■「内定への一言」バックナンバー編


「何もやっていない人間ほど、いつも疲れている」(コナン・ドイル)


学生さんから時々、「毎日あれだけの量を書いて、よくネタが尽きませんね」と言われます。別にこのメルマガは、「ネタ」というほどの話題でもないと思うんですが…。


過去から話題を探す人はすぐにネタ切れになりますが、僕は未来を話題にしているので、ネタは尽きません。就活と同じです。

量が多いとか、タイトルにムカついたという時は、読まなくていいんですよ。僕は「やる気がある時」に合わせて書いているのであって、後ろを向いている学生に迎合しようとかいう考えはさらさらありません。それでは、頑張ろうと思った時に手抜きの内容を読まされることになるので、失礼でしょう。


本気を茶化すほど人をバカにする行為はありません。僕はそんなメルマガは書きたくありません。嫌われるのは慣れているし、本気を貫いた方が、いずれ深い信頼関係を築けます。


叱らなくていいほど完璧な学生は一人もいないし、応援しなくていいほどダメな学生も一人もいません。相手の良心を信じ、愛情と誠意を込めて書く。今すぐ分かってもらえなくても、可能性を信じて書く。誰にも言えない心の声を受け止めるような気持ちで書く。そういう思いで、日々配信しています。

大半の人は、「就活」と聞いても、意識的に「まだ始めなくていい」と自分の無為を正当化しようとするでしょう。そういう人には、このメルマガは苦しいのです。


追い風も、後ろを向く人には向かい風です。そして、「まだやらなくていい」と思う期間が長引くほど、小さな「未来の圧迫」をどんどん恐れるようになり、何も始めないうちから萎縮していくわけです。


でも、あと40日ほどで就活に突入し、バックナンバーを読み返した時、「なるほど!」と思う作品がいくつもあるはずです。そういう時に役に立たねば、何のためのメルマガなんでしょうか。それが、執筆者たる僕の意見です。


皆さんの周りには、自分に期待してくれている人が何人いますか?自分以上に自分を大切に思ってくれる人は、何人いますか?


僕は仕事でフリーターに会いますが、いつも感じるのは、「もう誰も助けてくれなくなったのか」という悲しさです。周囲がよっぽど冷たく見捨てないと、あんなに自暴自棄で惰性的な生活は、しないはずです。

持っている時間とお金は全て「今」のために投じ、健康を害するのが特権だと思い、肉体的な快楽ばかり求めては、起きるまで寝て、寝るまで起きる日々の繰り返し…。


親だって、初めてわが子がこうなった時は、ものすごく悲しかったはずです。友達も、寂しかったはずです。


そういう小さな裏切りから来る失望や軽蔑が、少しずつ今までの信頼や愛情を押しのけ、最後は「こいつは元々、こういう奴だったんだ」という諦めに行き着く。

周囲がそう思えば思うほど、フリーターはそのセルフイメージを自ら強化するように振る舞い、そのうちに、本当にそういう人間になってしまいます。


頑張っていた自分や、応援してくれた人も、過去、いるにはいたのでしょうが、そういう宝物は、自分一人の努力では到底想起できないほど、彼らの頭脳と環境は「今の楽しみ」と「借金」というウイルスに侵食されています。



だから、僕はそんなフリーターにとって「初めて自分を信じてくれた人」になるべく、こういう仕事を選んだわけです。学生と接する僕が仏なら、フリーターと会う時は鬼です。


しかし、一人として中途半端で見捨てたことはありません。

それは、高校1年の時、自暴自棄で反抗的だった僕を、一人の先生が心から支え、変えてくれたからです。人から期待され、信じてもらえるということが、こんなにすごい力を生み出すのかと、我ながら驚くほどでした。


K先生は2年の時は担任になり、担当は日本史でしたが、文学にも大変詳しく、高校の近くの「浜勝」に連れて行ってもらっては、色々な話を聞かせてもらったものです。その時、車の中で流れていた話がすごく面白くて、ラジオかと思ったら「小林秀雄」という人の講演録でした。「話が面白すぎて、時々信号を見忘れるんだよ」と言われていましたが、それくらい面白い話でした。

早速その人の本を読みたいと言ったら、そこで紹介してもらった本が「考えるヒント3」(文春文庫)だったわけです。「美を求める心」は中学生にも分かる名文で、僕にはそういう思い出がある作品です。


「徂徠」や「学問」、「福沢諭吉」、「ヒットラーと悪魔」なども、時間を忘れて読みふけりました。夏には先生のお宅にも遊びに行き、巨大な書斎を見せてもらいました。こんな書斎を増築した先生に教えてもらえるのが、幸運だと思いました。


ちなみに、学生時代に遊びに行った時、「うちの長女だ」と中学生の娘さんとお会いしたんですが、そのお子さんが、僕が2003年に初めて福岡女子大に行った時、大月さんや吉谷さんと同じ学年・クラスだったことに、驚いた次第です。


「あの頃の中学生が、もう大学生になっているのか」と考えると、とても不思議でした。さらに、その大月さんが今、FUNのインストラクターとして学生のお手伝いをしているのも、不思議な感覚です。


もっと不思議なのは、毎週土曜に学生さんたちと集まり、僕が昔読んでいた本を一緒に読んでいること。「導かれる者」から「導く者」へと立場が変わったのだと思うと、大きな責任を感じます。


先生がお持ちだった、新潮社から出ている『小林秀雄講演集』の第3巻の「本居宣長」には、こういう言葉があります。

「うひ山ぶみ」って本は寛政十年に書いたんです。宣長は。書き終わった所に、歌が一首出てきます。


「いかならむ うひ山ぶみの あさごろも 浅きすそ野の しるべばかりも」


っていう歌があります。


大概の人はこんな歌なんか読みとばしちゃうんです。なぜ読みとばすんですか。いったい宣長の文章ってものは無駄なんてものはひとつもないです。


非常にあの人は文章に注意した人で、こんな歌だってしゃれに書いてんじゃないんです。こりゃ結論なんです。


学びようの法なんかは、どうこういうのは、そんなことは末のことであって、一番肝要なのは、倦まず、怠らず、年月かけて、励みつとむるぞ肝要である、と。


学問てものは、一生懸命に、怠らず努める、それだけが肝要だと。わかりきったことじゃないですか。このわかりきったことを、誰もないがしろにしてるんです。それで学びようの法をみんな聞きたがるんだ。


先生どうしたら、うまく学問が出来るでしょうか。その法を、教えていただきたい。だから、癪にさわったんですよ。宣長は。


だけど、あんまり弟子たちに乞われるからやむを得ず、俺は書くのだ、という自分の心持ちはわかっておくれよ、っていうのが、この歌なんです。


ところがその歌をみんな読みとばしちゃうんです。~



本気で集中する前に、すぐに「いいやり方はありませんか」とか「どうやって勉強したらいいですか」と聞いてくる不甲斐ない弟子たちに失望しつつも、一抹の希望を託して和歌を詠んだ宣長の気持ちを、よく捉えているではありませんか。


やり方や時間を忘れるほど没頭して、寝食を忘れて学んで、分からなくてもとにかく続けて、その結果、「最後」に発見されるのが「学び方」なのに、弟子たちはそれを「最初」に求めたがる。


その情けない根性に、宣長は「そういうものではない!」と言ったのです。そして、小林さんはそういう宣長の気迫を、現代人に「批評」という手段で伝えたのです。


また、新潮社から出ている全集・第4巻所収の『作家志願者への助言』には、こういう一節があります。


~世間で影響を受けたとか受けないとかいっているような生やさしい事情に影響の真意はない。そういうものは、単なる多少は複雑な模倣の問題に過ぎぬ。


真の影響とは文句なしにガアンとやられることだ。心を掻き廻されて手も足も出なくなることだ。こういう機会を恐れずに掴まなければ名作から血になるものも肉になるものも貰えやしない。


ただ小ざかしい批評などして名作の前を素通りする。~


これは、先月のBusiness Cafe『兄小林秀雄との対話』高見沢潤子/講談社現代新書※絶版)を読んだ方は、思い出すことがあるのではないでしょうか。


若者の中には、「影響を受けること」を忌避したがる流行が、どの時代にも発生します。すごいものを見ても、ケチを付けたがる。良い話を聞いても、名作を読んでも、素直に認めたがらない。自分はそういう、他人が影響されたようなものには影響されないぞ、という精神的頑迷さをもって一つの自己確認を行いたがる、あの心情です。


「自分は簡単には影響されないぞ」という、全てに懐疑的な習慣です。

しかし、そのような非生産的な頑固さこそ、「無知」の影響を受けている証拠です。良いものを素直に認めないということは、それより劣ったものに精神が囚われている証拠でなくて、一体何なんでしょうか。


「頭では分かった」などという現代の流行語は、そもそも成り立たない言葉の組み合わせです。そういう中途半端な認識は「模倣」に過ぎず、感動を恐れて自らチャンスを叩き返し、知ったような言葉を吐いて名作の前を通過しているだけだ、というメッセージです。


要するに、影響されるのを怖がるという形で、その恐怖に影響されているわけです。本物の感動は、出会った瞬間に自分の全てがなくなり、全てが作り変えられるほどの衝撃をもたらす、と言っているんですね。


小林さんのこういう言葉は、僕が高校時代に好きだったゲーテの考え方とすごく似ていて、僕はとても惹かれました。この小林秀雄さんという方は、「分かる」ということを誰よりも深く真剣に考えた人なんだなと、K先生が勧めて下さったわけが分かりました。


このK先生と、3年から赴任されたK先生の大先輩のU先生のおかげで、僕の高校時代は、『放課後個別ゼミ』の機会に恵まれ、本当に幸せな時間を過ごすことができました。

簡単に「分かった」と言わないという、たったこれだけの習慣を得ただけで、僕のその後の人生は、一体どれだけ変わったことか。自分の頭で考えるなんて、こんな楽しいことがこの世にあったのかと、新鮮な感動でした。


来、この性格で損したり得したり、いろんな経験を重ねてきましたが、今では損得など考えないほど、考え抜くことは大事だと確信しています。

皆さんも、色々なことをすぐに「分かり」たいでしょう。学生の質問はいつも、「社会で一番大切なことは」とか、「仕事で一番重要なことは」などと、「一番」ばかり聞いてきますから、手っ取り早い解決策を求めているんだろうな、と感じます。


しかし、手っ取り早い解決策ほど「遠回り」を余儀なくされる手段はありません。学生の実力では、「一番」どころか、「百番」くらいから始めた方が妥当だからです。

まぁしかし、そういう「退屈な基本」を言うと、学生さんはゲンナリして、「なんだ、それくらい分かってる」という顔をしますね。分かっていようがいまいが、そうできているようには到底見えないのに。


「高層ビルがいきなり建つか?」と聞くと、そんなことはないのは、誰でも分かります。見えない基礎工事どころか、地質調査や環境調査といった、後になればビルとは何も関係ない部分の地道な作業ばかりが、最初は続きます。

大半の学生は、それを「ムダ」と切り捨てます。想像力がないからです。そして、「ムダなことはやるまい」と考えて、先へ先へと進みたがり、基礎工事のない工事に時間をつぎ込んでは、作る先からボロボロ壊し、何か微細なハプニングに遭遇すると、すぐ「ヘコんだ」と言います。そりゃへこむでしょう。起こったことが悪いのではなく、基礎工事を馬鹿にして手を抜いたから、当然です。


そういう人は、豆腐に当たってもヘコむでしょう。ヘコむ人間は、だからよっぽどのヒマ人か手抜き人間です。やるべきことを忘れない人間は、へこんでもすぐに次を考えます。


人の価値はへこみ方ではなく、立ち上がり方にあります。僕は、学生にはそういうことは言いませんが、隈本さんやお客さんが「ヘコんでました」とか言ってきたら、「ふ~ん、ヒマやね。自分のことしか考えてないから、ヘコむようなヒマがあるんだ。負け犬はそうやって一生へこんどけ」と言うことにしています。

簡単に「分かった」と言う癖が自分の愚かさを加速させていくように、簡単に「ヘコんだ」と言う癖もまた、自分の卑屈さを加速させていきます。口癖は心の動き方の癖ですから、言っていることはいつしか現実になり、その人の血肉、習慣となって頭脳を支配し、いずれは過去と未来を覆い尽くしてしまうものです。


だから、すぐに「ヘコんだ」とか言わないことですね。そう言っているうちは、まだへこんだと言えるような状態とは無縁で、自分を客観的かつ冷笑的に見ているだけでしょう。

本当に落ち込んだら、そんなふざけた流行語では説明できないような怒りや悲しみがあってしかるべきです。観察や批判が働いているうちは、言葉は理性の領域にあります。


最近の学生さんは、僕たちの世代とは違って、ごく小さなことでもC級映画のように「最悪」とか「最低」とすぐに言いますが、これなども下流人間の口癖で、言うほど知能を疑われますから、すぐに止めた方がいいですよ。


昔、インチキ教祖が逮捕された宗教団体で「最高ですか~!」と言う光景が放送されていましたが、学生の間では「最低ですか~!」とあいさつする宗教でも流行しているのかと思ってしまいます。


なぜこうも、金太郎飴のように皆が似通った口ぐせなのか、文化麺類学ならぬ文化人類学のテーマとして、研究してみたいところです。

何にしろ、現実が言葉になるのではなく、言葉が現実になるのです。「へこんだ」、「サイテー」、「疲れた」とすぐに言う人は、すぐにそういう人間になるでしょう。だって、全ての現実をそう処理するんですから。

ぜひ皆さんも、そういう言葉が口を突きそうになったら、意識して止めてみて下さい。おそらく難しいはずです。いかに自分の思考が無意識の潜在心理に影響されているか、よく分かるでしょう。


そして同時に、そういう言葉を吐けば吐くほど、自分の可能性が次々に廃棄処分されているのが、よく分かるでしょう。世間も社会も政府も景気も、誰も学生を邪魔しないのに、自分が両手いっぱいで自分に「通せんぼ」をする姿が見えてくるはずです。ちょっと注意してみれば、日頃の口ぐせがいかに恐ろしい威力を持っているか、よく実感できます。

やろうと思っている、しないといけないのは分かっている。だけど、やらない。この間に介在する要因は「恐怖」です。そして、この恐怖ほど人を疲れさせるものはありません。試してさえいない可能性を想像の中で打ち砕き、自分はダメな人間だと証明する精神的作業は、大濠公園を全力疾走する以上に疲れます。


いつか紹介したように、「諦めは日常的な自殺」(バルザック)だからです。想像の中で毎日何度も自殺していては、それは体力のある若者でも、体がいくつあっても持たないでしょう。日々確実に自分の選択肢を減らし、自ら狭く暗い隘路に未来の姿を押し込んでいくんですから。

かくして、「無為」ほど疲れることはなく、シャーロック・ホームズを書いたコナン・ドイルも、「何もやっていない人間ほど、いつも疲れている」という言葉を残しています。「疲れているから、何もやっていない」のではありません。


何もやらないとは、「やる」という想像を自ら否定することで、中断は着手よりエネルギーがいるものです。何もやらない、何も予定がない、何もしようとしない…これこそ、真夏の百道浜を走る以上に疲れることです。2年前くらいには「本気は疲れない」という言葉を紹介しましたが、その逆ですね。

今日書いてきた内容には、読んでいて腹が立つこともあったかもしれません。おそらく、学生同士では「大したことない」と思って、話題にすらならないくらい、当たり前の言葉ばかりでしょう。


ですが、そういう言葉が「当たり前」だなんて、本当に恐ろしいことです。学生は「どうでもいい」と思います。学生同士だから、変えようとしません。


しかし僕たち経営者は、そういう若者を見て、老人以上に老化している事実を見て取るのです。

そして皆さんは、もうすぐ「社会人」になるわけです。面接ですぐに口ぐせを直すわけにもいきませんから、半年くらいかけて完治させたほうがいいですよ。じゃないと、ちょっと面接で落ちただけで


すぐに「最悪」とか「疲れた」と言ってしまい、自らチャンスを放棄してしまいかねません。


最初から良いことを積み重ねなくてもいいんです。まず「悪いこと」を取り除くのも、立派な将来の準備です。今からでもできることを探しているなら、そういう「無料の努力」から始めてみるのも、いいかもしれませんね