■「内定への一言」バックナンバー編


「金がない人に金を与えるのは、拷問に等しい」



最近NHKで放送されたという「ワーキング・プア」の番組について、教育問題や雇用問題に敏感なFUNの学生さん数人から、「どう思いますか?」と聞かれました。僕は見ていませんが、番組のあらましを聞いて、「それは氷山の一角だ」と感じました。


見ていないので、立ち入ったコメントは避け、雇用問題に関して、現場で関わってきた者としての意見を述べるに留めます。

ワーキング・プア」というのは、働いても働いても生活水準が向上せず、次の段階に移行する準備すらままならない人々のようです。要するに、フリーターの数年後の姿です。


本題に入る前に、いつも思うんですが、日本のマスコミは、なぜ深い問題提起を含んだ現象を、こうしていつも英語にしてしまうんでしょうか。「富むことなき貧者」とでも言えば、問題の性質も分かりやすくなるのに。

ワーキングホリデー」も、「ワーホリ」と略されているようですが、こんなのも「働く休日」と言えばいいんです。根本的に矛盾した言葉の組み合わせで、要するに「フリーターat海外」です。


日本でまともに働けない人間に限って、海外に行くなど「場所を変える」ことで、何かチャンスがあるのではと希望を託す若者は、昔から大勢います。でも、そんなのは夢のまた夢。


日本で働けない人間が、海外で通用するわけがありません。僕は海外で働いている時、「とにかく海外」という思いで、サービス業の単純労働をしている日本人を何人も見ました。

言っちゃ悪いけど、「日本でも通用しなかったんだろうな」と感じざるをえない生活をしていました。英語はそこそこしゃべれますが、内容はビジネスとはかけ離れた接客用語に過ぎず、聞いていて発展性のないものでした。


おそらく「英語を身に付けたい」とか思ったんでしょうが、「英語で」とは考えなかったんでしょう。何を伝えるか、何をコミュニケートするかが一番大事なのに、そういう本題は全く考えなかったようでした。

こういうふうに、海外に行って日本のフリーターと変わらない単純労働をしつつ、異国で外国人と働いているだけで、さも価値ある体験をしているかのように錯覚する日本人は、後を絶ちません。
彼らは、英語を話すことには関心を持っても、英語でビジネスを作ることは全く考えません。


つまり、話題や生活が発展しない点では、恒常的に「言語障壁」に直面しているのと同じです。接客の用語は、基本的に中学生レベルの日本語で間に合います。接客が質が低い仕事と言うわけではありません。


ただ、同質の行動を反復し、給料の上がり方が最も遅く、低く、展開性の狭い職種であるのは事実です。対象者が多い仕事ほど給料が安いのは、需要と供給の原則です。


さて、「ワーキング・プア」とは、この言語障壁が母国語で発生することから起こる問題でしょう。「日本にいながら、日本語で働けない」ということです。今というか、数年前から、小学校の算数の点数が下がっているそうです。


理由はなんと、「問題文が読めない」という国語の問題です。算数の問題を解く前に、それがどういう問題であるかを説明する日本語が読めない、というのです。なんとかわいそうなことでしょう。

これは、フリーターと全く一緒だと感じました。フリーターの国語能力は、中学レベルで止まっているケースがほとんどです。


昨今は、フリーターが多いとか言われますが、要するに「大学が多すぎる」だけ。特に、ここ2~3年でもったいぶって「国際」とか名称を変えた大学は、「中華」と変えるべきではないでしょうか。日本人の大学生が集まらない現実を、「国際」という言葉でごまかしているだけです。

「中国人がいないと大学が倒産します」というサインで、政府の補助金を当てにしている点では、「国債大学」という名称でもよいでしょう。


金儲け主義の大学が、誰もいない時期に純粋な高校生を招く「オープンキャンパス」という名のクローズキャンパスで夢を描いた若者もまた、かわいそうです。「全入時代」を来年に控えた今年は、私大の4割が「定員割れ」ということですが、バブルと一緒で別に「下がった」のではなく、「正常な状態に戻りつつある」だけ。不適格校は市場から追放されるだけのことです。

大学職員も教員も、これでようやく、受験生が味わってきた不安や苦労を、当事者意識を持って感じられるようになるでしょう。「競争の原理」(渡部昇一・堺屋太一/竹井出版)に詳しく書いてありますが、生徒にだけ競争させて、先生の側に競争がないのはいびつな状態です。


巨額のカネをもらっている大学の人間が、厳しい選別と淘汰にさらされるのは、酷でも何でもなく、むしろ当たり前のことといえるでしょう。「元教授のフリーター」が、数年後には夜のファミレスにいるかもしれませんね。

ここで一つ、「言語障壁」の事例をご紹介しましょう。数年前に、僕の会社の採用面接を受けに来た、40代後半のおじさんの例です。


このおじさんは面接に来るなり、「私には800万円の借金があり、子供が3人います」と切り出し、僕に質問をさせず、延々と身の上話を繰り出してきました。僕より20歳近くも年上だったため、丁重に聞いたのですが、「なんと事実が見えていない人なのか」と驚きを隠せませんでした。

おじさんが話の中で何度も繰り返したのは、「働く意欲は誰にも負けません!」という言葉でした。なるほど、顔や声は、そうとも感じられる様子でした。しかし、僕は結局、採用をお断りしました。「お願いします!」、「やる気はあります!」と頭を下げられても、申し訳ありませんが、採用する気にはなれませんでした。

それは「誠意」という種類の情熱なのかもしれませんが、経営者である僕には伝わらない誠意だし、採用する必要のない誠意だと感じたからです。「働く意欲」と、おじさんは言いました。ものすごく真剣な表情でした。だからこそ、僕は採用しなかったのです。

考えてもみて下さい。「意欲」とは、そもそも自発的に働く動機のことです。誰から命令されなくても、一人の時でも保てる気持ちを「意欲」とか「やる気」と呼ぶのが、常識的な判断です。サラリーマンが会社の仕事を頑張っているとか、学生が大学の勉強を頑張っているというのは、意欲ではありません。


それは、組織の構成員として、外的な動機付けで作業をこなしているだけです。もし、仕事以外や大学以外で知的好奇心を形に変えたり、自発的な動機に基づいて行動を重ねていたりすれば、そこで初めて「意欲」と呼べます。

だから、意欲があるかどうかを判定するのは簡単です。同世代の平均値と比べて、収入、貯蓄、知識、能力のいずれかが、飛び抜けて優れていればいいわけです。人と同じことをしても、まず目立った差は付きません。みんなで下流生活に突入していくだけでしょう。


そこから這い上がるため、あるいは将来の価値ある目標を達成するには、組織が「年齢や責任にふさわしい」と判断して割り当てた作業以上の「+α」をこなさないと、頭一つ抜け出すのは不可能です。それを可能にするのが、意欲ではないでしょうか。


つまり、本当の意欲がある人間なら、失業したり借金で苦しんだりすることは、ありえないということです。このおじさんだけではありませんが、就職面接において、「やる気」という不可解で抽象的な資質を表情と声で演出し、自分の意欲は誰にも負けないと言う人ほど、意欲がない人です。


聞いてみたいんですが、過去において、入試が終わった後の勉強や、仕事が終わった後の勉強や、責任を果たした後の成長などを、一度は成し遂げてみたことがあるんでしょうか。そのような「エクストラ」の努力を、自らの意欲で実行したことがあるのでしょうか。

おそらく、ないでしょう。「やった~!終わった~!」と喜んでいただけでしょう。このように、意欲ではない気持ちを、「意欲」という言葉に変装させて説明しても、そんな言葉のごまかしは通用しません。


こういうケースの人が「意欲」という場合は、9割以上が「支払いの恐怖」、「失業の不安」という言葉を「意欲」に置き換えているだけ、と見るのが妥当です。

つまり、日本語を日本語に翻訳してみれば、「意欲だけは誰にも負けません!」「支払いの恐怖だけは誰にも劣りません!」と言っているのと同じです。要するに、具体的な恐怖を示されないと努力に着手できない人間で、試験や仕事、支払いが終わると、すぐにまた「これくらい、いいか」と怠慢、浪費生活に逆戻りするというパターンを繰り返し、いつしかそれが骨髄までしみこんでしまったのです。

「試験前は必死」。なるほど。そういう末期症状は、企業会計では「特別利益」という性質の努力でしょう。本業で稼げず、財務状態も悪い会社が、損益計算書で利益を確保するためにやる小手先のごまかしと、何ら変わりません。資産処分で利益を確保した。


つまり、「土壇場の努力で支払った」という会社が健全な経営をしていると判断する株主は、いません。

人間も全く同じです。平素からの努力が伴っておらずに苦境に陥り、土壇場になって真剣なふりをする人間ほど、信用できません。たとえ「意欲」という立派な言葉を使おうと、顔が嘘をついています。無能な人間ほど、無茶やアクロバットに頼って「幸運」を期待するものです。貯金が少ない人間が宝くじの行列に並ぶのと同じですね。


僕は、こういう方々の自己欺瞞を矯正し、経済教育や職業教育を基本から提供する仕事をしています。だから、多大な情熱とともに、厳しい指摘を行うことも、あえて遠慮しません。

「働く意欲は負けません!」と言う若者もたくさんいます。なるほど、声はでかいです。 だったら、その意欲とやらが過去どういう形になったかを、具体的に証明みて下さいと聞くと「未来で勝負したいです」と逃げます。


勝負になるわけないんだって。なんという甘さでしょうか。あぁ単にカネがないんでしょう。どういう言葉を使おうが、心の中はスケスケです。言葉を飾る人ほど、本心が分かりやすいものです。

年齢を問わず、こういう人ほど「お金があれば、楽になる」と思い込んでいます。果たして、そうでしょうか。今までも、収入が高かったかは分かりませんが、一応のお金はあったはずです。


月に15万とか30万とか、それくらいの金額はもらった経験があるでしょう。して、そのお金はどうなったのでしょうか?

答えは「負債」になったのです。つまり、「お金があったから、余計苦しくなった」ということ。なのに、「収入が増えたら、楽になる」と思っているなんて、これも立派な言語障壁です。楽になんて、なるわけない。


今までだって、得たお金を散々、「今の楽しみ」のために浪費してきたのです。だから、人に勝る知識や能力が、履歴書のどこを探しても、一つとして見当たらないのです。

お金がない人を見ると、確かにかわいそうです。僕も創業で、資金繰りの苦しさを味わいました。ただ、極度の節約を継続し、将来の見通しに従って行動することだけは怠りませんでした。「こうすれば、こうなる」という会計的な見通しがついていれば、一時的にキャッシュフローが停滞しても、何とか乗り切れるものです。


だから、目先のカネは求めず、どんなに苦しくても「仕組み」や「信用」を最優先して耐えました。

でも、お金がなくなってから、「お金が欲しい」と考える人は最悪です。生まれついての「貧乏神の信者」と呼んでよいでしょう。こういう人にお金を与えると、すぐに使います。1ヵ月後には、何も残っていません。まさに、「拷問」と呼べる状態です。


お金持ちが「必要なもの」を買うなら、貧乏人とは「欲しいもの」を買う人たちです。「欲しい」とは、今の所得や貯蓄を基にして程度が変わる感情ですから、持っている「限度額」に見合ったモノが欲しくなるのです。

つまり、「貧乏指定席」を自ら先物予約し、確実に買い付けているわけです。よって、欲しいものを買う人間は、例外なく貧乏になります。欲しいものがあるからこそ、今を「必要なもの」で耐える人だけが、余裕を作って資金を蓄えることができます。


余分な知識や経験も、さらに高等な教育も、その貯蓄から可能になるわけです。こういう人がお金を手に入れると、減りません。お金とは、たくさん得たって豊かにはなれないもの。使い方の方が、稼ぎ方より何倍も大事です。貧乏人とは、「お金とは、使ったら減るものだ」と思っている人と呼んでいいでしょう。減るから、もっと収入を作りたくなる。この気持ちこそ、「ラットレース」の立派な始まりです。

よって、20代に

必要なものより、欲しいものを買う。

お金とは、使ったら減るものだと思っている。
収入が増えれば、今の生活も楽になると思っている。
意欲が客観的な成果になっていないのに、意欲を当てにしている。
期限が迫らないと、必要な努力に着手しない。

という人は、将来のフリーターやワーキング・プアの条件、つまり「貧乏哲学」を、立派に兼ね備えているといえます。あとは、卒業して時間がたてば、自動的に下流に流れていくでしょう。僕が見てきた「限界ギリギリの貧乏人」は、大卒であろうが、皆この5つを備えていました。

「ワーキング・プア」の人たちは、テレビではかなり悲劇的だったそうです。テレビだから、分かりやすく感情移入しやすい事例を集めたのは当然でしょうが、おそらく、収入の低さが問題ではないでしょう。


僕は人にお金を投資する時は、「少ない金額をどう使うか」を見て判断します。収入が少ない時の方が、貯金しやすいもの。多いと誘惑も増えるし、少ない時に貯金の辛さに耐えられる人は、収入が増えると成功します。

「ワーキング・プア」の人たちも、フリーターも、その生活をよくよく観察すれば、月に5,000円とか1万円くらいは貯金できるはず。というより、本当にその生活から抜け出したいと思っているなら、それくらいの努力はできて当たり前です。


でも、貯めません。ちょっと稼ぐと「自分へのご褒美」とか言って、すぐに使ってしまいます。その「ご褒美」が自分を破滅させていることに、本人だけが気付きません。そういう人間を、誰が応援するというのでしょうか。かわいそうですが、自分でやることをやってからじゃないと、誰も応援できませんと言うほかありません。

僕も随分多くの「夢があります」と言う人を見てきました。夢の下積みのために、フリーターとして頑張っている人もいました。彼ら、彼女らの収入や貯金は、確かに高いとは言えないものでした。でも、その先は全く違っていました。

伸びる人は、お金を得たら、真っ先に貯金します。反面、ダメな奴は、バイト代が入ると外食に行ったり、行く喫茶店が豪華になったりします。自分の収入が月に「15万円(日給5,000円、時給625円)」にも満たないのに、しかも「夢がある」とか言って人前ではそれなりに振舞っているのに、お金が入ると傲慢になって、最初に自分にご褒美をあげるのです。


僕はそういう人を見ると、たとえば一緒に何らかの仕事をやっていて、それまでどれだけ親しかったとしても、一日にして「こいつはダメだ」と見切りを付けます。

過去、損切りをしてきたのは、親が病気だったり、弟や妹が就学中だったりするのに、給料日になると日頃はベローチェだったのが、スタバに変わったりするような人間です。たかが200円の差です。僕に御礼をしろとは言いませんが、苦労をかけている親や兄弟のために、たとえ一日200円でも積み立てるのが、あるべき姿じゃないかと思ったからです。


そういう人間からは、支援も協力も引き揚げます。「経済制裁」めいてますが、自分のお金を大事にしない人間に、常識的に仕事やお金は任せられないでしょう。

僕は過去、社員の給料が払えなかった間は、一本もジュースを買いませんでした。そして、オフィスの水道水を飲んでいました。真冬でもエアコンを付けませんでした。携帯は解約して安いものに変更しました。生命保険も解約し、毎日もやしばかり食べました。


それを見て、助けてくれる人がいました。かわいそうだから、じゃないんです。「本気で節約してるな」と認めてくれたからです。

僕は、創業の時期にそうして助けてくれた人たちには、将来にわたって恩返しをしていきたいと考えています。不義理を働いた人もいますが、それは行動をもって償いたいと、努力の源泉になっています。

皆さんも、「学生だからお金がない」と見られたり、自分でも思ったりするかもしれません。しかし、金額の問題ではありません。ギリギリまで切り詰めて、将来の自分を信じてコツコツ積み立てていく姿こそ、無限の信頼を招くものです。そういう人は、たとえ苦難に陥っても、「力にならせてくれ!」と仲間が集まってきます。だから決して、フリーターやワーキング・プアになりません。

雇用と教育の問題は、簡単には片付けられないことが多いですが、その分チャンスが潜んでいます。だからこそ、僕はこの分野で事業をしているわけです。本メルマガの読者には、そういう話題に興味がある方も多いと思うので、今後も折を見て扱っていきたいと考えています。内定なんて、始まりの始まり、ゼロに過ぎません。内定してからが大事です。仕事とお金の知識、ぜひ磨いておきたいものですね。