■「内定への一言」バックナンバー編


「鋭きも鈍きもともに捨てがたし 錐と槌とに使い分けなば」(広瀬淡窓)




ほぼ毎日、頭の中が「収益計画」や「商品開発」でいっぱいの僕が、週に2回の安らぎを感じる時間が、毎週火・金の「韓国語塾」です。なぜ安らぎを感じるかというと、このような時間こそ、「老後に持ちたい」と考えていた理想の時間だからです。



小規模ながらも、将来に意欲を燃やす若者たちと、一つの目標に向かって地道に達成を積み重ねていく…。



昔から、将来はそういう時間を持ちたいと考え、現役を引退したら、少年野球かサッカーの監督でもやり、老後は小さな私塾を開いて、古典や武道でも教えたいと、ささやかな夢を描いてきました。



「50歳までに、人に教えられるくらいの何かを身に付けよう」という、定年退職後のかすかな楽しみでした。それがどうしたことか、27歳で「大学生のサークル顧問」を引き受けることになり、3年たった今も、毎週お手伝いしています。



僕ほど学校嫌いで、教師のガラじゃない人間もあまりいないだろうと思っていたら、幸いにも学生さんから「話が面白い」、「分かりやすい」と言っていただき、人生には意外なハマリ役もあるものだと感じています。



創業5年目の駆け出し社長が、週に2回教壇に立ち、好き勝手なレジュメを作って、集まった学生たちと語っている…という光景は、僕もFUNの顧問を引き受けるまでは、予想もしませんでした。



教育心理学も教職課程も全く知りませんが、毎日手抜きせず、真剣に生きていることには自信を持っているので、話題には事欠きません。



しかし、頑張れば可能性がある若者たちの、「今」という貴重な時間を借用しているからには、僕なりに「教える者」としての理想は持って臨んでいます。



その理想像は、日本の歴史に残る多くの偉大な教育者たちですが、中でもとりわけ尊敬しているのは、山崎闇斎や伊藤仁斎、中江藤樹、吉田松陰、そして広瀬淡窓です。



特に広瀬淡窓(たんそう)は、高校時代に世界史の先生が「休道詩」を紹介して下さったこともあって、温かい印象とともに残っています。



広瀬淡窓は、江戸後期の大分の教育者です。家業の商売を継がずに教育者の道を目指し、若き日は儒学や古典の勉強に励みました。



西南大の近くに「今川橋」というバス停があり、その側に「じょうわ幼稚園」があるのを見たことはありますか?幼稚園の横にある「浄満寺」の入り口には、「亀井南冥(なんめい)・昭陽先生之墓」と書かれた石碑が建っています。



亀井南冥は、江戸時代の筑前の学者です。地元福岡では、「漢委奴国王」と書かれた「金印」が発見された時に、「これは漢の時代と関係がある」と察知して、この掘り出し物を保護したことで有名な学者です。ちなみに、掘り出した人は「甚兵衛さん」という農民だったそうですよ。



彼は、大阪で荻生徂徠(おぎゅうそらい)の学問を学び、福岡で「甘棠館(かんとうかん)」という学問所を開いて、西の「修猷館」と並び称せられる学校に育て上げています。



朱子学派の藩校だった修猷館は、今も県立高校として西南大の横にありますよね。地元では有名な進学校です。



一方、朱子学に相対した徂徠学派の甘棠館は、「寛政の改革」で廃校処分とされ、今では近所の「唐人町商店街」の側にある雑居ビル、「ショッピングプラザ甘棠館」に名を残すのみ。



これらの史跡は、全て僕の家から徒歩圏内なので、時々散歩しては、昔の人たちの勉強風景などをぼんやり想像しています。FUNの帰りなどは、「おれも頑張らんといかんね」と自分を励ましています。



実は、今は商店街や幼稚園となった「甘棠館」で、南冥門下から巣立った日田出身の青年が、広瀬淡窓でした。



淡窓は師匠の志を継ぎ、24歳の時、故郷の天領・日田に小さな私塾を開校します。若き日の彼もまた、現代の学生と同じように命の使い道に悩み、そして、「人を育てるは、善の大なるものなり(良いことは数多くあるが、教育はその中でも特に大きな善だ)」と悟りました。



その思想の表現形態が、小さな私塾だったのです。淡窓は「士農工商」の身分制度を超え、国学や朱子学など、幅広い学問に触れる道を、若者たちに用意しました。



まだ20代前半だった彼は、生徒とともに生活し、裏方作業も一緒にやることで、塾生たちの絆を深めていったといいます。特に「詩」を重視し、情操教育には並々ならぬ力を注いでいます。



この、淡窓の塾が「明日への活気」に満ち溢れていた頃に読まれた詩が、高校の時に先生が紹介して下さった「休道詩」でした。



道(い)ふを休(や)めよ 他郷辛苦多しと
同袍(どうほう)友有り 自(おのず)から相親しむ
柴扉(さいひ)暁に出づれば 霜雪の如し
君は川流を汲め 我は薪を拾はん


「住み慣れない土地で辛いと言うなよ。
似たような友達もいるさ。自然と仲良くなるよ。
早朝、柴の扉を開けて外に出れば、霜が雪のように冷たい。
君は川の水を汲め。僕は薪を拾うから」


といったほどの意味です。


遠方から集まった友たちが、心を開きあって学びの場を作ろうと頑張っているのが、ありありと想像できるような温かい詩ですね。ちなみに僕も、FUNではいつも黒板を消したり、机を運んだり、資料の下準備などをやっていますが、これも淡窓の姿にあやかってのことです。



さて、このような慈愛に満ちた淡窓先生の塾は日増しに塾生が増え、発足12年目にして、歴史にその名を残す「咸宜園(かんぎえん)」と改称されます。最盛期は4,000人を数えたと言いますから、西南大の半分近くの人数だったんですね。



後、蘭学者として名を成した高野長英、靖国神社の参道に銅像がある砲術の父・大村益次郎、長崎で日本最初の写真館を開いた上野彦馬なども、皆この咸宜園の卒業生です。



咸宜園の卒業生たちの特徴は、「相手が何歳であれ、謙虚で優しく、面倒くさがらなかったこと」だと言われています。これも皆、淡窓先生の姿や人徳のおかげだったのでしょう。



淡窓は、学問に対しては一切手抜きをしない先生でしたが、塾生にはとことん優しく、自分には厳しい教育者でした。



彼は晩年まで、「万善簿(まんぜんぼ)」という記録を付け続けました。これは、「良いこと」をしたら白丸を一つ、「悪いこと」をしたら黒丸を一つ付けるというもの。毎日、一日が終わる頃に「白丸-黒丸」の計算をして、死ぬまでに「白丸」の数が「一万」になるように、自分を律する習慣の表れでした。



「悪いこと」の中には、感情的になって怒る、蚊を殺す、食べすぎる、食べ残す、遅刻する、といった行為も記録されています。現代の私たちなら、ほぼ全員が「極悪人」になってしまう厳しさです…。先生もこうして、日々自分を高める試練を自分に課し、生徒とともに成長を目指したのでした。



この、人間くささを隠そうともせず、生徒とともに学び続けた先生は、なんと12年7ヶ月もかかって、遂に「一万の善」を記録し、亡くなりました。



毎日欠かさず、「自分の決算」を行い、その積み上げた善が一万を記録した時、咸宜園は日本中に名をとどろかす私塾になっていました。九州にこのように素晴らしい塾があったということを、なぜ学校では教えないのか、僕はかねがね疑問です。先生たちが「役不足」だと知れてしまうから、教えないのでしょうか。



この淡窓先生の代表的な教育方針は、「長所進展」です。現在では、経営コンサルタントの船井幸雄さんが、同じ内容を自分の言葉のように使っていますが、その言うところは、淡窓と全く同じです。



淡窓は、頭の回転が速い塾生と同様、遅い塾生にも見所があると、優しく大らかな気持ちで青年に接しました。彼の寛大さをよく表している和歌を、今日の一言としてご紹介しましょう。



「鋭きも鈍きもともに捨てがたし 錐(きり)と槌(つち)とに使い分けなば」
=「鋭い角度の鉄も、鈍い角度の鉄も、ともに捨てがたいものだ。錐と槌とに使い分けるのなら、どちらの角度の鉄も、なければならないのだから」



という歌です。

「人生のビジョンを大きく描き、社会を広く見渡せば、どのような人も、必ず役に立つ道があるのだから、自分が使命を見出せるような人生を求めて、ともに歩んでいこうではないか」。淡窓先生は、そう教えたのでしょう。



小さな私塾が「咸宜園」になるのに、12年かかっています。FUNは今、発足3年なので、あと9年です。その後、全国的な評価を得るまでに、さらに20年以上かかっています。FUNなら、合計であと30年ほどです。



「10年くらい続けたら、やっとサークルらしくなるのだ」と気長に考えて、僕も小さな善を積み重ね、コツコツ頑張っていこうと思います。


さてさて、明日の「マネー塾」最終回のレジュメのチェックをしないと…。




■「私塾が人を作る」(大西啓義/ダイヤモンド社)


今回ご紹介した「咸宜園」を含め、日本の歴史上に花開いたユニークで実績溢れる私塾を、幅広く紹介した本です。著者が企業経営の現場で、人材育成の必要性を感じ、学校教育の崩壊ぶりに危機を感じて、自らフィールドワークで日本中を調べた本書は、西南大のI君や、筑女のAさんのお気に入りの本でもあります。


僕も時々読み返し、サークルといえども、FUNを理想の「学び舎」にするアイデアを模索していますブックオフに行けば、たまにビジネス書の「100円コーナー」にありますよ。別に塾や教育に関心がなくても、いずれ部下や社員を率いることになる学生の皆さんなら、一読すべき一冊です。



■「圧迫面接の対処法は?」(久留米大学4年Mさん)


「圧迫面接」という言葉を、僕はFUNの顧問を引き受けて、初めて知りました。聞くところによると、人事担当者がわざと悪意のある態度を取ったり、冷たいことを言ったりして、学生の感情を揺さぶろうとする選考方法だとか。


こういう方法で学生を選抜しようとするなんて、哀れな人事担当者です。社長のペット、操り人形もいいところで、学生に「マニュアル面接するな」の一言も、「笑わせるな」って感じです、ほんと。



僕は仕事柄、企業の人事担当者にもたくさん会いましたが、半分以上は「マニュアルおやじ」です。学生の前では「社会人」ぶってますが、本心では、自分の採用した学生が3年以内に退職して社長に怒られないか、怖くてビクビクしています。


だから、圧迫も単なる「演技」です。彼らも必死に練習しているんですから、「おじさん、頑張ってるね」くらいに思っておけばいいでしょう。



圧迫する面接官がいるのではなく、圧迫される学生がいるだけ。志望動機と入社後の自分に絶大な自信を持てば、面接官を逆に圧迫できるはずです。全くバカバカしい手法ですが、人事担当者がその程度の知能しかないなら、「それで圧迫のつもりですか?」とでも言えばいいでしょう。相手にせず、粛々といつも通りに対応すればいいだけです。



お互い、練習で作り上げた「よそ行きの自分」で向き合って、入社すれば「こんなはずじゃなかった…」なんて、パロディですね。こういう「入社未遂事件」が頻発するから、僕の会社は仕事に困らないわけですが、人事担当者のマニュアル崇拝も、どうにかならないものかと思います。誠実な態度で接すれば、誠実な会社に出会えます。できない人の話や、噂には一切耳を傾けないことですね。



以前、ある女子大生がドトールでこういう話をしていましたよ。僕は、アイスココアをこぼしそうになりました。



A「○○社の面接でさぁ、入社1年目に絶対達成したいことは何か、って聞かれたよぉ~」
B「うっそぉ~!そんなの、入社してないのに分かるわけないやん。それって圧迫やね、圧迫」
A「へぇ、そうなんだぁ~!Bって詳しいね」
B「まあね」


…以上のように、「圧迫だ」と思う人にのみ、その面接は圧迫だということです。


今日もお読みいただき、ありがとうございます。

ただ今、教育・学校部門43位、就職・アルバイト部門27位です。

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