■「内定への一言」バックナンバー編
「社会福祉と経済の不思議な出会い」(十八・六・ニ八)
■わが国の少子化の特徴
先週読んだ新聞記事に、「二十三世紀には日本人の数は数千人に」というものがあった。
良い見出しの条件である「ギャップ」効果に、私も記事を詳しく読んでみた。なにせ、「人口が数千人」というショッキングなニュースである。二十三世紀といえば、当然私はこの世にいないが、その数には目を疑った。
このニュースは、既に懸念されて久しい「出生率」の分析で、それが一・三を割り込むと人口の純粋な「拡大再生産」機能が失われ、時間の経過に任せて絶対数が減る…という少子高齢化の基本的統計の最新版だった。
「増税」を唱えれば、有力政党の候補者でも落選していた数年前と比べ、今では「少子化対策の増税ならやむをえない」と、世論も納得するわが国の喫緊の問題が、少子化だとされている。
しかし、いずれの国でも歴史上、人口減少が自然に続いたケースはない。人口構造が一巡し、少なく豊かな世代が親の代になると、人口は自然増に転じるのが世の習いである。
ところが、そんな歴史の事実に気を配る余裕がないのが、わが国の実情だ。なぜならわが国の少子化は、上の世代と比較した場合の相対的現象であることから、必然的に「財政負担」と関連付けて議論されるからである。
わが国の議論の出発点は、「このままだと、将来の子供たちは兄弟ゲンカもできないぞ」という人情的な心配ではない。
「このままだと、将来の年金制度が崩壊するぞ」とか、「このままだと、将来の子供たちの家計負担が増大するぞ」という経済的な心配なのだ。
従って、出生を待望されている赤ちゃんたちは、「生産力」として期待されている面が強い。期待が高じて、たくさんの赤ちゃんを授かった家庭には補助金を出したり、出産費用を部分的に肩代わりするような自治体もあるという。
我々日本人は極端な妄想が好きなので、あくまで「試算」としてはじき出しただけの数値であっても、いざその数字を見てしまうと、極端な措置を取らないと落ち着かなくなるのだろう。
■福祉や医療は本当に「外部不経済」か
そんな現在を「遠い未来」として描き、貧しかった日本を発展させようと、兄弟や家族と力を合わせ、明日の日本のために全てを捧げてきた方々は、今は「高齢者」となっている。
戦争や病気、栄養不足で多大な苦労を背負いながら、若い頃の質素倹約、粗食の美徳を貫いて生きてきたお年寄りの方々は、我々若者よりも健康である場合もある。
それが、ただ頑張って生きてきただけなのに、息子の世代が借金漬けの国を作り上げたため、孫の世代に子供が減ってしまい、相対的に「多い人たち」になってしまった。人間は、六十歳や七十歳の状態で生まれることなど不可能なのに、後から生まれた世代が少なかったために、「高齢者が多い」と言われているのだから、いい迷惑だろう。
年を取れば、病院や福祉施設のお世話になる機会も増える。労働に従事する体力はなくなるので、趣味や余暇を楽しむのが生きがいになり、経済統計では、このような方々は子供、主婦と合わせて「従属人口」とされる。
「労働人口」たる父親が養う対象(収入に従属する人々)、ということだ。ただ、高齢者が子供や主婦と違うのは、子供は将来的に、また主婦はいざという時に労働を提供して収入を作ることができるのに対し、高齢者は「出超」、つまり「出るしかない」ということだ。
生産しないのに消費する、働かないのに人の世話になる。さらには、時々体調を崩し、ひどい時には入院してしまう…というのが、「純・従属人口」とされる理由だ。
これは、人間の一生を考えると、中年で死ななければ必ず発生する時間で、昔はそういうお年寄りを家族が支え、一生の苦労に恩返ししようと感謝して接していた(らしい)のに、今の日本人は気持ちに余裕がないのだろうか。
私は経済学部の学生だったが、①病人を治療する医療、②生産しない老人のお世話をする福祉、③相手が「自然」であることから収入が得られない環境破壊や公害などを総称して「外部不経済」と呼ぶことを知り、驚いた記憶がある。「国家や地域の経済活動に参加していない、金を食うだけの余剰部門」という意味である。
要するに、まともに働いて「ピッチ上で戦っているプレーヤー」が父親を中心とする社会人なら、ケガや故障、実力不足、あるいは反則で「ピッチ外で待機しているだけの選手」は不経済な存在だ、というのだ。
手っ取り早く順位や効果が分かる統計が好きで、戦前は外貨保有高、戦後は一貫してGNP至上主義を標榜してきたわが国には、この「サッカー式の経済観察」は、確かになじみやすかっただろう。
それにしても、不経済。つまり「無駄」である。私は学生時代、「自分が将来年を取った時、こんな呼び方で総称されてはたまったものじゃないな」と感じた記憶がある。
もっとも、今では低生産の「悪くない外部不経済」としてのフリーターという新たな余剰部門も誕生、定着し、政府を悩ませているが。
働けるのに働かない若者、働く人を支え、育てる主婦も時々世論に批判されるが、高齢者への批判は、私は個人的に祖父母にかわいがられたこともあって、時々我慢できなくなる。
だいたい、国家財政に迷惑をかけようと思って生きてきたわけでもなく、国のためを思って税金を納め、次世代を産み育て、国民としての務めを果たしてきた人たちを「不経済」扱いするのは、それこそ不敬罪に値する言動ではなかろうか。
老人が頑固だとか、融通が利かないとか、世話がやけるというのは、いつの時代も同じことだ。昔の人たちは、それを知って軽くあしらいながらも、心の中では尊敬の気持ちを持って接していただろうに、今の世論では軽々しく「老害」とか「老人駆除」という言葉を使い、自分がもし老人だったらと思うと恐ろしい社会になってしまった。
■少子高齢化だから成り立つ新事業
現在の日本社会を覆うのは、まるで「子供が産めないのは、父親の低収入と祖父母の負担が原因だ」と言わんばかりの世論だが、今の人口構造をよく観察してみると、面白い形で裁定取引が成り立つことが分かる。
事業の基本は「困っている人」を見つけ、その「悩み」を解決することだ。今の日本で誰が何に困っているかと言えば、たとえば少子高齢化と聞いて「我々に関係がある」と思う人々であれば、「子供が減って困っている」という保育園と、「老人が多くて困っている」という家庭だろう。
一方は少なさを、もう一方は多さを悩んでいるのだ。そして、この二者の共通点は、「体力がないからあまり動けない」ということだ。
私はそこで、数年前から次のような事業を考えてきた。「地域のお年寄りをローテーション化して、保育園の先生になってもらう」という事業だ。今の保育園は、昔より月謝が高い。
少子化だから割高にせねば経営が持たない事情もあるだろうが、もう一つの理由は「ただ預かるだけ」では差別化できず、英会話や茶道、水泳などの習い事もセットになっているからだ。
職員や施設の収入を維持するため、今の子供たちは5歳になるかならないかのうちに、既に忙しい生活を送っているわけだが、これで本当に忙しくなるのは父親で、大学の学費はおろか、保育園の月謝ですら頭が痛いという若い夫婦も多い。
しかし、かわいい子供のためには仕方がないので、あと十数年、我慢するというわけだ。親として立派な姿だが、並大抵の苦労ではないだろうし、「子育て=金がかかる」という印象が強まるのも無理はない。
では、その保育園の先生が、「近所のおじいちゃんやおばあちゃん」だったらどうだろうか。二世代を育て、人生経験も知識も豊富で、赤ちゃんに対する忍耐力や愛情も強く、子供が大好きなお年寄りなら、年金収入もあるので保育園の先生を正式な職業とする必要もなく、一日三、四時間のパート労働でもよい。
子供にはゲームやキャラクター物で遊ぶよりも、昔の遊びを覚えて友達をいっぱい作ってほしいと願う親は多いだろうが、お年寄りならそれができる。民謡を歌って聞かせたり、童話を読み聞かせたりすることもできる。
そんなことで、「あと少し」の現金収入が入るなら、お年寄りの方々も喜ぶだろうし、月謝が半分か三分の一になれば、親も嬉しい。さらに、人生経験豊富な方々から面倒を見てもらえれば、母親も安心して働けるだろう。
もちろん、大切な子育てだけに適格者を選ぶことも大事だが、これだけでも現在の家庭が抱えている①育児負担の増大、②老後の収入の減少、③幼児教育の安全低下、④地域コミュニティの減少、という諸問題の解決に、かなり貢献できるのではないだろうか。
老人は経済的尺度で見れば「生産しない過剰在庫」かもしれないが、中には未来の日本を憂い、昔ほどの体力はなくても、小さな子供たちに自分の経験や知識を伝えたい、と思っておられる元気なお年寄りもたくさんいる。
そんな方々の経験や知識まで、本当の過剰在庫にしてしまい、地域で活用せずに「あらあら、おじいちゃんは寝ていて下さい」と言っているようでは、本当に寝たきりになってしまう。
それに、戦後の「祖父母に会うのは盆と正月だけ。有り難いのはお年玉をもらう時だけ」という冷たい社会が失った地域のつながりも、人間本来の姿に根ざした健全な形で再建できるのではないだろうか。
幼い頃、おじいちゃん、おばあちゃんの大きな手で頭を撫でてもらった、というような温かい思い出に裏付けられない「介護」や「福祉」といった言葉など、単なる抽象論、技術論でしかないだろう。
そんな社会が高齢化を迎える頃を予測して、三十年も前に書かれた山本七平氏のある本には、「敬老の日」が「軽老(老人を軽んじる)」となり、果ては「刑老(老人が刑務所に入る)」となるだろう、と書かれている。
たとえ老人ホームを不動産事業化し、若者をヘルパーに育てて「アウトソーシング」でうまく解決できたとしても、そこに人間の愛情が通わないシステムが健全に機能するはずがない。
私は企業経営者で、福祉のことは何も分からないが、博多区のある病院で社会福祉士として働く高校の同級生と話していると、病院や福祉施設には、本当に経済観念が希薄だといつも感じる。
彼女の話では、職員の中には「営利目的でないこと」を誇る者もいるそうだが、それは要するに「他人のカネ」で成り立っているだけの話で、誇るべき性質の話ではない。「非営利」でも、自分の拠出金で運営できなければ、営利以下である。暴利を目的とするのはいただけないが、利益を目的にせねば、一体誰が家庭を支え、経済を活性化させるというのだ。
「利益目的はダメだ」と言う人間ほど、他人の利益を食いつぶして生きているものだが、そういう人に限って利益を批判し、「儲かっていないこと」を誇るという奇妙な精神構造を持ちやすい。
まるで、「夫婦やカップルは過剰欲望主義者で、もてないことこそ素晴らしいのだ。一人の人間が一番レベルが高いのだ」とでも言っているような倒錯した心理だ。
「もてないこと」を認めない人間がカップルを恨むように、稼げない人間は稼ぐ者を批判して自尊心を満たす。経済の勉強を始めた友人にこの点を話すと、「病院とか福祉施設は、まさにその通り」とのことだった。
付け加えて、「いい人が多いんだけど、お金のことは院長も含めてさっぱりかな…」とも言っていた。さらには、「寄付」や「援助」を期待するのが当たり前で、「組織を経営する」という概念が全く問題にされず、「福祉はお金を生んではいけない」、「福祉は奉仕だ」という観念が根強いということだ。
私は記者時代、異業種交流会で彼女と話すまで、「福祉の人間には経済のことは分からんだろう」と決め付けていたし、彼女も彼女で、「経営者はお金のことばかりで、思いやりなんてない」と決め付けていたらしい。
それが、話してみると意外な接点が見つかり、それをクローズアップすると新たなビジネスチャンスが生まれたのだから、異なる分野で働く人の意見ほど、参考にしてみるものだ。
今回ご紹介した仮説は、事業としてはトントンの利益しか期待できないだろうが、それ以上にお年寄りや一般家庭に対するメリットが大きいだろうから、私は三十五歳くらいから手がけてみようと思っている。
もっとも、FUNから「そういう事業なら、ぜひやってみたい!」という学生が出てくれば、私はベンチャーキャピタルになって「FUN保育園」を応援し、ベビーシッターにでもなれたら、と思っている。
日本社会が失った家族愛、郷土愛、人間愛を復興させるには、少子高齢化こそ絶好のチャンスだというのが、私の意見である。