学力や知識を渇望する。つまり、「形式」ではなく「実質」が人生を決めるということに、全面的に同意するのだ。「過去より未来で自己表現できる大人になろう」という決断が起こる瞬間である。
もし、教育が保険的な性質を持つのなら、それは「過去によって保障される」というより、「未来を惜しまれる」という形で、周囲の人々から大切にされるような資質となりえた時だろう。「こいつは、今まで頑張ってきたから、チャンスを与えたい」ではなく、「こいつは、将来何かやりそうだから、チャンスを与えたい」という形で活躍の場が提供されねば、実績が浅い若者の出番はない。その「何かやりそう」な学生を応援するのが、私の週一回の仕事である。
今日もお読みいただき、ありがとうございます。
ただ今、教育・学校部門43位、就職・アルバイト部門27位です。
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