■「内定への一言」バックナンバー編


「随所に主となれば立所皆真なり」(禅語)


筑女のIさん、広島大のSさん、立命館大のTさん、メルマガ296号への温かいご感想、どうもありがとうございます。ぜひ、これからも歴史の勉強を深めていきましょうね。


どういう意見や立場であれ、「生まれた国を良くしたい」という目標以上に、自分の可能性を大きく引き出してくれる夢はないのですから。


さて、今日はインストラクターの大月さんと、久しぶりにゆっくり話しました。ベローチェで会うと、いつも大月さんが3年生の頃、初めて見学(?)に来た時を思い出します。


話題はいつも、FUNの学生たちにどうチャンスを作るか。それから、サポート役としてどういう勉強をしていくべきか、です。


他には「ブログの盛り上げ方」も話しましたが、僕はブログを持っていないので、とりあえず勝手ながら、「クマモト伝説」を連載したらどうかとだけ提案しました。

責任感が強いだけに、一人で作業や悩みを抱え込んでしまうこともあるようですが、後輩思いで優しい先輩だから、学生の皆さん、ぜひ大月さんを応援してあげて下さいね。


あの頃から3年、大月さんも随分と成長したなぁと頼もしく感じた時間でした。牛尾さん、隈本さんと、社会に出ても後輩の応援に努力を惜しまない先輩がいて、本当に心強いですね。


最近の僕は、もっぱら日中は家に引きこもり、「メルマガ300号・総集編」の再編集作業に没頭しています。僕のHPや講義録(240講座)のタイトル編集はお盆前に終わったんですが…。


メルマガは、ワード807枚(79万字!)。まさか、こんなにかかるとは思っていませんでした。2003年秋の携帯メルマガ時代からの作品と、PC配信になってからの3年間、300号の記録を、6分野・26項目に分類しています。

さらに、全作品の中の①人物、②専門用語、③書籍のインデックスを作り、用途別に検索できるようにして、学生さんの理解の便宜を図れるように編集しています。


作成に当たっては、辞書編集の天才・ウェブスターの評伝を読んで手法を参考にしました。きっと、使いやすく役立つ「夢の事典」になると思うので、完成をどうぞお楽しみに。


ちなみに、現段階は「未だ道半ば」なので、もし「私も編集を手伝いたい!」という方がおられたら、ご協力いただけると嬉しいです。希望される方は、メールにてお知らせ下さい。



さて、松原泰道さんの「禅語百選」(祥伝社)といえば、ここ1ヶ月、ずっと僕のカバンの中に入っている一冊で、何人かには紹介した本です。


僕の父方の実家は熊本の禅寺らしく、僕も父も、祖父も曽祖父も、出家したら改名せずにお坊さんになれそうな、他に同じ組み合わせの人を見ない名前です。


ということで、僕も小さい頃から「ウチは元が寺やけんね」くらいのことは聞いていたんですが、それも随分昔のことで、僕も学生くらいまでは、「禅」と聞いても「ただ座るだけやんか」くらいしか思っていませんでした。


それが変わったのが、井上靖さんの名作「天平の甍」(新潮文庫)を学生時代に読んだ時。日本最初の留学生の挑戦を描いた本作品は、海外に夢を描く人の必読書とも言え、とにかく悲しいほど感動的です。


井上作品は、遊牧民族や少数民族のドラマを扱ったものが多く、「蒼き狼」「敦煌」「おろしや国酔夢譚」(いずれも新潮文庫)などは、司馬遼太郎作品と同じくらい好きです。


また、「楊貴妃伝」「氷壁」なども、女性心理を艶やかに彩っていて、そのまま大河ドラマかホームドラマになりそうな作品です。ちなみに、これらの作品は全部、ブックオフで\105で売っていますよ。


でも僕は、やっぱり「天平の甍」がお気に入り。この作品を読んで、聖武天皇の東大寺建立や、太宰府に観世音寺や戒壇院が設立された経緯を知り、太宰府で少年時代を過ごした僕は、なんだか嬉しくなったものです。


鑑真和上をお呼びするまでの、普照栄叡の執念、確執、努力はすさまじいもので、体を張った真剣な学び方に、学生時代の自分を大いに反省したのも懐かしい思い出です。


そんな経験もあって、僕は年に似合わず、仏像を見たりお経を聞いたりすると落ち着くという、あまり友達ができにくい学生になってしまいました。


それから10年、海外で働いたり記者をしたり、自営で食べたり会社を設立したりと、慌しく過ごしてきました。半年ほど前に30歳になり、今では学生さんのサークルをお手伝いするという幸運も、毎週いただいています。


学生さんと向き合うのは、年上の人を相手にするのとはまた違った緊張があって、知識や情報に伝え違いがないかを確認するため、以前よりも注意深く本を読むようになりました。


そんな中で、自分の心を落ち着けようと、昨年ブックオフで手に取ったのが、前出の「禅語百選」でした。


本書は難解で多岐にわたる禅の教えを、一般人にも分かるように懇切丁寧に解説した本で、松原さんの作品を読んでいつも思うように、「例え話の宝庫」です。


なぜ禅が比喩に満ちているかというと、唐~宋王朝から弾圧を受けて修行者たちが山にこもった際、紙や言葉で教えを残すと発覚する恐れがあったことから、草花や空、水、星などに託して仏さまの教えを説明したから、なんだそうですよ。なんだか、歴史を感じませんか。


今、この本を読むのは買ってから4回目なんですが、読んでみると文学、歴史学、地理学、物理学、生物学、天文学などが一つの教えに一体化されたような、奇妙な印象を禁じえません。



京セラの稲盛和夫さん、出光の出光佐三さん、ダスキンの鈴木清一さん、ダイエーの中内功さんなど、老年期を迎えて禅の思想を終生の教えと仰いだ創業者は数知れませんが、会計なども禅の世界の末端にあるような気がしてきます。


松下幸之助さん稲盛さん(ご健在ですよ)の70歳以降の著作を読むと、あちこちに「宇宙の法則」、「万物流転」、「自然の英知」などという言葉が散見されますが、未熟な僕には関係が分かりそうで分からないような、そんな感想のままです。ということで、分からないことを話題にするわけにもいかないので、本書の中で特に学生さんに役立ちそうな言葉を一つ、ご紹介しますね。


それは、「随所に主となれば立所皆真なり(ずいしょにしゅとなれば、たちどころみなしんなり)」という一言です。


「今いる場所で主人となれば、立っている場所全てに真実が溢れてくる」という意味です。


本メルマガを配信してまだ数週間の頃、「今いる場所で努力できない者は、場所を変えても成功しない」という一言をご紹介しました。


それは、試験や面接などでうまくいかなかったり、あるいは準備で明らかに手を抜いたりしている学生さんが、「次はやるよ」とか「今度は違うけん」などと言って、結局いつまでたってもその思考が抜けず、最後は「社会人になったら…」とか言うのを聞いて、「それは違うぞ」と思ったからです。


「いつ訪れるか分からない完璧なチャンス」を待ち呆けながら、現在に対しては「様子見」でいつまでも手を抜く。そんな態度で内定しても、仕事を始めたらオドオドするだけだろう、と思ったわけです。


第一志望の大学じゃないと、学びたいことは学べないんでしょうか。希望の学部じゃないから、今は頑張らなくていいんでしょうか。志望業界じゃないから、真剣に働かなくていいんでしょうか。欠格条件とは、待てば満たされるものなのでしょうか。必要な前提が揃っていないことは、本気を遠慮する理由になるんでしょうか。落ちた大学が模試ではA判定だったと言って、何か免除、正当化されるのでしょうか。


禅では、そのような甘えた思考に対して、皆さんもご存知の「喝!」を食らわせ、肩に痛い一発を見舞うそうです。


「随所に主となれば立所皆真なり」の「随所」とは、「今いる場所」のこと。それは、自分の部屋やバイト先、あるいは教室だったりします。その、普段から慣れすぎていて、自分が100%に近い「受身」になっているような環境の中で「主」となれば、人生に必要なことは全て学べる、と言っているわけです。


ふがいない友達がいるから…「仕方ない」ではなく、「応援しよう!」と考えて「主」となれば、そこではコミュニケーションに欠かせない極意が、無限に学べるでしょう。慣れきって退屈なバイトだから…「テキトーでいいか」ではなく、「面白くしてやろう!」と考えて「主」となれば、そこには経営や会計の秘訣が眠っていることでしょう。単調で先が見えた授業だから…「単位取れればいいか」ではなく、「深めてやろう!」と考えて「主」となれば、そこには底知れぬ深さを持った学問の世界が待っていることでしょう。


つまり、これが「立所皆真なり」ですね。「立っているところは、全て正しい場所となる」と解してもよいでしょう。「必要なことは、今ここに、全てあるじゃないか。眼を開きなさい」というのが、1,000年以上も前の時代のメッセージです。


しかし、現代人は今いる場所で努力を尽くさず、すぐに甘えて「環境が変われば」、「この会社じゃなければ」、「この人じゃなければ」、「秋になれば」などと妄想に走るもの。


そして、そのような妄想に逃避し続ける限り、何年たっても本質的な成長は得られず、お金と時間、健康を少しずつ害していき、最後はじいさん、ばあさんになってしまうというわけです。


足りないのは、条件や設備ではありません。ましてや、お金や時間、協力でもありません。不足しているのはいつも、集中力や想像力、あるいは感謝の心です。


「もっといいもの」は、待っても来ません。就活でも、「運命の出会い」めいたものを期待して、今出会っている会社をきちんと見つめない学生さんもいますが、それではいつまでたっても「なんか違うよね」と言うだけでしょう。


恋愛だってそうです。テレビの影響で「理想のタイプ」とかいう考え方が定着し、誰でも聞かれると「きむたく」とか「小雪」とか言い、あるいは「背が高くてお金持ちで優しい人」と言ったりします。


別に、友達同士ではこれで構いませんが、人生態度までそれだと、またもや「愚か者!身の程を知れ!」と喝を食らうのが、厳しい禅の教えです。


最高の理想のタイプとは、「一緒に理想を描ける人(会社)」ではないでしょうか?その人や会社を信じ、心から愛するがために、一緒に欠点と向き合い、克服し、成長して幸せになっていきたい。


そういうのが、本当の理想じゃないでしょうか。そういう本気の学生には、むしろ会社の短所こそ、志望動機になるものです。

どうも最近の学生さんには、「世の中のどこかに、自分だけのために待ってくれている完全パッケージ化された夢がある」と根拠なしに信じている人も多いようで、僕はそのたびに、「そんなのないよ。でも、今本気になればあるよ」と言って、嫌われています。


そういうのは昔、「シンデレラ・シンドローム」と呼ばれました。景気が上昇基調に入ると、若者の間に広がる群集心理ですよね。


たとえ、完全に理想に近いものと遭遇しても、こちらにそれだけの資質が伴っていなければ、モノにすることはできません。その自分の不足を無視して、対象にだけ一方的に願うのは、支離滅裂な発想だと思います。


つまり、裏を返せば、「随所に手を抜けば、立所皆虚なり」とでも言うべきで、「今ここで頑張らない人は、居場所で余計なトラブルばかり抱え込む」となりがちです。足りないことは、恥ずかしいことではありません。強がって現状を認めず、逃げたり延期したりするのが恥ずかしいのです。


求めていることは全て、学生の今、ここで学べます。そう考えると、なんだか嬉しくなってきませんか?そう信じて、夏の学びに燃えていきましょう