■「内定への一言」バックナンバー編
「学校では、一個の花はばらばらの花弁になり、
歴史の流れは出来事の羅列になりはててしまう」
(マリリン・ファーガソン)
FUN史上最大のヒット作「マネー塾」も、とうとう後半に入りました。毎回学生さんに感想を聞くと、「自分たちが教えられてきたことと、全く逆ですね」と聞きます。それは当然です。日本の学校では「貧乏神の教え」しか教えないんですから。マネー塾の受講以来、周りの学生が…
「給料の高い会社に入るぞ!」
「給料の高い仕事をするぞ!」
「バイトの数を増やすぞ!」
「バイトの時間を増やすぞ!」
「バイトの量を増やすぞ!」
…などと言いながら貧乏になるために日々頑張っている様子が、手に取るように分かるでしょう。学生の皆さんは、北朝鮮の人たちを見たら、「かわいそうに」と思うかもしれません。僕から見た大半の学生も、同じように思えます。マネー塾を受講した方も、同じように「みんな、何をやってるんだ」と感じていることでしょう。
貧しいスコットランド移民の身ながら、苦労して鉄鋼事業を成功させ、USスチールを作ったアンドリュー・カーネギーは、「大事業家になりたければ、大学を卒業してはいけない(「新編・言志四録」井原隆一・PHP)」と言っていますが、それも一理あるなぁ思います。
何と言っても、「成功しない大衆」の悪影響を日常的に受け、発想が枯渇してしまい、しようもないことで悩むようになるのが、マス教育の最たる弊害です。夢が似通うならまだしも、悩みが似通うなんて。しまいには、「お金がないから、○○できない」、「稼ぎが増えれば、楽になる」、「貯金は、お金がある時にしよう」などと、貧乏神に頭の中をきれいに洗脳され、「卒業」となるわけです。考え方の差とは、恐ろしいものです。
「アクエリアン革命」(マリリン・ファーガソン/実業之日本社・1981年・堺屋太一訳)という本があります。FUNで2003年秋に発刊した「就職の常識を変えよう」という冊子で、少しだけ紹介した本です。
本書の中には、現代の日本の教育を予言したような言葉がたくさんあります。「アクエリアン」とは、別に異星人ではなく、「水瓶座」を意味する言葉で、この星座を象徴する言葉が「透明な知性、鋭敏な感性」ということで、社会学者である著者が「これからは透明な知性が必要な時代」というメッセージを込めて、名付けたタイトルです。
例えば…『現代の教育では、子供は転んで膝をすりむくと、アメ玉を与えられる。膝の痛みとアメ玉は本来何の関係もないが、子供は社会的に価値があると思われる物を与えられることで、膝の痛みから目を背けてしまう』という言葉があります。
これと同じように、現代の青年は、「勉強したくない」、「夢を叶えたい」、「やりたいことをやって生きたい」と言うと、途端に親や教師から「そんな成績じゃ大学に行けないぞ」、「まず受験勉強しろ」、「夢なんて持たず、安定した会社に入ればいいんだ」と、頭を押さえつけられ、自分の関心とは違った所に目を向けさせられ、いつしか「学歴」、「会社」、「ボーナス」、「退職金」といった、世間で価値があると「思われている」ものしか考えないよう、教育されていくわけです。
そして、世間的に「価値がある」とされる学校や会社に入ってはみたものの、いざ入ってしまうと目標を喪失し、弱くはかなく漂い始め、自分では何もできない事実に気付いて、社会を恨み始めます。
「他人の頭」で考えることを継続的に強要された子供たちは、学校教育を終えると「やりたいことが分からない」と言い、人生を自分で決定することに大きな恐怖を覚えるようになるだろう、というのです。この本は1981年に初版が出ていますから、これは25年前の言葉です。
さらに「教育活動は破壊活動」と題した箇所では、
『人間の成長期に最大の影響を与えるのは学校教育である。ところがその学校教育が新しいもの、不思議なものを拒否することを教え、意識を目覚めさせようともせず、画一化を教え、ものごとのつながりをわざわざ分断することを覚えさせる。
熱が出たら熱を下げる薬を飲み、血が出たら血を止める薬を塗るという治療法は、実は身体全体のシステムを無視し、局部的な症状しかみていないことになるが、同様に学校においても、知識や経験を〝科目〟別に分けて、本来包括的であるべき全体を細切れに分割してしまっている。
学校では、一個の花はばらばらの花弁になり、歴史の流れは出来事の羅列になりはててしまう。』
と述べています。
渡部昇一さんや山本七平さんも、日本では、いつの時代も塾や専門学校の教育の方が優れているとよく書いていますが、僕も全く同感です。
FUNでは以前「シンボル・アナリストの時代」(竹村健一・祥伝社)という本をみんなで読み、体系的思考や抽象化、関連付けの大切さを学生さんと一緒に考えました。さらに、この本の土台となった「ワーク・オブ・ネーションズ」(ロバート・ライシュ/ダイヤモンド社)も、毎週土曜のBusiness Cafeで読み、あるべき教育について語り合いました(確か1月でした)。
そして「美を求める心」(「考えるヒント3」小林秀雄・文春文庫)も3月に読み、物事をあるがままに捉え、美しさや生命をしっかりと感じる感性の大切さについても、一緒に考えました。いずれも、「あるがままに見る心」や、「体系的関連付け」の大切さを知ってほしいと思ったからです。
例えば、業者が作った言葉で、学生意識に見事にフィットし、立派な「学生用語」として定着した言葉の代表に、「やりたいこと」という言葉があります。学生の中では、この言葉が一種の「免罪符」のように働いていて、これがある人とない人では、生きがいが異なることになっているようです。
さらに就活中であれば、これが「ない」という人は、活動にあまり熱心でなくても、あまり周囲からせかされずに済む、という特権を勝ち得ているようです。さらに、「やりたいことが見つからない」と言えば、大金を出して次の学校に行かせてくれる親もいるようです。
しかし、以上のような考え方は、人間性に照らして、全て間違っています。そもそも、「やりたいこと」を「自分の興味」に重ねて考えるのが、最初にして本質的な間違いです。
「見つかる」という言葉とセットで考えるのは、メルヘンチックと言うほかない奇妙さです「やりたいこと」と言うより、ある事柄を「やりたい」と思うには、自分ではなく「他人」の喜びを基準にしなければ、楽しさややりがいも生まれようがありません。
例えば、「弁当屋さん」という仕事で考えてみましょう。日本語が分かる人なら、これが何をやる仕事なのかは、考えるまでもなく理解できます。「人に代わって、食事を作って提供する仕事」です。
これを「自分の興味」と照らし合わせれば、当然、「興味の有無」が基準となって、「いやだ、食べる方がいい」とか、「料理には関心がない」という人も出てくるでしょう。
しかし、「人の喜び」と関連付けて考えるとどうでしょうか。「忙しい人」が、「ありがとう、おいしかったよ」と言ってくれ、栄養が足りない生活を送っている人が「食べ始めてから、元気が出てきました」と言ってくれ、お金に余裕がない人が「安いのにすごくおいしくて、いつも食べるのが楽しみです」と言ってくれたら?
あなたが届けるのは、「弁当」ではなく、「幸せ」だということが、よく分かるでしょう。それはもはや、大半の人が連想する「弁当屋さん」ではないはず。「自分の興味」ではなく、「社会」や「人間」と照らし合わせると、どんな仕事も独自の楽しみや意義を持って、心に迫ってきます。
学校教師の大半はマルクス主義者ですから、共産主義の教義である「唯物論」に従って、世の中の全てを「モノ」思考でぶった切って教え込みます。それに従えば、弁当屋さんの売っているモノは「弁当」以外の何物でもありません。
関連付けを教えられていない頭脳では、弁当とは「コメや野菜が混在した物体」でしょう。そして、モノ中心の思考では、「忙しい人、栄養が足りない人、資金的余裕がない人に、食を通じて幸せを届ける」という「コト」は、考えられないでしょう。
FUNの就活対策で、秋から徹底して「モノ⇒コト」の業界研究を行うのは、サラリーマン的唯物論から、経営者的幸福論への転換を図るためです。
一体どこの社長が、「コメと野菜が好きだ」とか「魚に囲まれていたい」と言って、弁当屋さんを始めるのでしょうか。社長たる者、「日本人の食生活を変え、健康な食生活を復活させるには、弁当だ!」と、コト(使命)に着目して起業するものです。
就活で社長さんの話を聞いた人は、誰も「やりたいことがやれて幸せ」とは言ってなかったのを覚えていますよね。おそらく、「お客様の笑顔が何よりの幸せです。ありがとうのためなら、どんな苦労でも耐えられる」と言っていたでしょう。
幸せは、「関連付け」の才能次第で、いくらでも増大します。自分の興味としか関連付けられない人間に、生きがいや幸せなど、存在しません。だからFUNの就活対策では、学校教育が植え付けた「社会主義発想」を破壊し、仕事を作った社長さんの創業の情熱、人々へのいたわり、社会への希望といった視点から、仕事を研究しているわけです。
「自分の行動=人々の幸せ」という視点で業界、企業の魅力を知れば、地方大学出身で、業務とは全く縁のない学部・学科の人でも、東京の有名大学の学生に勝てるわけです。
その時の動機は、「やりたいこと」ではなく、「せずにはいられないこと」に高まっています。こういう気持ちの前に、疲れや愚痴は存在しません。